第4話 これから向かう先は

 どこまでも落ちて、融けていく。どこまでが自分で、どこからが外界なのかもわからない。どれもが自分のように思えたし、自分ではないとも思えた。


 融けた自分の身体は、想像を絶する熱を帯びていた。その熱は、見境なくあたりに伝播していく。それはまるで、融けた自分の身体が、あらゆるものを憎み、燃やし尽くしているかのようだ。


 融けた自分の身体は、またさらに広がっていく。融けた自分の身体は、貪欲に自分のまわりにあったはずの『なにか』を融かし、一体化していった。自分は一体、どれほどのものを融かして取り込んだのだろう? そう思った。このままだと、この場にあるなにもかもを飲み込んでしまいそうだと思った。そんなことになったら、どうすればいいのだろう?


「――――」


 なにか声が聞こえた。耳なんてとっくに消えてなくなっているのに、どうして声が聞こえてくるのだろう。よくわからない。だが、生きていればそういうこともあるだろう。なんていっても、この世界は自分が想像する以上に波乱と狂騒に満ちた場所だから。


「――に向かえ」


 また声が聞こえてくる。さっきとは違い、なにを言ったのか少しだけ聞き取ることができた。重く、地鳴りのような、どこかで聞いた覚えのある声だった。どこで聞いたのだろう? そんなことを思った。


「帝都へ向かえ」


 重い声が、今度ははっきりと聞こえた。帝都、というのはどこのことだろう。まったく聞いたことがない。そんな場所、日本にあっただろうか?


 いや――


 そこで思い出した。


 そういえば、自分がいる場所は日本ではないことを。なにかしなければならないことを。はっきりと、思い出す。


 動かなければ、と思った。


 だけど、いまの自分には手も足もない。そんなもの、とっくの昔に融けてなくなってしまっている。そもそも、融けた自分は想像を絶する熱を持っているので、地面すらも融かしてしまうのだ。それでは、移動しようしたくても落ちていくしかできない。現に、いまもなお融けた自分はどこかに落ち続けている。


「目を覚ませ。異邦人」


 声が聞こえる。融けている自分のすべてを振動させるような重さを持つ声。なのに、威圧感は感じられない。その声は、自分にとってとても重要だったはずだ。だけど、その声が誰のものだったのか、どうしても思い出せない。なにか悪いことをしているような気持ちになった。


「お主は最初の洗礼に打ち勝った。実に見事だ、異邦人。あとは目を覚まし、自らの両脚で歩き出すのだ」


 そんな声が聞こえて――

 失われていたはずの身体が再構成されていく。


 目の前に光が見えた。それに向かって、再構成された手を伸ばす。すぐそこにあるように見えるのに、どうしても届かない。


 あれをつかむには、寝ていた状態では駄目だ。あの声が言うように、自分の脚で立ち上がらなければ届かないだろう。


 立ち上がれ。


 そう強く願い――


 光に手が届く。指先が、ほんの少しだけ。


 その瞬間――


 融けてなくなっていた、氷室竜夫のすべてが濁流のように押し寄せてきた。



「おい、あんた。こんなところでなにをやってんだ?」


 目を覚ました竜夫の耳に入ってきたのは、聞いた覚えのない男の声。はじめて見る顔の男が地面に転がっていた竜夫の顔を覗き込んでいる。髭をたくわえた、彫りの深い顔をした男。年齢は五十過ぎくらいに見えた。


 そんなことを言われ、自分はなにをしていたのだっけと思う。なにか、とてつもないことがあったような――


 竜夫は上体を起こし、あたりを見回した。あたりには舗装された道以外、目につくものはなにもない。


 ここはどこだ? どうして自分はこんな場所にいるのだろう?


