第16話 少しだけ空に近い場所での決意

 竜夫は時おり下を確認しつつ、建物の上を駆け抜けていく。このまま相手が諦めるまで、建物の上を逃げ回って奴らを撒くか、それとも――


 竜夫は建物の屋上で立ち止まり、考える。


 いや、と思い首を振る。やはりこのまま逃げ続けたところで、あの傷男が諦めるとは思えなかった。あの暴力的な男はどこか偏執的だ。自分を傷つけた者のことをそうやすやすと見逃すとはどうしても思えなかった。


 それに、あの男が持つ不可解な能力。額に手が触れた瞬間、触れられた側を異常なまでに変質させてしまう力。あの能力を放置しているのは危険だ、と竜夫の本能は訴えていた。先ほどの状況から考えると、あのように人間を変質させられる数はまだまだ増やせそうだ。そうなると、奴が関係ない人間にあの不可解な力を使い、自分を襲わせることも充分にあり得る。違う。あの男なら間違いなくやってくるだろう。あの残虐な男が、一般人に対して配慮をするとは思えなかった。もしかしたら、先ほど襲ってきた二人組だって、実はこの騒動にはまったく関係ない、たまたま通りかかった人間だとしても不思議ではない。


 だとすると、あいつをあのまま見逃すわけにはいかなかった。竜夫は強く拳を握った。


 だが、それはどう行う? 決意とともに同時に行うのはこの世界に来てから何度となく行った自分に対する問いかけ。あの残虐で邪悪な男を止める手段はあるのだろうか? そしてもう一つ。本当にいまここで、自分の手を汚すのが本当に正しい手段なのだろうか? 何度問いかけても、その答えは出ない。


 きいきいと鳴く鳥の鳴き声が聞こえてきた。それは小さなもののはずなのに、やけに耳に障る。


「やるしかない……」


 竜夫は一度奥歯を強くかみ締め、重く言葉を発する。


「もとの世界に戻るためならどんなことだってするって決めたんじゃないのか? 自分の手が汚れるくらいなんだ。そんなの、生きてもとの世界に戻ることに比べたら、どうでもいいじゃないか。人を殺そうが、殺さなかろうが、どうせ僕には守ってくれる人なんて誰もいない。それどころか誰もを守るために作られた法律すら僕を守ってくれないだろう。この世界において、僕はどこまでも孤独だ。それなら、自分の手を汚し続けて、生を勝ち取る方がいい。清廉潔白がなんだ」


 吐き捨てるように、あたりに呪詛をまき散らすかのように竜夫は言う。


 きいきいという鳥の鳴き声が相変わらず響いている。うるさい。鳥ですら僕を邪魔するというのか。そう思うばかりだった。


「いい加減覚悟を決めろよ氷室竜夫。お前はもう以前にようには生きられない。自分の手を汚さず、なにも知らぬまま、この世界で生きていくことは不可能だ」


 まるで、自分の声で自分ではない誰かが、勝手に自分の口で喋っているかのようだった。


「不可能を可能にしろ。お前にはそれを可能にする力がある。最期の瞬間まで抗え。そうすればきっと、道は開かれるはずだ」


 できることなら、人として最低限守るべき矜持だけは守りたい、そう思った。もしかしたら、それすら叶わなくなるかもしれないけれど。


 きいきいと鳴く鳥の鳴き声が聞こえてくる。なんなんださっきから。やけにうるさく聞こえる。苛立っているせいだろうか?


 いや、違う。

 竜夫はあたりを見回す。


 カラスのような黒い鳥が、自分がいまいる建物の屋上から十数メートルのあたりに数多く旋回していた。軽く数えただけで三十はいる。それはまるで、いつ自分のことを狙おうかと舌をなめずりしているかのよう。明らかにおかしな状況だった。


 竜夫は向き直り、こちらの隙を狡猾に窺っているかのような挙動をしている鳥たちを迎撃する態勢を整える。


 この鳥も、あの男によるものなのだろうか? そんなの、考えるまでもない。こうやって襲おうとしている以上、そうに違いないはずだ。


 まわりを旋回していた鳥の数匹がこちらに向かって飛び出してくる。それはハヤブサのごとき速度。竜夫はそれを横に何度か飛んで回避。鳥はコンクリートのような材質でできた床に激突していく。床に激突した鳥は悲惨な状況だった。翼は折れ、くちばしは砕け、身体がねじ曲がってしまっている。


 それでもなお、鳥は竜夫に向かってこようとする。折れた翼をはためかせ、ねじれた身体をよじりながら。飛ぶどころかあと数瞬も生きられない身体になっているというのに。


 竜夫はぐっと奥歯をかみ締めた。


 なんだこれは、と思った。


 そこまでして自分を痛めつけたいというのか、あの男は、とさらに強い怒りが湧き上がってくる。


 よじりながら近づいてくる鳥を見る。その姿は、やはり無残な姿だった。見ているこちらが痛ましくなるほどに。


「…………」


 竜夫は小さく足を上げ、なおも愚直に向かってこようとする鳥の首を踏み潰して引導を与えてやる。潰れたときの音が、断末魔のように聞こえた。


 仲間がやられたというのに、他の鳥はそれをまったく介する様子はない。こちらを値踏みするかのように、竜夫から少し離れた位置を飛び続けている。


 空を飛ぶ無数の鳥を相手にするのなら、開けた屋上を移動するのは危険だ。だが、地上に降りるべきか? 恐らく、地上にもあの傷男によって変質させられてしまった者たちがいるはずだ。


