第13話 乱闘

 傷男に放り投げられた竜夫は空中で姿勢を整えて着地する。着地すると同時に竜夫は男のほうに視線を向けた。


「やるじゃねえか」


 傷男は竜夫が見せた身体能力に感心したかのような笑みを見せる。その笑みには、嗜虐的な色がにじんでいた。


 傷男との距離は十メートルほど。傷男は、悠然と竜夫に視線を向けている。竜夫も、傷男も動かない。


 あの男は、何者だ? 竜夫は傷男から視線を逸らさないまま心の中でそう唱えた。


 傷男は、自分のことをボールでも放り投げるかのように片腕で放り投げた。当然のことながら、竜夫の体重は見た目に反して異常に軽いわけではない。平均的な体重である。それを普通の人間が、人間のことを片腕で何メートルも投げ捨てるなどできるはずがない。そして、自分に対して行われたそれがなんらかのトリックによるものだとは思えなかった。


 なにがどうなっている? 自分を襲った不可解な状況により、竜夫の心の中にどよめきが走った。嫌な汗が背中に滲んだ。


 突如発生した乱闘騒ぎによって、まわりがざわつき始める。しかし、傷男はそれに気にする様子はまったくない。にたにたと、嗜虐的な笑みを竜夫に向けている。


「どうした? こねえのか?」


 傷男は竜夫のことを挑発する。だが、竜夫は動かない。相対する傷男がなにか隠しているように思えてならず、動くべきではないように思えたからだ。


「ウチのモンに手を出したから来てみりゃあ、どこにでもいそうな若造じゃねえか。てめえらどうしてこんな野郎にやられたんだ? あ?」


 傷男に凄味を利かされながら問われ、昨日のチンピラ二人組は口ごもる。


「まあいい。お前らの教育はこいつを叩きのめしてからだ。身内を舐められたままってのは気にいらねえからなあ」


 昨日、あれだけ店で大仰に振る舞っていたチンピラ二人組が完全に委縮している。それはどこか滑稽に見えるものだったが、その身から異質さを放つ傷男を目の前にして、笑っていられる余裕など竜夫にはなかった。


 竜夫はどうする、と自分に問いかける。この場であいつを撃退するべきだろうか? それとも――


 竜夫と傷男の間にじりじりと音を立てるような電流のごとき緊張感が走る。お互い動かないまま、時間が流れていく。


「なんだ? こねえのか?」


 傷男は相変わらずへらへらとした口調だった。竜夫のことを怖れている様子はまったくない。


「まあ、てめえがやるつもりはなくても、俺はやるけどな。なにしろ可愛い子分を痛めつけられたわけだしな」


 傷男はばきばきと手の骨を鳴らす。


 そんなことを言い傷男の口調からは、竜夫によって痛めつけられた子分のことなどまったく気に留めていないのは明らかだった。きっとこの男は、誰かを痛めつけたいだけなのだ。子分を痛めつけられたことなど、それを正当化する理由としか思っていない。


 なんて男だ、と思う。異世界においても、邪悪な人間の本性というのは似たようなものらしい。ふつふつと静かな怒りがどこかから湧いてくる。


 それでも竜夫は動けなかった。傷男に対して恐怖心を抱いていたわけではない。向こうから絡んできたとはいえ、このような衆人環視の場で暴れるのは、いまの自分にとって都合が悪いと思ったからだ。どんな理由であれ、竜夫はいま逃亡中の身である。そのうえ竜夫はこの世界においては社会的に存在しない人間だ。そのような人間が警察に捕まったら、面倒なことになるのは間違いない。


 しかし、この男が見逃してくれると思えなかった。傷男は相変わらずへらへらとした笑みを浮かべているが、その目には敵意と害意に満ちている。交渉が通じるような相手には思えなかったし、そもそも交渉できる材料もなかった。


