第126話 これからのこと

「それじゃあ、わたしは帰るよ。元気でね。もうわたしの世話になんかなるんじゃないぞ」


 ハル医師はそう言ったのち爽やかな笑みを見せて、大きなキャリーバッグを引きながら扉の外に出る。


「本当にありがとうございます。先生がいなかったらどうなっていたか」


 ハル医師がいなかったら、みずきのことを助けられなかったかもしれない。そう思うとぞっとする。頼れる人がいてくれて、本当によかった。


「気にするなよ。わたしは形はどうであれ、誰かを助けることが仕事なんだ。金を積んでくれさえすれば極悪人でも聖人でも救う主義だからね」


 ハル医師は自分よりもひと回りは年下の女児としか思えない笑みを見せた。


「それに、今回の件はわたしにも得られるものがあったからね。お金はもらえなかったけど、いい経験だったよ。なにより、きみのことを調べられる確約も得られたことだし」


「…………」


 いまにまっても、本当にそれでよかったのだろうかと思う。闇医者であるハル医師は、社会的な身分を持たない自分のような人間にも救いの手を差し伸べる代わりに、とんでもない金額を要求するはずなのだ。


「そんな顔しなくてもいいよ。対価に関してはいま払わないだけなんだから。後払いだって立派な取引だよ。それがいつになるかわからなくてもね。きみなら、ちゃんと支払ってくれるだろうし。わたしはこれでも人を見る目はあるからね」


 ハル医師はそう言って胸を張る。そんな姿を見ていると、小さな娘がドヤ顔しているようにしか見えないが、すごく頼りがいがあった。


「わかりました。やることが終わったら、先生のところに訪ねようと思います。それでは、また」


 そう言って竜夫は頭を下げる。


「ああ。それじゃあね。元気でやれよ」


 ハル医師は軽く手を振ったのち歩き出した。小柄な彼女の姿が見えなくなるまで見送ったところで、竜夫は扉を閉め、セーフハウスの中へと戻る。しっかりと扉を施錠したことを確認してから歩き出した。


「ふー」


 居間に戻ったところで、竜夫はゆっくりと息を吐き出した。


 本当に色々とあったけど、やっとひと区切りついた。みずきが倒れてから、まさに怒涛の日々だった。一時はどうなることかと思ったけれど、なんとかなった。こればかりは、自分の力だけは潜り抜けることはできなかっただろう。心から、ハル医師に感謝をしなければならない。


 胸を張って、ハル医師のもとを訪ねられるように、面倒ごとは済ませなくては。ひと区切りついたとはいえ、すべての問題が片づいたわけではない。気を抜くには、まだ早すぎる。


 セーフハウスに帰るときに感じられた何者かの視線のことを思い出した。この街のどこかから感じられた複数の視線。あれが、気のせいだったとは思えない。


 セーフハウスに帰ってから一週間ほどが経過している。それまでごたごたしていたのもあって外出はしていなかったけれど、竜の遺跡に潜っていた間に、自分の知らないところで色々と物事が進んでいたのは明らかだ。竜たちが放った刺客がローゲリウスに来ていてもおかしくはない。


 あのときはなんとか視線をまくことはできたけれど、このまま滞在していれば、逃げ続けることは難しい。みずきがいる以上、生活のためには外出の必要がある。である以上、遅かれ早かれここが見つかってしまう可能性は非常に高いだろう。


 だからといって、みずきを置いて自分だけここを離れるわけにもいかない。異世界から召喚された彼女には、自分以外頼れる者がいないのだ。当座の資金はあるが、なにもかも知らぬ場所でずっと一人になるのは相当の負担になる。できることなら、そんな思いをさせたくはないが――


 だが、自分がここにいればみずきに危険が及ぶ可能性があるのもまた事実。なんとかして、彼女だけでも危険から遠ざけたいところであるが、その方法はまったく見えてこない。彼女を連れて、放浪生活する手もあるが、それは最後の手段にしたほうがいいだろう。なにより、みずきの状態は持ち直したといってもこの先どうなるかもわからない。定住せず逃げ続ける生活は相当の負担をかけることになる。そんな状況で放浪生活を始めた結果、また彼女の健康を害してしまっては、いままでの苦労が水の泡だ。少なくとも、いまは下手なことはしないほうがいい。今回のようにハル医師を頼れる保証もないのだ。


