第11話 夜のバーにて

「いらっしゃい」


 竜夫がバーに入ると同時に、カウンターに立っていた男が声を発する。店内の明かりは暗めの間接照明だったため、ここからではその男の顔は見えない。竜夫は店内を眺めた。


 カウンターとテーブルが三つ置かれている小ぢんまりしたバーである。大学のとき、仲のいい友人たちと入ったレトロモダンのバーの内装と似ている感じだった。店内に満ちる慣れない雰囲気のせいか、竜夫の身体は緊張に貫かれた。少しだけ汗が滲み出る。


 三つあるテーブル席はすでに他の客で埋まっていた。仮にテーブル席が空いていたとしても、こちらは一人なのでカウンター席に座るのがマナーだろう。そう判断した竜夫はカウンター席に足を運んだ。


 席についてまわりを見渡す。テーブル席に座っている者たちはこなれた様子で酒を楽しんでいた。上流階級ではなさそうだが、見るからにガラが悪い、粗暴な人間にも見えない。現段階では、危ない店ではなさそうだが――


「こちらをどうぞ」


 竜夫が席につくと同時に、カウンターの中で立っている男がメニューを差し出した。そこにはカクテルと思われるいくつも名前が書かれていたが、見たことない名前しかない。ここに書かれているものが、どんな酒なのか想像もつかなかった。


 メニューを見ながら、十数秒ほど悩んだところで――


「お酒には詳しくないので、なにかおすすめはありますか?」


 なにを頼んだらいいのか全然わからなかったので、そんなことを言ってみた。そんなことをしたのは生まれてはじめての経験である。とても緊張した。


「わかりました」


 カウンターに立つ男は優雅に一礼する。竜夫の言葉を気にしている様子はまったくない。いくつかの酒をシェイカーに入れ、かき混ぜる。どうやら、異世界でもカクテルの作り方は似ているらしい。不思議な感覚だった。


「どうぞ」


 カウンターの男はそう言って、竜夫の目の前にカクテルグラスを差し出した。そこにはピンク色の液体が注がれている。手に取って、一度手を止めグラスに視線を向けたのち、カクテルグラスを呷った。


「……おいしい」


 そのカクテルは、控えめな甘さと苦みが融合した味だった。酒飲みではないので詳しいことはわからないが、いままで飲んだことのあるどのカクテルとも違う味だ。


「ありがとうございます」


 カウンターの男は小さく一礼し、カクテルの名前を告げた。男が言ったカクテルの名前もまったく聞いたことのない語感だった。異世界にある異界のような空気の店の中で未知の味を楽しむのはとても不思議だ。


「お客様はこの店ははじめてですね?」


 不意に男からそう言われ、竜夫は一瞬戸惑って言葉に詰まる。だが、すぐにはいと言って返した。


「わかりますか?」


「ええ。訪れるお客様の顔をできるだけ覚えるのも仕事の一つですので」


 男は静かでありながら、はっきりと耳に通る語調で言う。


「異国の方とお見受けしましたが、こちらには観光で?」


 男にそう問われ、どう答えるべきか悩む。いくらなんでも異世界から召喚されましたと馬鹿正直に言うわけにもいくまい。そんなこと言われたところで彼としても困るだけだろう。


「……ええ」


 いまの状況はどう考えても観光よりずっとハードではあるが、似たようなものだろう。竜夫は少しだけ間を置いて頷いた。


「観光客は多いんですか?」


 今度は竜夫から男に問いかけた。


「ええ。最近は大陸の情勢も安定してきましたからね。わたしがあなたぐらいの歳のときに比べれば、海を越えるのに必要になるお金も随分と安くなったようですから」


 この大陸では二十年ほど前、大陸全土に及ぶ大戦があったというのは図書館で読んだ文献の中でいくつも記されていた。それがどんなものなのかはわからないが、文献を読んだ限りでは自分の世界であった二度の世界大戦に匹敵するようなものに思えた。


「わたしは幸か不幸か足が悪かったので、審査の段階で不適合とされて兵役は免除されましたが。それでも大変だったことに変わりありません。死ぬような危機に陥ったのも一度や二度ではありませんでしたから」


 できることなら、二度とあのような思いはしたくないものですね、と言って小さくため息をつく。


 遠い過去を思い出すように喋る男を見つつ、竜夫はピンク色のカクテルをちびちびと飲む。他にもたくさんある異世界の酒を飲んでみたかったが、手持ちの金が少ない以上、ガバガバ飲むわけにもいかない。それに見知らぬ土地の路上で酔いつぶれるのはあまりにも危険だ。自衛できる力があるとしても、それは避けておくべきだろう。