 どちらにせよ、いまの竜夫にできることは、暴力的な手段に訴えて、あの傷男を撃退することだけだ。


 そんなこと、果たして本当にできるのだろうか? 自分の力に疑いがあるわけではない。竜から与えられた力は間違いなく本物だ。でなければ、武装した強盗を追い払うことなどできなかったはずである。


 だが、いま目の前にいるあの男は、いままで追い払ってきた普通の人間とは明らかに違う。そうでなければ、人間を片腕で何メートルも放り投げるなどできるはずがない。


 この世界の人間には、なにか自分の知らない「なにか」があるのだろうか? それを否定できる材料はない。なにしろここは、自分の常識の外にある異世界なのだから。


 竜夫はじりと自分のつま先に力を入れる。地を蹴り、いつでもあの傷男に向かって突撃できる体勢を整えた。拳を一度強く握り、それから軽く開く。


「見たところ、素人ってわけじゃなさそうだな」


 傷男は腕を上げ、構える。それはどこか脱力したように見える構えだったが、付け入る隙はないよう見えた。


「精々、楽しませてくれよ」


 傷男がそう言うと同時に、その姿が視界から消える。竜夫がそれを認識した直後には、傷男は竜夫の懐に入り込んでいた。傷男は腕を最小限の動作で引き、全身をねじ込みながら拳を放つ。竜夫は反射的に腕を交差させ、傷男が放った拳を防いだ。


「ぐ……」


 しかし、傷男の放った拳を防いだ竜夫は、大きくバランスを崩し、二メートルほど後ろによろけてしまう。やはり、あの男の力は人間の限界を明らかに超えている。拳を防いだ両腕は骨を直接ハンマーで叩かれたような衝撃があった。


「おらぁ!」


 バランスを崩した竜夫の隙を傷男は逃さない。再び一瞬で距離を詰め、全身を巻き込んで拳を放つ。人間離れした膂力から放たれる拳が竜夫の身体に突き刺さるべく襲いかかった。


 しかし、竜夫はバランスを崩していたとはいえ、傷男が追い打ちをかけてくることを予期していた。竜夫は一瞬頭を引き、男の鼻目がけて自分の頭をぶちかました。


「がっ……」


 傷男のうめき声が聞こえると同時に、額に柔らかい鼻骨の感触が広がった。竜夫の頭突きで鼻を潰された男は怯み、よろける。


「やるな」


 だが、怯んだのは一瞬で、傷男は鼻から血を流しながらすぐに竜夫に向き直る。傷男は鼻を潰されてもなお、顔に浮かべる笑みも闘争心はまったく消えていない。鼻から流れ出す血を気に留めている様子すらもなかった。


 竜夫は自分の額を拭い、付着した傷男の血を払い落す。


 やはり、この男はいままでの人間とは違う。多少、痛めつけただけでは撃退はできないのは明らかだ。


 どうする、と竜夫は自分に問いかけた。


 この男を撃退するには、徹底的にやるしかない。


 覚悟を決めるしかなかった。そうしなければ、自分は生き残れない。竜夫は自分にそう言い聞かせた。


 竜夫に鼻を潰された傷男は、今度はなかなか動かなかった。こちらが反撃してくることを理解しているのだろう。腕を構え、こちらの様子を窺っている。


「こらぁ、なにをやってる!」


 睨み合う竜夫と傷男の間を破ったのは、そのどちらでもない声だった。それによって竜夫の身体は一瞬硬直したが、人並みをかき分けてやってくるものがなにか見え、すぐに傷男から視線を切って、後ろに走り出した。


 現れたのは警官だ。この騒ぎを聞きつけたのか、誰かが通報したのかはわからない。


 警官が現れた理由がどうであれ、いまここで捕まるわけにはいかなかった。竜夫は逃亡中の身だ。ここで警察に捕まってしまえば、なんらかの形で自分の情報が軍に伝わってしまうのは明らかである。


 人ごみの中をすり抜けながら、竜夫は吐き捨てた。


 面倒なことになった。ここに召喚されてから、ろくなことがない。


 竜夫は人が増え続ける朝の街をひたすらに走り続けた。

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