第9話 かみしもの区別
小さい頃、母親に口を酸っぱくして言われていたことのひとつ、
「かみしもの区別をつけなさい」 という台詞。
母から見て私はきちんとできていない方だったと思われるが
そんな自分から見て現代の日本はかみしもの区別がついていなさすぎである。
外でところかまわず地べたや階段に座り込み、
立った時に払うでもなく、そのまま帰宅して家の中でも座ってしまう。
鞄を地面に置いてしまう上、その鞄をテーブルにも平気で置く。
公園のベンチの上に靴を履いたまま立つ、散歩させていた犬を載せる。
汚いという感覚がないし、上下の区別がついていないのだ。
以前大河ドラマを見ていたら、藩主からもらった物を頭上に掲げて持ち帰り
ふらふらになって倒れそうになっても上に掲げようとし続け
事情を聞いて慌てて他の者が受け取り頭上に掲げるというようなシーンがあったが
この感覚がもはや無いのではないだろうか。
家では高いところにあるものを取るのにも、テーブルの上に載るのは許されなかった。
食事を載せるところであり足蹴にして良いところではないから
椅子や脚立などを持ってくる。
寝ている人をまたぐのもNGだし、枕をまたぐのも駄目だった。
理由は、頭を載せるものだから、である。
そう言えば、剣術道場でも、真剣だろうが居合刀だろうが木刀だろうが
他人のものはもちろん自分のものも跨いではいけないと
師範がやはり厳しく仰っていた。
これも同じであろう。
テーマパークへ行った時、周り中が土足で縁石やフェンスの上に乗って
パレードを見ようとしている中で、ある家族だけが石造りのベンチの上に
靴を脱いであがっていたのを見たことがある。
寧ろこの家族の方が特殊に映ってしまうほど、今の日本はかみしもの感覚に疎い。
人が食事をしているテーブルの横に鞄を置き、
注意しようものならこちらがうるさい、潔癖症と馬鹿にされる始末だ。
勿論衛生問題もあるが、やはり観念の問題である。
礼儀の問題なのだ。
こればかりは感性の問題であり、ならぬものはならぬの世界なので
そうした感覚がないまま育ってしまうといくら言われてもぴんとこないのではないだろうか。
電車で子供が窓の方を向いて座席に膝立ちになりたがるとき
靴を脱がせる親も見なくなってきたし、
人混みで子供を抱きかかえる際、靴を脱がせる光景も見なくなった。
時々傘を真横に持ったり腕にかけて斜めになって人を刺しそうになったり
電車内で高い位置に持っていて前に座っている人の膝を水滴で濡らしたり
といった持ち方が話題になるが、
石突の部分を地面につける、地面の方を向けるというのも
かみしもの感覚が関係してくると思う。
かみしもの区別の感覚が無い人にとっては些細なことなのだろうが
本来の日本人としての感覚が薄れているようで空恐ろしくなるし、
自分の親もそう感じて自分にしつこく言っていたのかなと今にして思う。
もしかしたら、神棚のある家が少なくなってきたというのも
かみしもの区別がつかなくなってきた理由なのだろうか。
神様だから神棚は上に作るし、一番上に作れない事情があれば
天井に雲を貼る。
結界という考え方があれば、家に入る前に
江戸時代のように足を洗うまではしなくとも穢れを祓い
手を洗い清めて部屋着に着替えるのが当たり前だと思う。
雨は嫌いではないのだが、傘や靴の扱いを見ていると
雨の日の電車は、そんなことをつらつらと考えてしまうのだ。
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