「最近ここらに出る強盗団にも遭遇したか?」


「いえ、そういうわけでは――」


 ないんですけど、と言おうとしたところで思い出した。


 自分が異世界に召喚されたらしいこと。


 状況がなにもわからないまま牢獄にぶち込まれ、そのあとすぐに錆色の竜に救出されたこと。


 それから――


 いや、待て。なにか重要なことを見落としている。そもそも――


「あの、僕がなにを言っているのかわかるんですか?」


 自分の記憶が間違いでなければ、向こうがなにを言っているのかすらわからなかったはずだ。自分を助けてくれた、あの竜を除いては。


「そりゃわかるよ。随分と綺麗に話しておいてなに言ってんだ。外国人かと思ったが、もしかして、こっちで生まれた移民二世か?」


「…………」


 この男が嘘を言っているようには見えなかった。というか、言葉が通じていなかったのなら、このように会話が成立するはずもない。自分の言葉はこの見知らぬ男にしっかりと伝わっている。こちらとしては、日本語をそのまま喋っているはずなのに、なんらかの力によって、この国の言葉に変換されているらしい。


「移民ではないんですけど――ところで、ここにいたのは僕だけですか?」


 自分の記憶が間違っていなければ、竜の背に乗ってここまで来たはずだ。


「そうだよ。まるでさっきまで連れがいたみたいなこと言うじゃないか。やっぱり、強盗団に襲われたのか?」


「……いえ、僕が一人だったのならそれでいいんです。気にしないでください」


 この男が、あの竜に気づかなかったとは思えない。


 やはり、自分を助けてくれたあの竜は消えてしまったのだ。無力な自分を助けるために、その力をすべて竜夫に与えて。


 きっと、異世界の住人であるこの男と普通に会話できているのも、自分に与えられた竜の力によるものなのだろう。


「つかぬことをお聞きしますが、僕はどれくらいここに転がっていたのですか?」


「知らんよ。俺が通りかかったのはついさっきだからな。まあでも、このあたりでは最近、強盗団が出るから、それほど長くはないんじゃないか。何時間も転がっていたのなら、身ぐるみはがされるか、もしくは拉致されてるだろ。手荒なことされたようには見えんしな」


 竜夫は一応、自分のポケットを確かめてみた。ポケットにはしっかり、スマホと財布の感触がある。この男が言うように、竜夫が何時間もここで寝ていて、件の強盗団に現れていたのなら、自分のポケットにこれがそのまま入っているとは思えない。まあ、日本銀行券と通信機能が要を成さないスマホがこの世界でどれくらい価値があるのかは不明ではあるけれど。


「あの、帝都という場所に行きたいのですが、それはどちらの方向ですか?」


「帝都なら、この街道をこっちの方向に行った先だよ」


 男が指をさしながら言う。その先は地平線の彼方まで平野が続いていた。街のようなものは小さくすら見えない。帝都までかなりの距離があるのは間違いないだろう。


 だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。この見知らぬ世界でただ一人、誰にも知られぬまま死んでいくのは嫌だった。


 それに、ここで立ち止まっていては、あの竜が自分に力を与えた意味すらなくなってしまう。


「ありがとございます」


 竜夫は、男に一礼して歩き出そうとする。どれくらい距離があるのかはわからないが、こうやって舗装された道があるから迷ったりしないだろう。それだけはありがたかった。


「おい、あんた。まさか歩いて帝都まで行くつもりじゃないだろうな? 歩いていったら丸二日はかかるぞ」


 そう言われて、竜夫は歩き出そうとした足を止めて振り返る。そこには、呆れた顔をした男が立っていた。


「ですが、他に方法はないですし」


「……乗っていけ」


 男はそう言って、後ろを指さした。そこには、自動車のようなものが停まっている。それは歴史の本で見た、クラシックカーに似ていた。


「こうなったのもなにかの縁だ。俺も帝都に行く途中だったからな。それに、ここでおいていったあんたが野垂れ死になんかしたら、こっちとしても寝覚めが悪い」


「自分でこんなこと言うのもなんですが、お金なんて持っていませんよ」


 竜夫がいま持っているのは、日本銀行券と免許証とカード類が入った財布とスマホだけだ。スマホはともかく、日本銀行券やら免許証やらカード類が、異世界で価値があるとは思えなかった。


「いいよ別に。金持ちがこんなところで転がってるわけないからな。武器を持っているようにも、強盗団に通じているようにも見えねえしな。それとも、車は危ないから乗りたくねえってタイプか?」


「いえ、そんなことはありません」


「じゃあさっさと乗れ。ここでちんたらしているわけにもいかないからな」


 竜夫は男に促され、車へと乗りこんだ。

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