わたしの戦
M
戦は毎日
やだやだやだ、全部やだ。毎日目が覚めるたびに感じるこの気怠さ。けたたましく鳴る目覚まし時計と、カーテンの隙間から差し込んでくる日差しがわたしを起こす。眠い。瞼を擦って欠伸をする。あーやだ。
リビングに降りていくとお母さんが朝食の準備をしていた。ダイエットしてるからいらないって言ってるのに毎日用意してるのはなんでだろう。低血圧なわたしは朝から誰かと喋る気になれなくて、テーブルに置かれたご飯は無視して冷蔵庫からお水の入ったペットボトルを出してコップに注ぐ。
「ちゃんと朝ごはん食べなさい」
どれだけ朝はいらないって言っても作り続け言い続けているお母さんの言葉を無視して水を飲み干す。朝からこんなの食べたら太るじゃない。お母さんはもういいかもしれないけど高校二年生のわたしは今が一番大事なの。なんでわからないんだろう。
ぶつぶつ文句を言うお母さんを置いて洗面台へ向かい、歯を磨いて顔を洗う。化粧水と乳液をこれでもかってくらいたっぷり塗ってから寝癖を直す。部屋に戻って机の上に置いてある日焼け止めとリップで軽く仕上げる。鏡の中にいる自分の顔を見つめ、小さく息を吐きながら髪の毛をアップしてまとめる。
制服のブラウスに腕を通してリボンを巻き、スカートとハイソックスを履く。玄関に行くとお母さんが、
「もう、朝ごはんくらい食べなさいよ。はい、これお弁当。しっかり食べるのよ」
と弁当箱を渡してきたので、ん、とだけ返事して鞄に入れる。わたしの学生鞄の中は財布と弁当箱と化粧ポーチに汗拭きシートしか入っていないから見た目以上に軽い。
駅までの道のりを歩いていく。すれ違うサラリーマンたちの視線を痛いくらい全身に感じる。毎日毎朝同じ時間に同じ格好をしたわたしを見るおじさんたち。苛立ちなんかしない、見ればいい。これがわたし、わたしの顔、わたしの身体、わたしのすべて。
駅に近付くにつれて人が多くなってくる。エスカレーターでホームに向かう途中に後ろから押されて思わず睨むと脂っぽい頭皮のおじさんが目を逸らしながらハンカチで額を拭いていた。舌打ちしたい気持ちを堪えて無視する。
電車の中は毎日が戦場だ。みんな同じ時間に通勤通学するからもう入れないってくらい人だらけなのに更に押し込んでくる、キチガイババアとキチガイジジイたち。この世から消えてくれればいいのに。なんで他人のことをあそこまで気にせず自分のことだけを通せるのだろう。人に押されてぎゅっと声が出そうになる。この満員電車で堂々と新聞を読む頭悪そうなおじさんの肘がわたしの肩に当たって痛い。目の前にはここは亜熱帯地域かと勘違いさせるほど汗を垂らしている太ったおじさんがいて見たまま体臭がきつくて鼻がもげそう。後ろから遠慮なくわたしの背中を押してくるのは糞みたいなケバい化粧したババアで思い切り足を踏んでやろうかと思ってしまう。
毎日揉まれてなんとか乗り換えの駅に着き、人の流れに合わせて下車する。ほんとゴミみたいな大人たち。
ここから更に学校までの電車も混んでいるのだが、先ほどまでとは違い同じ高校生だらけになるからいくらかマシになる。
「ミツナ、おはよー」
乗り換えのホームで音楽でも聴こうかと思っていたら同じクラスの春菜が後ろから声を掛けてきた。彼女とは一年からずっと一緒にいる。
「あ、おはよう」
「今日の一限って数学だよね、課題やった?」
「え、課題なんてあったっけ」
「うんあったよ、ってことはミツナもやってないんだね。よかったー」
別にわたしがやってないことと春菜がやってないことは関係ないことのように思えるが彼女にとっては大切な仲間意識なのだろう。
「数学の前川ってまじで嫌味ばっか言ってきてうざいよねー」
「だね、根暗オタクだから顔キモいし」
「だよねー、まじきもー」
春菜は豪快に大口を開けて笑った。彼女のこういう馬鹿っぽいところが好きだ。
電車が轟音とともに滑り込んできたので一緒に乗り込む。春菜は最近ハマっているスマホゲームをやり出したのでわたしはぼうっと窓の外の景色を眺めて過ごす。
わたしたちは毎日同じ場所で毎日違う一日を送る。支配された生活の中に必死に楽しさを見つけて笑って傷ついて怒って慰め合う十七歳。世の中のことなんてわからないけれど、とりあえずわたしの周りにいる大人は九十パーセント死んでくれ。なんで九十パーセントなのか、その根拠は、理由は、云々言ってくるやつは真っ先に逝け。
高校に着いて下駄箱でローファーを脱ぎ渡り廊下を通って階段をのぼり教師へ向かう。わたしの隣では春菜がさっき駅で一緒に撮った動画を編集してInstagramに投稿していた。
「見て見て、ストーリーに上げといたよー」
春菜は楽しそうにスマホを掲げているからわたしはInstagramを開いて動画を確認してあげる。春菜とわたしが駅の改札を出たところで一緒にポーズをとっていて、これから学校ダルー、というテキストが追加されていたから、いい感じじゃん、と答えて笑っておく。