 だが、空を飛ぶ鳥を開けた場所で相手にするよりはましだ。地上に降りれば、いまのように取り囲まれることも少なくなるだろう。


 竜夫は床を踏みしめる。足にはまだ、先ほど潰した不気味で柔らかな鳥の感触が残っていた。


 それから床を蹴り、できるだけ鳥の数が少ない場所へと突撃。首と目をできるだけ防御する。身体が宙を舞うと同時に身体を細かな刃物で刻まれるような鋭い痛みが走った。鳥がまとわりついて、攻撃しているらしかった。竜夫は腕を振って、まとわりつく鳥を振り払ったのちに地面に着地した。鳥にまとわりつかれてしっかり着地できなかったせいで、足に痛みが走った。しかし止まるわけにはいかない。着地をすると同時に竜夫は走り出し、近場にあった細い道に滑り込む。


 背後を見る。鳥はミサイルのように竜夫を追いかけてきていた。その数は三。


 機動力は小さい相手のほうが有利。地上にいればその機動力はある程度抑えられるが、それでも厄介なことこのうえない。


 なにか、なにか武器が必要だ。走りながら竜夫はあたりを見回す。


 鳥には、遠距離からこちらを攻撃する手段はない。なにか遠距離から攻撃できる武器さえあれば、こちらのアドバンテージになる。


 当然のことながら、都合よく道端に武器が落ちている、なんてことはない。あるのはゴミと瓦礫ばかり。


 いや、とそこで気づく。


 あるじゃないか。遠距離で攻撃する武器なら。走りながら下に目を向ける。なにか手ごろなものはないかといくつか視線を巡らせたところで――


 あった、とそれを認識すると同時に足を止め、しゃがんで拾う。それは、どこにでも落ちている掌よりもずっと小さい小石。


 殴る蹴るかみつくだけが人類の武器じゃない。そもそも、人体というのは二足歩行と脳を進化させたせいで、殴る蹴るかみつくといった攻撃手段を効果的に行えるような力は存在しないのだ。


 それでも、ただ一つ、他の動物たちにはないアドバンテージがある。


 それは、投擲。人類最古にして原初の遠距離武器だ。


 弱い人類が屈強なほかの生物と戦えたのは、その知恵と投擲能力にあったと言われている。それを、圧倒的な力を得た自分が行えばどうなるかは簡単に想像がつく。


 竜夫は滑りつつ身体を逆方向へと向き変え、振り向きざまに手に取った小石をサイドスローで投げつける。竜夫が投げつけた小石は一番前にいた鳥の頭部を潰し、その少し後ろを飛んでいた鳥の翼を貫いたのち、後方にあった建物の壁に深くめり込んだ。頭部と翼、それぞれを潰された鳥は地面に墜落する。それを確認した竜夫は、再び身体を翻して走り出す。


 できた、と竜夫は小さく心の中で歓喜した。二匹倒せたのなら上々だ。追いかけてきているのは、あと一匹。


 だが、空にはまだ何十と鳥は残っている。落ちている石を放り投げて、それを全部倒せるとは思えなかった。倒そうとするなら、もっと効率的な手段が必要だ。


 そこまで考えたところで、あることに気づく。


 それはもうすでにあるじゃないか、ということに。


 そうだ。どうしてそれにいままで気づかなかったのだ。自分が手に入れた力は、あの竜から与えられた力はそういうものじゃないか。だって、あの竜は――


 形成しろ、と唱える。


 あの竜が司る力を、自分のイメージで具現させる。


 形を作れ。形に血を巡らせろ。血を巡らせた形を外に解き放つのだ。


 気がつくと、その手には猟銃が握られていた。それが確かなものであることをしっかりと確認し、後ろに振り向いて――


 構えて、狙って、ゆっくりと、引き金を引く。


 引き金を引くと同時に、音が響いた。それは耳を割るような音。轟音とともに放たされた散弾は容赦なく鳥に浴びせられ――


 呆気なく、墜落した。


「はは……本当に、すごいな」


 自分でやったはずのことなのに、とても自分でやったとは思えなかった。


「そういえばあいつ、どんな名前だったんだろ。せっかくの命を助けてもらったんだから、聞いておけばよかった」


 言いながら竜夫は、自らが創り出した銃を消す。先ほどの音は関係ない人たちのもとにも届いているだろう。であるなら、出しておくわけにはいかない。そもそも、銃を街中でぶっ放すなんて危険極まりないのだ。安易に行っていたら、関係ない人まで巻き込んでしまうかもしれない。それは、なにがあっても許されることじゃないのは明らかだ。


「あの音は、奴らにも聞かれているだろう。早くここから離れないと」


 竜夫は空を確認する。新たな鳥は飛来してきてはいない。


「反撃開始、かな」


 新たなる力を自覚した竜夫は再び走り出す。

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