第138話 劣勢

 男が放った咆哮は竜夫の耳を深く貫いた。強烈な爆音によって聴覚が完全に遮断される。


 耳をやられ、わずかに目を離した隙に、正面に立っていた男の姿が消えていた。それを認識すると同時に感じられたのは上部からの気配。竜夫は前に飛び込んで上からの急襲をなんとか回避して、振り向く。


 そこには人型の竜と化した男の姿。身体は固そうな鱗に覆われ、両腕は禍々しく鋭い形状へと変化していた。これが、あの男の能力なのか。


「……っ」


 敵を目の前にし、戦闘が始まっても、あの青年が残していった置き土産の効力が弱まることはない。身体は重く、倦怠感に襲われたままだ。


 さらには、先ほどの咆哮によって耳も塞がれた状態だ。延々と耳鳴りのような音が木霊している。聴覚に関してはいずれ復活するだろうが、いまの状態で感覚が一つ潰されるのは間違いなく危険である。


 竜夫は刃と銃を創り出した。


 自分の状態が悪くとも、この場を乗り切らなければならない。相手はこちらの状況など知ったことではないのだ。そうしなければ生き残れないし、もとの世界に戻ることも、みずきを守ることもできなくなる。なんとしても、最悪の状態でこの戦いを乗り越えなくては。


「――――」


 竜人と化した男がなにかを言う。先ほどの咆哮によって聴覚を潰された竜夫には、あの男がなにを言ったのはまったく聞き取れなかった。


 男はこちらに向かって踏み込んでくる。一瞬で五メートルほどの距離を詰めてきた。竜夫はそれを迎え撃つ。


 接近してきた男は鋭く禍々しい形状へと変化した腕を振るってくる。竜夫はそれを刃によって迎撃――


「く……」


 敵の攻撃にタイミングよくこちらの刃をぶつけたものの押し負け、後ろへと追いやられた。姿勢がわずかに崩される。


 当然のことながら、姿勢を崩した男はそのわずかな隙を逃さない。もう一歩踏み込み、禍々しく変化した腕で貫手を放つ。鋭く変異した腕で身体を貫かれればひとたまりもないのは明らかだった。竜夫は姿勢を立て直しながらも、男が放った貫手を防御。


 しかし、男の鋭い腕とぶつかった刃はガラスが割れるような音を響かせて破壊されてしまう。刃を破壊された竜夫は左手に持った銃の引き金を引くが、男は飛び上がりつつ翻って銃弾を回避し、蹴りを放つ。男の踵が竜夫の側頭部へと突き刺さった。蹴りが直撃した竜夫は、横へと大きく弾き飛ばされた。近くにあった建物の壁へと叩きつけられる。


 蹴りの直撃と壁への衝突で、竜夫の身体は揺さぶられる。視界が音を立てるかのように歪み、揺れていた。それはまるで、この世界に存在する自分以外のものすべてが揺れているかのよう。


 だが、それでも立ち上がらなければならない。竜夫は揺れる世界に耐えながら立ち上がる。再び刃を創り出す。どれだけ悪い状況であろうとも、ここで立ち上がらなければ終わりだ。


 目の前に立つ男は余裕だ。それも当然である。相手はまだダメージを受けていないのだ。男は禍々しく変化した異形の顔をこちらに向け、観察するような目を向けている。


「ふん」


 かすかに男の声が聞こえてきた。どうやら聴覚は回復しつつあるらしい。


「どうやら相当に弱っているらしいな。あの若造がなにかやっていったわけか。腹立たしいが、都合がいいのは間違いない」


 異形と化した男は極めて冷徹に言った。


「では、さっさと死ね。お前自体はまったく必要ではないからな。不要なものはさっさと処分するのが道理だ」


 目の前に立つ男は、両腕をだらりとさせ、脱力したような状態となる。脱力したような状態であるにもかかわらず、隙はまったくなかった。


 壁を背にした竜夫は左手に持つ銃を消し、刃を両手で持って迎え撃つ。


 男は、脱力した姿勢から地面を蹴って前へと踏み出す。竜夫もわずかな間を置いたのちに、男の動きに合わせるようにして、前に一歩だけ踏み出した。竜夫の刃と、異形と化した男の禍々しい腕がぶつかり合う。