教室に入ると真美が、
「ミツナ春菜聞いてー、超ヤバいんだけど」
「なに」
わたしと春菜が同時に振り向くと真美が両手を広げながら抱きつくようにこちらに向かってきた。彼女とも一年の頃から一緒のクラスでわたしたち三人はだいたい一緒にいる仲だ。
「関ジャニのライブ当たったの」
興奮しながら話す真美に、
「うそヤバー」
とすかさず返事をする春菜。
「でしょー、生手越くんとか超興奮するんですけど」
「ヤバいねそれ」
「まじヤバじゃんー」
「いつ行くの」
「年末だよ年末、あたし今年で死ぬかも」
「ウケる」
「ヤバー」
わたしたちは教室の後ろでこれから試合でもするかのように円陣を組みヤバいヤバいと友の今生の門出を賞賛した。こんなにお目出度い日はそうそうないから思いっきり拍手して飛び跳ねて踊り狂う。
「ちょ、撮るからそのまま」
すかさず春菜がムービーを撮り出した。わたしと真美は関ジャニのチケットが取れた舞を披露する。
「ウケるんだけどー」
「いえーい」
その光景はすかさずInstagramにアップされ拡散される。わたしたちの今という貴重な瞬間をムービーに保存して世界中の人類が観ることを許されるこの時代、怖いものなんて何もない、すべてが許容され認められ保存されていく。ねえみんな見て、わたしたちのいるここ世界の中心で、最も華やかな世界よ。
「春菜も踊って」
真美が春菜を誘うので、わたしたち三人はそのまま世界を回し続けた。
予鈴のチャイムが鳴り世界の終わりを悟ったわたしたちは、ヤバい数学ヤバい前川ヤバい課題ヤバい死ぬヤバいやる気出ないヤバいきゃはは、と口々に言い合いながら席について机の中から課題として配布されてそのまま取り残されていたプリントを広げた。ちなみにわたしは手の施しようがない紙きれにとりあえず名前くらい書いておく。
「ホームルーム始めるぞー」
担任がやる気があるのかないのかわからないテンションで入ってきて名簿を取り出す。
「はい全員いるな。じゃあ来週から文化祭の準備が始まるから、えーっと、文化祭の実行委員を二人決めてくれ」
文化祭だってさ、ヤバいもうそんな時期。クラスが騒つく。わたしは数学の課題プリントにひたすらxとyの交差点の図という自分でも理解できない図を書いて時間を潰す。
「木曜日の放課後に実行委員のミーティングがあるからそれまでに決めておくように。以上」
騒ぐ教室で担任はそれだけ言って、じゃあまた後で、と去っていった。彼は生物の担当で、わたしたちの三限目の担当だ。
席から窓の外に視線をやると民家やビル群がどこまでも広がっている。風がふわっと吹いてカーテンを揺らした。そのまま目を閉じて眠ってしまいたくなる。高校生はやることが多すぎる。
気付かぬ間にチャイムが鳴っており一限の担当である前川先生がのっそりと教室に入ってきた。彼は背が低く小太りで、本当にのっそり、重心だけを前方に移動させて歩く。
「授業始めます」
教壇に立ちこちらの意識をまるで無視して彼は淡々と授業を進めようとする。
「では、まず課題の確認から。プリント出して」
わたしは自分の名前と先ほどの図しか書かれていないプリントを机の上に置く。
「今日はそうだな、一番課題をやってなさそうなやつ、大川から答えろ」
当てられた大川くんは、うえ、と反応して立ち上がった。大川くんが一番課題をやらない生徒だと認識されているならわたしは何番目なのだろう、ただの一度も課題をやったことないけれど。
前川先生の、目が嫌いだ。死んだ魚のような生気のない目でわたしたちを見ている。この人の世界にわたしたちは映ってない。
答えられない大川くんをそのまま立たせ、前川先生は次に、飯田、と言い放った。春菜が斜め下を向きながらガラガラと音を立ててつつ立ち上がった。
「なんだお前ら、揃いも揃ってやってきてないのか」
前川先生の問いに返事をせず沈黙が流れる。この、沈黙、に針で刺して穴を開けてやりたい。ただ生徒を叱るだけのなんの生産性もないこの時間に費やしてるわたしの貴重なこの瞬間がもったいない。きっと教師たちは言うのだろう、お前らのためを思って、お前らの将来を、お前らこのままだと。そんなことにどうしてわたしたちが興味あると思うのだろう。そんなことよりInstagramのフォロワー数の伸ばし方を教えてくれ、YouTuberとして稼ぐにはどういったことに留意すべきか示してくれ、社会で一人になったときに戦う術を伝授してくれ。ま、教師なんて社会に一度も出たことがない人たちの集まりだからそんなこと知る由もないだろうけれど。
一限の数学が終わると春菜が顔を赤くさせながらわたしのところへやってきた。
「さっきのまじウザいんだけど」
さっきの、というのは数学の担当である前川先生の態度のことだろう。
「なにあいつ、超キモい」