「まあ、最近は別のことで少し物騒になっているようですが」


「別のこと、ですか?」


「ええ。この帝都に拠点を置くギャングと、別の街から勢力を拡大しにやってきたギャングが争っているのですよ。争うのは勝手ですが、我々のあずかり知らぬところで争ってほしいものです」


 男は呆れるような口調で言う。それを聞いて、この店に入る前に見た光景を思い出す。


「そういえばここに来る前、ギャングが貸し切っていた店が襲撃されたってのを聞きました」


「そうでしたか。お気をつけください。最近はなにやら物騒なもので。店によってはギャングの類が背後についていることもあります。そのうえ、その手の店はたった一杯飲んだだけで法外な値段を請求されて脅されることもありますからね」


 それを聞いた竜夫は、異世界であっても人間の考えることは似通っているらしい、なんてことを思った。


 気をつけていくつもりだが、なんといってもここは異世界だ。自分が知っている常識は諸外国以上に通用しないだろうし、いまの自分はまだこの街に関して知らないことが多すぎる。知らない街を案内してくれるガイドもいないのだ。


 そんなことを考えている最中、後ろから鐘が鳴るような音が聞こえた。どうやら誰かが店に入ってきたらしい。


 だが、男の顔は何故か険しかった。それを少しだけ怪訝に思い、後ろを振り返ると、そこにいたのは見るからにガラの悪そうな、いかにもチンピラという風貌の二人組の男。二人組のチンピラは、にやにやと笑いながらカウンターに近づいてくる。


「……ご注文は?」


「おいおい。俺たちは客だぜ。そんなに嫌そうな顔するんじゃねえよ。なあ?」


 あまりにもわざとらしい大声でチンピラは言う。一緒にやってきたもう一人のチンピラもその言葉に同意しながらにたにたと笑っている。この二人組のチンピラの態度はどう見ても友好的なものとは思えなかった。


「おら、なんかうめえ酒でも出してくれよ。こっちは飲みに来てんだからよ」


 チンピラの言葉に一瞬だけ間を置いて、男はわずかに眉をつり上げて、「ご注文は?」と問いかける。


「あ? 任せるよそんなもん。こっちは酒でも飲みながら腹を割って話そうって言ってんだからよ」


 チンピラ二人組が来てから、異界めいた雰囲気が漂っていた店内に嫌な空気が満たされていく。先ほどまで静かに酒を楽しんでいたテーブル席の客たちもその空気を察知したらしく、店の中がざわつき始める。


「そういうことならお引き取りください。何度も申し上げている通り、わたしはあなたがたの庇護など求めておりませんので」


 男は毅然とした様子で言う。見るからに悪そうなチンピラ二人を目の前にしているというのに、怖気づいている様子は一切ない。


「おいおい。そんなこと言うなよ。あんただって俺たちがバックについてれば安心できるじゃねえか。なにが不満なんだよ? なあ?」


 ひと昔前、暴対法が改正される以前、ヤクザがキャバクラやホストクラブなどに対し、みかじめ料を取る代わり組がバックにつき、店がそれを了承をしないのなら嫌がらせをする、なんてことがよくあったらしいという話を思い出した。いまこのチンピラ二人組がこの店の店主である彼に対し持ちかけている話は、それと似た話なのだろう。


「あんただってチェザーレの奴らに店を荒らされたくねえだろ? それを守ってやるって話なんだ。悪かねえ話じゃねえか」


 わざとらしいチンピラの大声によって、他の客たちはだんだんと浮足立っていく。客たちは、誰もがどうしたらいいのかわからない様子だった。


「なあ、あんたもそう思うだろ?」


 チンピラはなれなれしく初対面の竜夫の首に腕を回してくる。自分の首に腕をかけられた竜夫は――


 腕を回してきたチンピラの後頭部を手でつかみ、力任せにそいつの顔面を机に叩きつけていた。


 なにをしているのだろう、と思った。


 確かに、まわりを威嚇するかのようにわざとらしい大声を出していたチンピラにイラついていたのは事実だ。きっと、それは自分以外も同じだったに違いない。


 だが、この二人組は見るからに悪そうな風貌で、大抵の人は苛立ちよりも恐れのほうが前に出るだろう。チンピラどもだって、それを理解していたはずだ。だからこそ、奴らはああいう態度に出ていたに違いない。以前の自分なら、ここにいた他の客と同じように動くことなんてできなかったはずだ。