「早く、もとの世界に帰れる手段を見つけないと」


 自分やみずきが召喚されたあの施設が爆破されてしまった以上、振り出しに戻ってしまった。また手がかりを見つけるところから始めなければならない。そして、現状その手がかりはゼロの状態だ。果たして、もとの世界に帰る手段を見つけることができるのは、いつになることやら。


 それを考えると非常に憂鬱になるが、いつまでも憂鬱になってもいられない。憂鬱になっている暇があったら、手と足を動かしたほうがいい。憂鬱になっていれば、もとの世界に戻る手段やその手がかりになるものが見つかるわけではないのだ。


 竜夫は歩きながら、セーフハウスにある生活必需品の在庫を確認した。みずきが倒れてから買い出しに行っていないので、生活必需品がだいぶ少なくなっている。そろそろ買い出しに行く必要があるだろう。みずきを一人にするのは少し危険な気もするが、彼女はまだ病み上がりだ。少なくともあと三日は安静させておくべきだろう。


 ひと通り確認を終えたところで竜夫は廊下を進み、みずきの部屋の前へと向かった。扉をノックする。扉の奥から「はい」という声が聞こえてきた。竜夫はドアノブをつかんで、扉を開けて部屋の中へと入る。


「……起きてたんだ」


 扉を開けて部屋の中へと足を踏み入れた竜夫はみずきがいるベッドへと近づく。彼女の顔色はだいぶよくなっていた。それを確認して、竜夫は安心する。


「はい。ずっと横になってたせいか、目が冴えてしまって」


「具合はどう?」


「まだ熱っぽい感じはあるけど、だいぶよくなりました。氷室さんのおかげです。ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」


「いいんだよ。誰だって病気になるときはなるんだから。迷惑だなんて思ってないよ。具合がよくなって、本当によかった」


 そう言って竜夫はみずきの手に視線を向ける。彼女の手の甲にはビー玉ほどの宝石のようなものが埋め込まれていた。自分が命をかけてとってきた竜石の結晶。手の甲に埋め込められるように加工されてもなお、それはとてつもない力強さが感じられた。


 ハル医師がみずきに行った処置は聞くところによると、もともとティガーたちが竜の遺跡にいる強力な存在に立ち向かうために編み出したものを、医療用に転用したものらしい。


「身体になにかおかしなところはある?」


「いまのところは大丈夫です。すごく楽になったので、驚いているくらいです」


 そう言ってみずきは自分の手の甲に目を向ける。


「自分の手の甲に宝石みたいなのが埋め込まれているのは、まだちょっと慣れていないですけど」


「……手袋でも買ってくる?」


「いえ、大丈夫です。そのうち慣れると思いますし、なによりこれは、氷室さんが私を助けてくれた証みたいなものですから。できることなら、隠したくないです」


 率直にそんなことを言われ、竜夫は気恥ずかしさを覚えた。面と向かって自分を肯定されるようなことを言われるのは嬉しいが、未だになれない。どうにも恥ずかしくなってしまう。


「明日あたり、買い出しに行くけど、なにか必要なものとかある?」


「いえ、いまのところは特に」


「そっか。ならいいんだけど――」


 もしかしたらここは危険かもしれない、という言葉が出かかって、なんとか留めた。だいぶよくなったとは彼女はまだ病み上がりだ。負担になるようなことは言わないほうがいい。


「それじゃあ、なにか食べたいものとかある? たいしたものは作れないけど――」


 竜夫の言葉を聞いて、みずきは少し考えて――


「氷室さんが作ったものならなんでもいいです」


「なんでもいいって言われるとちょっと困るけど――まあいいや。なにか消化のよさそうなものを作るよ」


「期待してます」


 みずきはまだ少しだけ赤い顔で淡い笑みを見せてそう言った。期待されるほどたいしたものは作れないが、やるだけやってみよう。そう思った。


「それじゃ、用意してくる。ちょっと待ってて」


 竜夫はそう述べたのち立ち上がり、歩き出した。扉を開けて、部屋の外に出る。


「なにを作ろうか」


 竜夫はそう呟いたのち、なにを作ろうか考えながら台所へと向かった。

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