春菜は先ほどの時間、授業開始とともに課題をやってきていなかったことを責められ、誰かが回答を解くまで着席を許されなかったのだ。
「てか数学の課題やってきてないやつ多すぎじゃなかった。ちょっと笑いそうになったんだけど」
思い出しながらわたしはまた笑いそうになる。恐らく前川先生が課題をやってきてないであろうやつらを重点的に当てていったのだと思うが、最終的にクラスの約半分の人間が総立ちになったのだ。
「まあ確かに最後の方はあたしも笑いそうになったけどさ」
「でしょ、うちのクラスに課題なんて出すなっての」
「そーそー、あたしたち別に進学コースじゃないんだから勉強する意味なんてないし課題とか出すのやめてほしいよねー」
「ほんとそれ、まじ無意味」
「まじ無意味ウケるー」
機嫌を直した春菜は笑いながら手を叩いた。
「そういや次ってなんだっけ」
時間割の確認をその日のその時間にする癖がついている春菜はキョロキョロと周りを見渡してみんながどの教科の準備をしているのか確認している。
「現国っぽくない」
「だね、現国だねー」
「楽なので良かった」
現代国語の担当をしている守口先生はほとんど生徒に興味を示さず、毎回ただひたすら黒板に板書をし、教科書を読み、去っていく。
わたしたちは守口先生の時間を睡眠時間と捉えており、束の間の休息を得る貴重な時間として重宝している。
「ねーねー、ピンチなんだけど」
真美が慌てた様子でこちらにやってきてわたしの机をバンと叩いた。
「どしたの」
「現国の教科書忘れた」
「なんで、ウケるんだけど」
「わかんない、なんでか知らないけど現国の教科書この前持って帰っててさ、持ってくるの忘れた」
「ヤバ」
「ヤバいウケる」
「ヤバいよね、あはは」
わたしたちに告白して安心したのか真美は声を上げて笑い出した。
「隣から借りる?」
「うん、借りてくる」
「いってら」
「マッハのわたしを見てて」
真美はそう言い残すとスカートを翻して勢いよく駆けていった。運動が苦手な真美のマッハな速度はわたしの歩くスピードと等しくて見ていて抱きしめたくなるほど可愛らしい。彼女は教室を出てお尻をぷりっと振りながら隣へと向かっていった。
わたしたちは毎日を全力で生きているし全力で楽しもうとしている。教師たちからしたら仕事としての一日が始まって終わっていく中の過程としてわたしたちっていう存在があるだけなんだろうけれどわたしたちは必死だ。大人に逆らおうだなんてこれっぽっちも思ってない。大人がいちゃもんをつけてくるだけ。髪の毛を染めて制服を着崩しスカートを短くしてメイクすることで、社会に出たらそんなこと許されないって叱咤してくる大人たちに教えてあげる。世の中可愛いが正義だってこと。黒髪おかっぱメガネロングスカート白のハイソックスを履いてる女の子が悪だなんて思わないしその子たちを否定する気はない。けれど待って。社会に出たらいきなり化粧しろ髪の毛綺麗にしろムダ毛処理しろ甘い匂いを醸し出せって言い出すのは誰。電車の中のつり革広告でわたしは毎日見てるんだ。世の中の偉い顔したおっさんたちが女に何を求めているのかを。
二限目、三限目、四限目と順調に終わってようやくお昼休みがやってきたときにはわたしたちはもうくたくた。水中であっぷあっぷしながら懸命に息継ぎしていたわたしたちがようやく浜辺に打ち上げられて思いっきり深呼吸できる時間。
わたしはいつものように春菜と真美と三人で集まってお母さんに今朝もらった弁当箱を開ける。のりたまのふりかけがかかったご飯と昨日の晩御飯のときに余分に作っておいたのであろうハンバーグ、卵焼き、ブロッコリー、にんじんのソテーが詰め込まれていた。
「ミツナのお母さんってマメだよね、そんな綺麗なお弁当毎日作ってくれるんだもんね」
真美はわたしの弁当を覗き込みながら菓子パンを頬張っている。彼女はお弁当を持ってきたり、朝コンビニで調達してきたり、お昼に購買で買ってきたりとその日その日で昼食が異なっている。
「ほんと、ミツナん家いいなー」
春菜も弁当を出してつついているが、主に冷凍食品が大半を占めているのが気に入らないんだそう。
「えーでもわたしダイエットしてるっていうのにいつも炭水化物ばっかり作ってくるしカロリー気にしてないしそんな良くないよ」
「贅沢」
「まじ贅沢」
二人はそれぞれ顔を見合わせてからわたしの脇腹を同時にくすぐり始めた。
「きゃ、やめて、あっ」
くすぐられたわたしが身体を捩って回避しようとすると、
「何今の、きゃっ、だって」
「やだー超エロいー」
「あはんっ」
「いやんっ」
春菜と真美は立ち上がって思い思いにセクシーポーズをとりはじめた。春菜はスカートの裾を持ってパンツが見えるギリギリのところでポージングし、真美は自慢の巨乳を寄せてアピールしている。
「ちょっと、春菜は下品だから許せるけど真美は許せない」