 なのに、いまの竜夫はあのチンピラ二人組に対する恐れはまったくなかった。不躾な態度を取り続けたチンピラ二人組に対して怒りしか抱かなかったのだ。


 何故だろう? と思った。


 やはり自分は、竜の力によって精神的にも変異を来たしているらしい。それを、まったく恐ろしくないかといえば嘘になる。


 竜夫によって顔面をテーブルに叩きつけられたチンピラはぴくぴくと痙攣しながら突っ伏したまま動かない。鼻は変形したかもしれないが、死んではいないだろう。


「て、てめえ!」


 一緒にやってきたもう一人のチンピラは立ち上がった。自分ですら予想だにしていなかった行動により、テーブル席の客たちのざわめきも強くなる。


 立ち上がったもう一人のチンピラは竜夫に近づいて胸ぐらをつかんだ。そんなことをされても、竜夫には一切の恐怖は湧いてこなかった。


 竜夫は自分の胸倉をつかんできたチンピラの腕をつかみ返した。それからその腕を捻り上げる。ゴキっという鈍く柔らかい感触が腕に伝う。


「ぎゃ……」


 竜夫によって腕を捻り上げられた男は情けない悲鳴を洩らす。適当なところまで痛めつけたところで竜夫は手を離した。


「こ、この野郎!」


 チンピラはそんなことを言ったものの、竜夫に先手を打たれ、痛めつけられたことで威勢を削がれていたのは明らかだった。


「飲むつもりがないのなら、もう一人を連れてさっさと帰れ。酒がまずくなる」


 自分たちに一切恐れを抱いていない竜夫の様子を見て、チンピラは歯を軋らせたのち、吐き捨てるように「くそが!」と言って立ち去っていった。扉が勢いよく開かれ、からからという鈴の音のような音が鳴ったのち、乱暴に閉じられる。


 カウンターにはまだ、竜夫によって顔面を思い切りテーブルに叩きつけられてのびているチンピラが残っていた。このまま放置しておくわけにはいかないので――


「捨ててきますね」


 店主の男にそう言って、のびていたチンピラの服をつかんで引きずっていき、扉の外に投げ捨てた。チンピラを投げ捨てた竜夫はカウンター席に戻る。


「ご迷惑をおかけしました」


 席についた竜夫は店主の男に謝罪した。


「いや、大丈夫ですよ。あなたが追っ払ってくれなかったら、もっと面倒なことになっていましたから」


「ああいうのって多いんですか?」


「このへんはそうでもなかったんですけどね。帝都に拠点を置いているチェザーレファミリーは昔からよほどのことがない限り堅気には手を出しませんから。さっきも言った、最近勢力を拡大してきた別の街のギャングが現れてから多くなりましてね。わたしの知り合いがやっている店にも似たようなことをされているようで。警察にも言っているのですが、後手に回っているような状況です」


「……そうなんですか」


「ですが、あんな風に手を出して大丈夫ですか? 最近現れたギャングというのはかなり荒っぽい連中なようなので」


「大丈夫ですよ。自分の身くらい自分で守れます」


「そうですか。余計なことを訊いてしまって申し訳ありません」


 ふふ、っと柔らかに店主の男は笑う。


「長居すると迷惑をかけてしまうかもしれないので、いただいたこれを飲んだら帰ります。いくらですか?」


 結局、あの施設に関する情報は集められなかったが、こうなってしまった以上、迷惑をかけるわけにはいかないので仕方ない。


「……そうですか。わかりました。こちら、伝票です」


 そう言って男は手書きの伝票を差し出す。竜夫はそこに記された金額を支払ったのち、残っていたカクテルを一気に流し込んでから立ち上がった。


「またのお越しを」


 店主の男は礼儀正しく言ってお辞儀をする。どこから見ても非の打ち所がない見事なお辞儀だった。


 竜夫は扉を開け、外に出る。外には先ほど投げ捨てたチンピラがまだ転がっていた。わざわざ助ける理由もないので、一瞥だけしてすぐに歩き出す。


「……宿を見つけないとな」


 最悪の場合、昨日泊まったモーテルにいけばいいだろう。


 自分が行くべき道はまだ見えない。


 だが、やるしかないのだ。なにがあったとしても。


 竜夫はあらためてそう自分に言い聞かせ、夜の街を進んでいった。

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