 しかし、ぶつかり合いは先んじた男に軍配が上がった。竜夫の刃は男の腕によって押し返されてしまう。


 竜夫を力で押し切った男は続けて逆の手を振るう。竜夫の命を刈り取るべく、禍々しい異形の手が振り下ろされた。


 壁を背にしているため、後ろに引くことはできない。こうなったら――


 竜夫はもう一度前へと踏み出す。男が持つ、禍々しい腕の間合いの内側へと入り込んだ。そのまま最小限の動作で刺突を放つ。その刃は、男の腹部のあたりに命中し――


 それは貫くことはなかった。異形と化した男の硬い鱗によって阻まれたのだ。動きをわずかに止められ、そこに男の腕が襲いかかる。異形の刃のような禍々しい腕から放たれる手刀。竜夫の肩口に男の禍々しい腕が突き刺さった。鎖骨のあたりから、胸のあたりまで切り裂かれる。


「ぐ……」


 切り裂かれた竜夫は思わずよろめき、後ろへと引いてしまう。その隙を、男が逃がすはずもなかった。引いた竜夫に合わせて前へと踏み出し、再び貫手を放つ。竜夫は、その貫手を両手で持った刃でなんとか防御するが――


 男の貫手とぶつかると同時に、弾けるように砕けてしまう。竜夫の身体に貫手が突き刺さる。


 だが、それは身体を貫くことはなかった。身体から刃を突き出させて、身体に風穴を上げるはずだった貫手を防御。金属同士を擦り合わせたかのような男が響き渡った。男の攻撃をなんとか防御した竜夫は、男の前蹴りを放って後ろへと押し返したのちに、横に飛び退いて距離を取る。


 竜夫は痛みに堪えながら男を見る。異形と化した男の表情はまったく読み取れないが、余裕なのは明らかであった。竜夫はいつでも対応できるように身構えながら、いまの自身の状態を確認する。


 肩に傷はそれほど深くない。この程度であれば、問題なく動けるはずだが――


 いまはあの青年が行った『なにか』によって、弱体化している状況だ。普段通りというわけにはいかないだろう。


 後出しで二度も押し負けたことを考えると、身体的な力が相当に弱まっているはずである。


 なにより、身体的な力だけでなく、竜の力自体も弱まっているようだ。いままでの戦いでそう簡単に壊れることがなかった刃がいともたやすく破壊されてしまったことを考えれば、それも明らかである。


 やはり、かなりまずい状況だ。自身の弱体化がどれだけ続くのかもわからない状況で長期戦となったら、有利なのは間違いなくあちらである。なんとかして、この状況を脱したいところだが――


 脱する手立てなどなにもなかった。自身の弱体化を解く方法も、目の前に立ち塞がる男を撃破する手立てもいまのところはない。


 どうする? 竜夫は異形と睨み合いながらそれを考えた。


 ここから逃げるべきだろうか? この状況で戦うのが危険なのは間違いない。


 とはいっても、脅威を排除しないのも同じく危険だ。仮にこの場を逃げられたとしても、奴は無数の目を使ってすぐにこちらを捉えてくるだろう。この状況から逃げたところで、わずかばかりの一時しのぎにしかなり得ない。


 どこまでも難しい状況だ。結局、どうあっても戦いは避けられないらしい。


 では、どうやってあの異形と戦うか? いまの状態では、まともにやり合うのはとてつもなく厳しい。向こうもこちらが弱っていることを把握している。どうにか、この状況を打破する『なにか』を見つけなければならない。


 なにができる? 敵の力はまだ不明瞭だ。いまのところ、変身以外の力は見せてきていないが――


「来ないのか?」


 異形が問いかけてくる。その言葉は、怪物とは思えないほど澱みなかった。


「できることならそうしたいところだけど――生憎そんなことができる状況じゃないんでね。悪だくみくらいさせてくれないか?」


 竜夫の言葉に、男は鼻を鳴らす。


「まあいい。お前が来ようが来なかろうが、俺がお前を殺すことに変わりはない。悪だくみを考えている間に、殺してやる」


 わずかに音を立てて、異形と化した男は脱力して構え直し――


 ぬらりとした動きで、再び踏み込んできた。

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