「下品ってなによー」
「なんで春菜は許せてわたしは許せないのよ」
「おっぱいが狂気」
「おっぱい星人」
わたしと春菜は真美のおっぱいを揉んでやろうと手を伸ばす。真美は、揉まれてたまるか、と両手で胸をガードしていた。
「ほんと真美のおっぱいヤバいよね」
「うんまじヤバー」
「今何カップあんの」
真美はわたしたちの攻撃を回避できるギリギリの距離で立ち止まり、
「よくぞ聞いてくれました」
といきなり演説を始めた。
「わたしも最近自分の測ってなくてさ、先週ちょうど測りに行ったのです」
「どこに」
「近所のイオン」
近所のイオン、とわたしと春菜が声を合わせて叫び、そのまま笑いが込み上げてくる。
「ちょっと、笑わないで」
「イオンてあんた、ババアじゃん」
「いいの、いつもイオンでブラ買ってんだから笑わないで」
春菜がババアヤバいとお腹を抱えて笑っている。
「ごめん、で、続き聞く」
わたしが促すと真美は笑い続ける春菜を無視して話し始めた。
「先週カップ測ったらさ、なんと、わたし、今、Fカップありました」
えふ、またわたしと春菜が同時に叫んだ。Fカップある女子高生なんてこの世に何人いるんだ。真美は自分のおっぱいを強調させながら踊り出す。
「あんた、あと十年で垂れるわよ」
踊る真美をまじまじと見つめながら春菜は自分の胸に手を当ててぼそりと呟いた。
「いや、後年の命ね」
その言葉を無視して踊り続ける真美に、追い討ちをかけるようにもう一度春菜は呟く。
わたしは踊る春菜と呪う真美を眺めながら笑い続けた。おっぱいがあろうがなかろうが、垂れようが垂れなかろうがそんなの関係ない。わたしたちはおっぱいなんかよりももっと素晴らしいピチピチした肌と瑞々しい髪、皺一つない顔にとびっきりの笑顔で今日を過ごせている。無敵だと思う。わたしたちに敵はない。なんでもこい。わたしたちは強い。
束の間のお昼休みが終わり五限目が体育だったためわたしたちは昼休みのうちに体育館の隣にある更衣室へ移動する。お弁当独特の食べ物が酸化していく過程のにおいが各教室から溢れている中を歩いてわたしと春菜と真美は体操着の入った袋と体育館用のシューズが入った袋をぶらぶらさせて進む。きっとアラサーくらいになったらこんな時、ご飯食べたばかりで運動なんてできるかよって言い出すことになるんだろうか。胃もたれや内臓の機能低下とは無縁な女子高生は今日もパタパタと足音を鳴らして廊下を歩く。
「今日は負けないからね」
運動音痴の真美が張り切った声を出す。
「戦う前から負けてるから」
「勝ちたかったらおっぱい取りなよ」
女子高生にも関わらずFカップを誇る彼女の胸をわたしと春菜は凝視する。
「おっぱいは取れませんしおっぱいで勝ちます」
「なにそれ」
「おっぱい星人め」
きゃはははは。おっぱいを揺らしながら真美は歩く。これこそあれだ。威風堂々。
更衣室で着替えてると真美が、
「見て見て、ねえ見て。わたしの新しいブラ」
ピンク色にごついレースのついた巨大なブラジャーを見せびらかすようにわざとキャミソールをずらしながらこちらに見せてきた。
「それが噂のイオンのブラー?」
と春菜が覗き込む。
「そうなの、可愛いくない?」
「可愛いけど、なんか、巨大な桃みたーい」
「うん、桃だね」
「え、桃?」
「美味しそうじゃん」
「食べていい?」
「え」
「食後のデザート」
「え」
わたしと春菜は同時に真美のおっぱいを鷲掴みにした。がっちりとワイヤーの入っているブラジャーは硬くて、指先に当たる真美の生おっぱいはとてつもなく柔らかかった。
「ちょっと、めちゃくちゃ柔らかいんですけどー」
「ヤバ、揉みごたえありまくり」
「やだ、やめてよ、離して」
「これを揉まないやつは人生損してるねー」
「うん、これは国宝」
「やだ、ちょっと、外そうとしないでよ、やだって、いやー」
女子高生に夢中になるおっさんの気持ちが少しだけわかる気がした。こんなに柔らかくてもちもちしてて、けれどすべすべでひんやりと冷たい、触れば触るほどに相手は反応してくれるものを目の前にして触らない反応しないなんてどうかしてる。もっと揉みたい。もっとぐちゃぐちゃにして、舐め回して噛みついて吸い付きたい欲望が身体の中から湧いてくる。男に生まれて一度でいいから穴に突っ込んでみたいもんだ。
「もう駄目だってば、いや」
あまりにわたしたちが揉み続けていたせいで真美はその場に座り込んでしまった。
「あ、ごめん、夢中になってた」
「ごめん、気持ち良くてつい」
真美は、こんにゃろ、と言いながらわたしたちの胸を掴んできた。
「え、待って、なにこれ、ねえ、あんたたち、ねえ、え、ヤバ、おっぱいどこ」
そう言いながら笑い出す真美のブラジャーのフックを素早く外してわたしは体操着に着替えた。
「早く行くよ」
「待って、なんでブラ外すのよ、待って」
