日本語に時制はないか?

※自身のエッセイから転載


「日本語に時制はない」


 昔大学でスペイン語の授業を受けていた時、教授に言われた言葉で印象に残っている言葉の一つがこれだ。はじめ「ヨーロッパの言語と比べて日本語は時制がはっきりしない言語である」と聞いた時、私はあまりこの言葉の意味がよく分かっていなかったように思う。何を言ってるんだ。現在は「食べる」、過去は「食べた」。立派な時制じゃないか、と。

 しかしスペイン語と英語の学習を通じて、あの時教授が言いたかったことが最近段々分かってきた。確かに日本語にはヨーロッパの言語のような厳格な時の前後関係に支配された「時制」が存在しないのである。

 結局私が今のところもっている仮説は、日本語の時制はアスペクトと時制が組み合わったものなのではないか、ということである。


 実際の例文を見てみよう。


 ・今日は寒い

 ・昨日は寒かった


 この二つは完全に時制である。この「寒い」は明らかに現在、「寒かった」は過去である。「昨日学校に行った」と言っても過去であることに変わりはない。

 しかしこれでもって全て解釈しようとすると問題が発生する。以前、日本語教師をしていた方の講演を聞いた時、この二つの文の違いを説明してくださいと言われた。


 ・上海に行った時、バッグを買いました

 ・上海に行く時、バッグを買いました


 もし日本語に時制の一致なんてものが存在するなら、この文はおかしいことになる。しかし日本語ではこの二つのどちらも非文にはならない。状況によって使い分けているのだ。

 では違いは何かというと、前者は「上海に行った後」つまり「上海に到着してから現地でバッグを買った」ことになるのに対し、後者は「上海に行く前(上海旅行の準備している時、あるいは空港など)にバッグを買った」ということになる。実際、「~した後」「する前」というのは「後」は「た」と、「前」は動詞の終止形(辞書形)とセットで使われる。

 この「行く」「行った」という二つの形が表しているのは「現在」「過去」という時制ではなく、「行く」という動作が完了したかどうかの「未然」「完了」を表している。(つまり中国語で言うところの「了」である)


 こう考えると、確かに日本語の動詞には時制以外の要素が存在するということが分かってくる。例えば、


 ・「田中さん来た?」「まだ来てない」「あ、来た! 来た!」

 ・「コーヒー飲む?」「うん、飲むよ」


 というやりとりも別におかしくないことになる。(前者はマーク・ピーターセンの「日本人の英語」から抜粋した)これらの動詞の形はそれぞれ、「来た(来るという動作が完了した)」「飲む(今からのもうとしている。まだ飲んでいない)」を指している。

 「た」が完了の意味を表していると考えるのなら、「楽しいと思った」という文の「楽しい」をいちいち「楽しかった」にしないのも理屈が通るように思う。もっとも、英語はヨーロッパの言語には日本語と違って形容詞自体には過去形がないので、あくまでもbe動詞のようなコピュラが過去形になるだけであるが。


 「している」に関しても同じことが言えそうである。「している」は英語の現在進行形と同じ場合もあるが継続のアスペクトを表すこともあり、百パーセント同じではないがロシア語でいう不完了体のような役割を果たす。

 例えば「知る」と「知っている」、「覚える」と「覚えている」はもはや別の意味の動詞である。アメリカ映画のあるシーンで、


 I remember you... (お前のことを覚えているぞ……)


 というシーンを見た時、私は日本人的な感覚としてこのrememberが現在形なのがちょっと変だなと思ってしまった。日本語なら「覚えている」だからである。ちなみにスペイン語版も見てみたが、Te recuerdoになってやはり現在形であった。

 同じように英語ならknowを使う時(I know you/Do you know...?など)、日本語では「知っている」を使う。これは日本語で「知る」というのは「知る」という動作が完了するかどうかに焦点が置かれているからだ。例えば「今知った」という文は、「今知るという状態に達した。今に知るに至った」と言いたいのである。単に継続して何かを知っている状態を表したいならやはり「知っている」の方が適切で、「私は××を知っている」と言うとようやく英語の現在形に近い時間の感覚が表現できるわけだ。同じことが「私は○○に住んでいる」「私の父は××の会社で働いている」というのにも言える。


 まとめると、

 ・日本語の「時制」は主に四種類(「動詞の終止形 食べる」「動詞+た 食べた」「動詞+て+いる 食べている」「動詞+て+いた 食べていた」)

 ・「終止形」は現在形及び未然形

 ・「動詞+た」は過去形及び完了形

 ・「動詞+て+いる」は現在進行形及び継続のアスペクト

 ・「動詞+て+いた」は過去進行形及び過去における継続のアスペクト


 ということになる。

 しかしなぜ、日本語の「た」は完了と過去の要素を兼ね備えているのだろうか。私は高校の頃、あまりまじめに古文を勉強しなかったので長らく気づかなかったのだが、日本語の「時制」を表す助動詞は昔はもっと多かったのだ。過去だけで「き」「けり」「つ」「ぬ」「たり」「り」とこんなにたくさんある。

 そして「き」「けり」が過去を表しているのに対し、「つ」「ぬ」「たり」「り」は完了を表していた。(「き」「けり」はさらに伝聞と経験など『証拠性(言語学)』に近い使い分けがなされている。『ありし日』の『し』は経験過去、『いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり』は伝聞過去である)


 が、現代語では過去も完了も全て「た」一つに統合してしまった。結果、「た」が両方の役割を果たすようになったのではないだろうか。


 そういえば、「たり」は「てあり」が転じたものだそうだ。冷静に考えてみると「する」「した」「している」「していた」以外にも、日本語には「してくる」「していく」「してある」「しておく」などのヨーロッパの言語の時制とはまた違う微妙な時間表現が色々とある。

 「してある」と「しておく」は現在完了に近い意味合いをもつかもしれない。


 ・「してある」 過去にした動作が現在も結果が残存している場合 窓が開けてある。手紙が置いてある。

 ・「しておく」 前もって何かを準備しておく場合 切符を買っておいた。テストに向けて色々と勉強しておいた。


 そして「してくる」は未来のある一点までその動作が続くこと、「していく」は未来までその動作が続いていくことを表す。

 この辺の使い分けは結構難しいように思う。こうした日本語の文法はヨーロッパの言語と比較してしまうとぴったり当てはまらないことが多いので分析しにくいからである。例えば「学校に行く前に食事した」という文があって「なぜこの『行く』は現在形なんだ。日本語に時制なんてない」などと短絡的に決めつけてしまうと、実はこの文を支える別の構造があることが見えなくなってしまうからである。

 しかし中国語、韓国語、タガログ語といった日本の周辺の言語で比較すれば、この辺の特徴も珍しい特徴でも何でもないのかもしれない。例えばタガログ語の動詞は不定、継続、完了、未然相の四つのアスペクトを持ち、韓国語は하다(する)했다(した) 하고 있다(している)など、どちらもやはり日本語と共通点がある。


 日本語の「時制」はヨーロッパの言語とはまた違った論理で成り立っていると解釈するべきだろう。


 △補足


 韓国語では「私は東京に住んでいます」とか「日本語を勉強しています」と言うときは、日本語と違って살아요/공부합니다のような「住む」「勉強する」という形で表現することができる。この点では逆に英語と似ているかもしれない。日本語では「東京に住みます」というと東京にこれから引っ越す(=未来)意味になってしまう。

 スペイン語には英語と同じく現在進行形があり、estar+現在分詞という形で表現するが、llevar+現在分詞という形を使うと日本語でいう「~してきた」のようなニュアンスを持たせることができる。

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