第7話 月落樹の雫
ロペス商会を後にしたヒューイは、街を散策する気も失せて寄り道もせず我が家に戻った。左肩をさすりつつ荷車を納屋にしまいこむ。息を大きく吸い込めば青々とした草花の香りが体を満たし、ヒューイの心を少しばかり落ち着かせた。
マイヤー伯爵家。
ヒューイは憮然とした顔のかの人物を脳裏に浮かべる。師匠に教わった知識によれば、マイヤー伯爵家が治める領地はバイエルンよりかなり東方。そんな場所からこの迷宮の未踏破領域を発見し挑む。大量の物資をかき集め、少なくない私兵を率いて。ギルドの目を欺いてまで。
ヒューイはその行動に疑問を持たざるを得なかった。
迷宮都市は国によらず独立都市として自治機能が確立されている。それは迷宮による恩恵を一国が受けすぎないようにするためのギルドの措置であり、また国という単位に縛られない冒険者に配慮したためだ。逆を言えばどの貴族領地でもない迷宮に遠方の貴族が挑んでも何ら問題はない。未踏破領域を私兵だけで攻略すれば武名を高めることも不可能ではないだろう。一番乗りを目指すなら情報を隠匿する必要もある。
並べられた情報には整合性があるにも関わらず、どこか引っかかりを感じていた。
あるいは武名を高める以外の目的がある……?
「……考えても仕方がない、か」
下手の考え休むに似たり。ヒューイは鬱積した疑問を棚上げにし、ながら作業にしていた庭仕事に集中する。
住宅兼店舗の我が家より、見た目以上に菜園は広い。植物の成長を極力妨げないようにして育てているため、一目には雑然としているようであるが、きっちりと用途や季節に即した植えられ方をしている。
もちろん、そうしないと畑仕事が大変だからだ。
ヒューイは庭の隅で育てていたプリモンテの植え替えをしていた。プリモンテは小振りなハート型の葉と、可愛らしい濃紫色の花弁が特徴的な薬草の一種であり、園芸品種としてもそこそこの人気を博している。単体ではそれほど効果を成さないものの、魔除けの効果で知られる植物だ。
発芽しある程度育ったプリモンテは鉢で育てる必要がある。それはプリモンテの生長に起因し、放っておくと枝を伸ばして地面に際限なく繁茂してしまうのだ。人の住まなくなった廃屋などがプリモンテに覆われている様をたまに見かけるほどに。
十株ほどのプリモンテを日当たりの良いデッキテラスに移動させたら、頃合いになっていたミニッツの実やワレン、バウムのなどを収穫しつつ庭全体に水やりを行う。裏手の井戸水にヒューイの魔力を馴染ませた魔力水だ。菜園には魔力の濃い土地でしか育たない植物もある。もしくは水の硬度であったり、含有成分に偏りをもたせたりなど。それらをひとつずつ用意するのは手間であり、魔力水を調節する事で賄っている。
無論、容易にできることではない。
駆け出しの調合師なら魔力水を沸騰もしくは凍結させる程度で、一人前とされるレベルは温度管理ができること。それ以上に至っては各人の秘となる技術だ。どれだけ高名な調合師であろうと、ヒューイほど魔力水を上手く操る者は指折り数えるほどしかいないだろう。そこまでの技術を身につけたのは偏にヒューイの努力の賜物で、そしてそれ以上に師匠のネジが外れていた。もっとも、師匠以外の調合師と会う機会が少ないヒューイは、その些細でいて甚大な違いを察することなどできないのだが。
その件の師匠であるが、実のところヒューイには一つばかり心当たりがあった。
それは店名にもなっている『月落樹の雫』を探すという目的だ。
どんな傷や病をも立ち所に直してしまうとされる霊薬、エリクサーの精製に欠かせない素材であり、月落樹の葉、俗にシヴァの葉は伝承では蘇生薬の芯材とされている。月落樹は夜空に浮かぶ月から落ちてきた樹木とされ、その幹は白皙、三裂した葉は古びた書物のような掠れた緑。この世界のどこかにひっそりと屹立し、故郷の月へと今もなお枝を伸ばしているとされる。伝承では大陸の果てにあるとも、誰も越えられない山脈の向こうにあるとも、もしくは木こりが既に倒したとも謂れは無数。
師匠がかき集めた巻物や書物、証言によれば人類史で数度、エリクサーは登場した。そのいくつかは嘘の可能性は捨てきれない。だが師匠は何らかの手段を用いて、たった一つの実例を掴んでいた。
つまりそれはエリクサーの素材、月落樹が実在すると言うことに他ならない。
「そういえば」
ヒューイはあることを思い出す。それは師匠が姿を消す前日のことだ。
その日もロペス商会に品を卸してから庭仕事をしていた。ヒューイは入り口脇のポストに投函された、師匠宛ての手紙を持って師匠の部屋をノックした。手紙の大半は開けもせずに燃やしてしまうのだが、その時はまるで爆発物でも扱うかの様にその手紙を持って引っ込んだのだ。表情は期待とも、不安とも取れる複雑な模様を描いていた。
あの手紙には何が書かれていたのだろう。
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