春菜も無言で着替え終わりわたしたちは真美を待たずに体育館へ向かった。
先週からバドミントンをやり始めた体育の授業は比較的自由度が高く、コートの準備をしたら各々に試合をやっていればよいことになっている。
授業が始まるチャイムが鳴る前にコートの準備を終えたわたしたちはラケットでシャトルを打ち合った。まずは春菜と真美が試合をする。
「絶対負けないから」
「いやいやもう負けてるからー」
気合い十分な二人を見守りながらわたしは審判役をする。
春菜は小中とバレーボールをやっていたらしく比較的運動神経が良い。大抵のことはそつなくこなすのが彼女だ。真美が打ち上げたシャトルの中心を見極めて上手にスマッシュを打つのは流石と言っていい。
「きゃ、もう、春菜怖い」
「いや怖くないからー」
体育だけは誰よりも輝ける春菜はラケットを片手でくるくる回しながら上機嫌に次の準備をしている。
「もう、ミツナ、一緒にやろ」
「えっこれシングルだけど」
「いいの、春菜には二人でやんないと勝てない」
「いいわよ、二人してかかってきなさいよ」
真美に促されてわたしはコートに入りラケットを握った。
しかし、というか案の定、わたしと真美の二人でしても春菜に叩きのめされる結果となった。
体育館の床を擦るキュッキュッという音とシャトルを打つポーンという音が重なって心地良く耳に届く。気持ち良くなって思いっきり伸びをすると体操着からはみ出た脇腹を真美に突かれて変な声が出た。
真美と一緒になって二対一でやっても春菜にボロ負けしたわたしは疲れ果ててその場に座り込む。
「ねえ、ちょっと休憩しようよ」
「え、もう? だらしないわねー」
「春菜がゴリラすぎんのよ」
「バナナ持ってこいやー」
ラケットを持ちながらガッツポーズする春菜をスマホで撮ってあげる。
「学校にゴリラ出現ってストーリーに上げとく」
「やだーなんでそんなことするのー」
わたしたちが騒いでいるとラケットを片手に持った篠崎さんがこちらに近付いてきた。
「ねえ、もしコート空いてたら借りていい?」
「あ、うんわたしたち今やってないから使っていいよー」
「ありがとう」
篠崎さんはお礼を告げると振り返り、体育館の隅の方で固まっていた子たちに声を掛けた。
彼女の掛け声に反応して野呂さんと山口さん、渡辺さんがやってくる。
わたしたちはコートから少し離れて彼女たちがダブルスで試合をするのを観戦することにした。
篠崎さんを始めとする彼女たち四人は一様に重そうな髪型をしていて、渡辺さん以外、度のきつい眼鏡を掛けている。ショートヘアだったりポニーテールでまとめているのにどうして彼女たちの髪が重そうに見えるのだろうかと考えながら試合を観戦した。髪量が多いからなのか、真っ黒すぎる髪色のせいなのか、まだ化粧を一度もしたことがないであろう肌に汗を滲ませている姿を眺めながらわたしは彼女たちのお世辞にも上手とは言えない試合に想いを馳せた。洗顔した後はしっかり化粧水を使っているのだろうか、よく見るとうっすらと毛が生えているとわかる腕や脚に対して何も感じないのだろうか、いつも同じ髪型をしているけれどたまには違う雰囲気にしようとは感じないのだろうか。
決して彼女たちのことを馬鹿にしてるとか嫌ってるとかではない。断固として。ただ、同じ女子高生としてもっと世の中を生きやすくする術を身につければいいのに、とは思う。校則で禁じられているような派手な化粧をしろとかマニキュアしろとかパンツが見えるか見えないかくらいまでスカートを短くしろとは言わない。もう少し、毎日鏡に向き合う時間を長く持てばいいのに。自分がどういう表情になれば可愛く見えるのかとか、髪質に合った髪型を美容院で考えるとか、無駄毛を処理するとか、リンパマッサージするとか、言い出せばキリがないけれど、せめて何か工夫すれば世の中からの対応が変わるのにって思う。
同時に、彼女たちはそれを望んでいないのかもしれないとも考える。世の中の男からたくさん声を掛けてもらいたくないし、媚びてるなんて思われたくないし、わたしたちみたいに馬鹿丸出しで大声出して遊んでる子って見られたくないのかもしれない。人の人生を指摘するなんてお節介なことしちゃいけないから、わたしは彼女たちを黙って見守る。
もちろん声を掛けられれば話はするし、こっちも何かあれば喋り掛ける。それ以上でも以外でもない関係。
ピーッと笛の音が鳴り響き、体育担当の北大路先生がそろそろ片付けて整列するようにと号令をかけた。わたしたちは立ち上がって篠崎さんたちが片付けようとしているのを手伝う。
暑いね、汗でベタベタする、と言い合っている野呂さんと渡辺さんに、
「わたし汗拭きシート持ってるけど使う?」
と聞くと、二人は顔を見合わせながら、
「いや、いいです」
「わたしも大丈夫です」
断られてしまった。もし必要になったら言ってね、と伝えてわたしは片付けを終わらせて北大路先生のところへと整列しに向かう。
