第122話 戻ろう

 どこかへと落ちていく――ような気がした。


 暗く、なにもない虚のような場所へと。ただ落ちていく。


 手を伸ばす。その手につかめるものはなにもない。そこはただ深く、虚無のような闇が延々と広がっているだけ。


 けれど、不思議と恐ろしくは感じられなかった。何故かはわからない。ここはただ、そういうところなのだ、という確信だけが何故かあった。


 どこまでも落ちていく。ゆっくりと、優しく抱き込むように。底らしきものは未だない。この虚無のような闇はまだ深くまで続いているらしい。


 視界の先に、わずかな光が見えた。もうすでにわずかしか見えないそれは、さらに小さくなっていく。


 手を伸ばす。


 遠くにあるように見えるそれは、当然のことながら届かない。つかめるのは、この場所にある空虚な闇の空気だけ。


 自分はどこまで落ちていくのだろう? どこかへと落ちながら、他人事のようにそんなことを考えた。しかし、答えは出ない。わかるのは、この闇はまだ続いているだろうことだけだ。ここには恐らく、際限がない。ここにある闇は、そういうものなのだ。


 そういえば、どうしてこんなところにいるのだろう? こんなところで落ち続けているような暇などなかったはずだ。やらなければならないことがあった、ような――


 だが、それがなんなのか思い出せない。自身の思考力も、この闇に奪われているのだろうか? よくわからない。だけど、こんなに暗く深いところに落ち続けていたら、そうなっても仕方ないようにも思える。


 そんなとき――


「――――」


 どこかから声が聞こえた。誰かを呼ぶような声に思えたが、聞き取れなかった。その声に、答えるかのように、手を伸ばしてそれをつかもうとしてみる。当たり前だが、手で声をつかめるはずもない。つかめるのは、この闇の中にある空気だけ。


 落下は、まだ止まらない。


 ただゆっくりと、身体を腐らせるかのように優しく、緩やかに落ちていく。本当に不思議だ。落ちているのなら、もっと速度が速くなるはずなのに、どうしてそうならないのだろう? 考えてみたけれど、わからなかった。


「――るか?」


 再び声が聞こえる。やっぱり、よく聞き取ることができなかった。しかし、その声が自分にかけられていることだけは理解できた。


 一体、誰が声をかけているのだろう? こんなにも深いところまで落ちてしまったのに、声が届くのは何故かよくわからなかった。たぶん、そういうものなのだろう。考えても理解できないものなんて、この世界にはいくらでもある。これも、その一つなのだろう。


「い――るか?」


 またしても声が聞こえる。その声はだんだんと明瞭になっているように思えた。その声は、どこかで聞いたことがあるような気がした。


 誰だろう? そう思った。だけど、誰のものなのかはわからない。


 視界の先には、相変わらずわずかな光が見える。手を伸ばしてみる。当然、届かない。だが、あれをつかめればここから脱出できるような気がした。そう思った理由はよくわからなかったけれど、これもきっとそういうものなのだろう。考えたって仕方ない。


 さらに、手を伸ばしてみる。光に向かって、身体を向けて手を伸ばす。届かない。わずかに見えるそれは、どう考えても手が届く距離ではなかった。なのに、どうして手を伸ばしているのだろう?


 目に見える光が強くなった、ような気がした。点のようだったその光が、大きくなっているように見えた。手を伸ばす。やはり届かない。でも、もう少しで――


「おい! 生きているか? しっかりしろ」


 はっきりとそんな声が聞こえ――


 遠くにあったはずの光が、自身の目の前をすべて覆い尽くした。



 視界が開けると同時に目に入ったのは、自分よりも数歳年上に見える男の顔だった。一瞬だけ誰だろうと思って、すぐに気づく。この場所に一緒に潜っていたリチャードだ。


「生きていたか。なかなか目を覚まさないから、やばいと思ったぜ」


 リチャードはひと息ついてそんなことを言い、屈託のない笑みを見せた。


「ええ。大丈夫です。ありがとうございます」


 そう言ったところで、竜夫は気づく。


 あいつは、竜石の結晶の中にいたあいつはどうなったのだろう? 身体を起こし、結晶の方を向いた。そこには、あいつがいたと思われるあたりから砕けた竜石の結晶があった。砕けた竜石の結晶は、あたりに破片をまき散らしている。砕けた結晶は心なしか、先ほどまでよりも暗く見えた。


「えっと、僕以外に、なにかいませんでしたか?」


「砕けた結晶のところに、でかいナメクジの死体みたいなのがあったが、あれのことか?」


 リチャードの言葉を聞いて、竜夫はほっと安心する。どうやら、やつを倒したことは、夢でも幻でもなかったらしい。


「はい。それならよかった。ところで――」


 そちらはどうなったんですか? と竜夫は問いかけた。


「あんたのおかげで、操られていたアレクセイたちは止まってくれた。いま向こうは消火中だ。仕方なかったとはいえ、派手に燃やしちまったからな」


 リチャードは軽く笑う。彼が見せるその人間的な表情は、こちらの心を安心させてくれるものだった。


「ところで、だいぶ傷だらけだが大丈夫か? 一応、応急措置として鎮痛剤は打ったんだが――酷いようなら、もう少し追加するが」


 そう言われて、竜夫は身体の痛みがかなり緩和されていることに気づく。


「いえ、大丈夫です」


 竜夫は首を振る。


「そうか。それはなによりだ。助けても中毒になられちゃ困るからな。打たないでいいのなら、それにこしたことはない」


 リチャードが打った鎮痛剤というのは、彼の能力で生成したモルヒネのようなものなのだろう。であるならば、多量に摂取するのは危険だ。ここまできて、薬物中毒になどなりたくない。ここまで命を賭して戦ってきた意味がなくなってしまう。


「立てるか?」


 リチャードが手を伸ばす。竜夫はその手を取って、立ち上がる。立ち上がる瞬間、身体の至るところがずきりと痛んだ。


「ところで、他の方々は?」


「アレクセイたちも含め、全員無事だよ。あんたがやることやってくれたおかげだ。あんたがいなかったら、どうなってたことか。本当に助かったよ」


「……いえ、それはお互い様です。僕が成し遂げられたのも、リチャードさんたちがいたおかげですから」


 竜夫の言葉を聞いて、リチャードは「それじゃあ、おあいこだな」と言って笑った。


「それじゃあ、戻ろう。歩けるか? 肩くらいは貸すぜ」


 リチャードにそう言われ、竜夫は少し考え――


「お願いします」


 リチャードの言葉にそう返すと、彼の肩に自分の腕がかけられる。


「じゃあさっさと戻ろう。凱旋だな」


 竜夫はリチャードの肩を借りて、みながいる場所へと戻っていった。

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