最後の授業、ご飯食べて運動してからの六限目はそもそもこの時間割を組んで時点で教師サイドもわたしたちに勉強させるつもりはないんじゃないかって訝しんでしまう。しかも古文。いや古文じゃなくても同じだと思うけれど、わたしにはこの時間を生き抜く自信がない。
古文担当の北原先生がなにやら日本国のようで日本国には聞こえない文章を読み上げ、それに対して考察させられるこの授業はクラスの半数以上が机に突っ伏してしまっている。男子も女子も優等生も劣等生もブスもイケメンも関係ない、ただ眠いだけの時間。
わたしはたまに、よくこんなこと習ったって将来役に立たないじゃないか、と自分の成績の悪さを達観して今は出来損ないだけれど将来はすごいんだぞとでも言いたげなことを雄弁に語る子に出会うときがある。まあごくごくたまに(定期テストの後なんかに)春菜がそう仰るのだけれど。
まあ関係ないよね、とその場では同意しておくのだけれど、高校の授業なんてそもそも義務教育じゃないんだからこれが自分の将来に役に立つかどうかなんて自分次第なんじゃないかなって思ってる。だってそうでしょう、わたしが今ここにいて睡魔と戦いながら微睡みつつ北原先生が黒板に書く文字をせめてノートに書き写そうとしてミミズ文字になっているのは、わたしが無限に広がる未来から取捨選択して選んだ結果なのだから。このミミズ文字が来月の定期テストに役立つかどうかなんてそのときになってみないとわからない。自己責任として全く意味もわからないままテストを受けさせられるかもしれないし、みんな仕方ないなあと先生が復習用のプリントを配布してくれるかもしれない。ま、テスト勉強で困ったらGoogle先生に問い合わせれば世界中の誰かが必ず応えてくれるのだけど。
「おーい、この一文を現代語訳できるやついるか」
北原先生が教室を見渡しながら言葉を放つ。それは誰かに届けようとしているものなのか、ただ単に言ってみただけなのかはわからない。
「ちなみにここテスト範囲だぞ。誰もわからないのかー」
背が高くてお腹の出ている北原先生の声は間延びしていてバナナマンの日村を連想させる。そこに舌足らずさも加わっているから余計怒っているというより仲良くお喋りしている気分になってしまう。
先生からの呼びかけにクラスの誰も応えないまま沈黙が通り過ぎた。しばらくしてから北原先生は何事もなかったかのようにまた黒板に向き合い板書を再開させた。
あーもう無理だ。少しだけ、ほんのちょっとだけ目を閉じる。念のためハンドタオルを腕と顔の間に挟んで机に突っ伏して。
先生の声が遠くなると感じた次の瞬間にはチャイムが鳴り響きようやく今日という一日の区切りがやってきたことをおしえてくれた。少し目を閉じるだけだから、残り三十分あるけどそのうちのわずか五分だけだからと思っていただけなのに。
学校自体が騒がしくなってくる。まるでようやく敵の鎖から解放された選手たちがゆっくりと立ち上がっていくときのようなイメージ、凝り固まっていた身体に開放感が膨れ上がる。わたしはぐっと伸びをして大きく欠伸をかいた。
「やば今のめちゃくちゃ大きい口してたよありえないんだけどー」
わたしの顔を見て春菜が笑っている。
「ほら見てこれ」
彼女から差し出されたスマホにはわたしの欠伸画像がしっかりと記録されていた。
「ちょっと、なに撮ってんのよ」
「シャッターチャンスは逃さないからー」
「なになに見せて」
「これ、ミツナが化け物級の大口になってたの」
「うそ、ヤバいじゃんこれウケる」
「もう、あんたたちも欠伸してたらこんな風になってるから」
「ならないし」
春菜と真美は笑いながらその写真を加工してInstagramに上げていた。これでまたわたしという存在が世界に垂れ流された。
「はい帰りのショートホームルーム始めるぞー」
活気が漲る教室に担任が入ってきて教壇に立った。
「みんな揃ってるな。はい、朝も言ったけど文化祭の実行委員を決めておくこと。それだけ。以上」
相変わらず短いホームルームだなと思いながら学生鞄の中に化粧ポーチを突っ込んで帰る準備を始める。
春菜は野球部のマネージャーとして部室へ行き、真美はバイトの時間まで学校で暇を潰すというのでわたしは一人で校門を出る。同じように帰宅部所属であろう面々と一緒に行きよりも少しだけ軽くなった鞄を肩に掛けながら。
イヤホンを耳に差し込み最近ハマってるアリアナ・グランデを流す。英語なんて歌ってる内容全くわからないけれど聴く。声がかっこいい。
駅のホームでInstagramをチェックしながら電車を待つ。春菜は一体一日何回更新してるんだってくらいストーリーに投稿してて笑う。有名人のアカウントもフォローしてるから次々にいろんな写真や動画が流れてきて色鮮やかなスマホが出来上がる。
本も読まないし映画もほとんど観ないし芸術的センスなんて磨こうと思ったことないけれど、こんなにも世の中には美しいもの楽しいもの面白いものが溢れてんのかってくらいに綺麗なスクリーンが毎日わたしの目の前に現れる。髪型をどうすれば可愛くなるか、どの程度のメイクならナチュラルに見えるか、お洒落な制服の着崩し方、流行ってるブランド、レストラン、景色、手先をちょっとタップするだけでこんなにも情報が流れてくる今を生きてるわたしたち。
常に混んでる電車は行きも帰りも座れることはほとんどなくて脚が棒になりそうなくらい痛いのを我慢して揺られていると行きもそうだが帰りもおじさんたちの視線を痛いほど感じる。わたしじゃなくてスマホ画面でも睨んでいればいいのにどうしてそんなに見つめるの。眠い脳みそにチリチリとした苛立ちが沸いてきてさっきからスマホ越しにわたしの顔とスカートを見てくる目の前で座ってるおじさんサラリーマンの脛を思い切り蹴り飛ばしてやりたい。
わたしの思考回路とは裏腹に陽が長くなった景色は綺麗で今窓の外に飛び出せばそのまま羽ばたいてどこまでもいける気がした。
家の最寄り駅に着く頃には立ちっぱなしの脚が限界を迎えようとしていた。電車のドアが開きまるで堰を切ったようにどばっと人が流れ出て、わたしもその波に乗って改札を出る。
どこを見ても人、人、人で溢れかえっている景色の中でわたしは自分の存在を消されてしまったかのように溶け込んで家路を辿る。テレビか何かでやっていたのだけれど、2020年までには日本人女性の半分が五十歳以上になるらしい。つまり今現在も進行形で子孫を残せる可能性は失われている日本人、わたしはその中でも貴重な生命維持装置として活動しなくてはならない華の若人。都会のこれだけ人がごった返している中にいると全然想像できないけど生粋の日本人っていうのはもはや絶滅危惧種となりつつあるわけだ。そんなことをうっすら考えながら寂れた商店街を歩くとわたしを毎日舐めるような視線で見てくるおじさんは常々若い女性に飢えていて、ただでさえいなくなってしまう存在に対して叶うものなら少しでもいいから触れたいと願っているのかもしれない。かわいそうなおじさんたち。そんなおじさんをわたしは許せなくない、わけない。死ね。
そのまま家に帰るのがなんだかもったいなくてわたしは特に用もないけれどそのまま商店街をぶらつく。駅前に大型ショッピングモールが出来たのがつい三年前ほどで、それまではここによく来ていたことを思い出す。小学生の頃はお母さんと一緒に買い物をした場所、中学生の頃は友達と一緒にお祭りに来た場所。
「あらーミツナちゃんじゃない、久しぶりねえ」
名前を呼ばれて振り向くと小学生のときに同じクラスでよく遊んでいた幼馴染の男の子のお母さんが買い物帰りなのか自転車のカゴに入っているエコバッグから長ネギを飛び出させながらわたしに微笑んでいた。
「あ、どうも、久しぶりです」
「やだ、ミツナちゃんすっかり大人っぽくなっちゃって。美人になったわねえ」
「いえ、そんな」
「ほんと、おばさん一瞬だれかわからなかったもの」
高校生になってから同じようなセリフを近所の人からよく言われるなと思いながら愛想笑いを返す。
「お母さんも元気?」
「ええ、まあ」
「また今度お茶しましょうって伝えておいて。じゃあ、またね」
「はい、また」
社交辞令を言いながら彼女は自転車に跨り商店街を駆け抜けていった。そういえば家が近所ということでわたしが小学生の頃は家族ぐるみで一緒にバーベキューをしたり川遊びしに行ったりしていた記憶が蘇る。人との付き合いなんて始まるのも終わるのも一瞬で、あまりにも刹那的にいなくなってしまうので相手がいなくなったことになかなか気付けない。河田輝くん。わたしはかつて同級生だった彼女の子の名前を口の中で声に出さずに唱える。彼は今どこで何をしているのだろう。
連絡を取ろうと思えばいくらでも手段はある。共通の友だちから連絡先を聞き出すことも、小さくなっていくおばさんの後ろを追いかけて具体的にお茶する日程を決めることも。けれどそんなことはしない。わたしたちはイソギンチャクのように触手を伸ばして毎日いろんな人と絡み合い、それをくっつけるのも離すのも自由で、誰とでも繋がれるから誰とも繋がらないことも選べる。
ゆっくり歩きながら家に着いて玄関を開けるとドアの開閉の音を聞きつけたお母さんが、
「あらミツナお帰り。もうすぐお夕飯だからね。お弁当箱は流しに置いておいて」
いつも決まった言葉を決まった時間に発する母という存在に鬱陶しさを感じながらも、ん、と頷く。
「部屋に行くなら手を洗って、リビングにある畳んだ洗濯物も自分のやつ持ってって」
まるで機械のように毎日繰り返される言葉にわたしも機械的に、ん、と返事を繰り返す。
言われた通りに弁当箱を流しに置き、手を洗って着替えを持って自分の部屋へ向かった。
制服のままベッドに倒れこむように寝転ぶ。スカートのプリーツが乱れてしまうのが気になるがすぐに脱ぐ気力がない。脚が浮腫んでいてマッサージしたいが面倒くさい。目を閉じて深呼吸して重力を身体いっぱいに感じる。
油断したら眠りの中に落ちてしまいそうだった。なんとか寸前のところで眠りの海へ飛び込もうとする自分を引き留めて強引に上半身を起こす。夕陽がカーテンの隙間から入り込んでいるせいで埃が舞っているのがわかり鬱陶しい。
ブラウスのボタンを外してスカートを脱ぎハンガーに掛けておく。部屋着にしているパイル生地の半袖半ズボンに着替えてスマホの画面を覗き込むとInstagramで知らない人からメッセージが届いていた。内容を確認するとわたしと仲良くしたいと申し出るアカウントからのお誘いだった。
『初めまして!いきなりすみません、タケっていいます(^^)東京で会社を経営している26歳です。毎日楽しそうな写真載せてますね。よかったら今度会社のパーティーがあるんだけど、是非来てほしいなと思って連絡しました!返事待ってます(*^^*)』
わたしは指先ですすっと彼のアカウントをブロックしてからメッセージを削除した。多いときで日に十件近くくるこの手のメッセージ、せめてくすりと笑わせてくれるような内容であれば興味がわくのに。
YouTubeでワークアウト用のプレイリストを再生しながらストレッチをするために床に座り込む。まず胡座をかいてお尻を床にぴったりくっつけ、そこから根が生えて地面と繋がるイメージを描く。そのまま、腰から順番に背骨を積み木のように積み上げていく。大きく鼻で呼吸をしながら。頚椎まで全て積み上げると最後に頭を乗っける。呼吸のみに意識を集中させる。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。これがヨガの基本的な姿勢だとYouTubeで習って以来、わたしはここから自分を慣らしていく。目を閉じて少しの間瞑想に入る。
脚を左右に広げて内股や脇腹、背中をこれでもかってほど伸ばして気持ちよくなっているとお母さんがご飯だと呼ぶ声が聞こえた。多少は軽くなった身体でリビングに向かうとテーブルの上に肉じゃがと小松菜のおひたしときんぴらごぼうと出し巻き卵、仕上げにわかめスープが置いてあった。
「はいこれご飯ね」
台所に立つお母さんがわたしにご飯の乗ったお椀を手渡してくる。
「もう少し少なめにして」
「なに言ってるの、これでも十分少ないわよ。これ以上食べなかったら痩せすぎてガリガリになっちゃうわ」
いつもながら彼女には何を言っても伝わらないと判断したわたしは言い返すのをやめて席についた。
食卓にはいつもわたしとお母さんの二人だけがいる。お父さんと一緒にご飯を食べた記憶は数えるほどしかない。いつの日も仕事仕事仕事の人で、土日すらまともに家にいないためそもそも何かを共に行ったことが極端に少ない人。テレビの音とお母さんの声だけが弾け合うこの時間、父親の不在時間と比例するように、まるで何かに抗うかのように、お母さんの手料理は手が混むようになって口数も多くなった。それが彼女なりの良き妻であり良き母であることの証明だとでもいわんばかりに。
でもね、お母さん。わたしは小松菜のおひたしを口の中に放り込みながら延々と喋る母を見て声に出さず伝える。わたし、この前学校終わりに友だちと買い物してて見ちゃったんだ、お父さんが若い女の人と楽しそうに歩いているところ。最初は職場の部下か何かだろうと思ったのだが父の手とその女性の手はしっかりと繋がれていた。そのときのわたしは父に対して家族のこと放っておいて何してんだっていう怒りが湧いてくるでもなく、お父さんもワイドショーを騒がせている芸能人と同じようなただ一人の男の人なんだなって思えて少し安心したのだ。わたしの記憶の中にある最も古いお父さんの記憶は家の玄関で仕事に向かう後ろ姿で、その背中を追うでもなくいってらっしゃいと声を掛けるわけでもないただ見つめているだけの自分の姿も覚えている。たまに家にいると思えば新聞を読みながら眉間に皺を寄せている顔しか見せなかった父の、少なくともわたしが記憶している中では一度も見たことのない溢れんばかりの笑顔をしているこの瞬間を、どうかお母さんにはバラさないでほしい。
今ごろ父は誰と何をしているのだろう。流しに持っていった食器に水を流しながら考えた。仕事しているのだろうか、それとも女性と一緒にいるのだろうか。そんなことを思い耽りながらテレビを眺めながらご飯をつつくお母さんの横顔を見たら彼女の目の下に隈ができていることに気付いた。
わたしは父と母がどうやって知り合い、どのような経緯を経てわたしという存在を授かり産み落としここまでやってきたのか全く知らない。知りたいとすら思ったことはなかった。けれど。他人と他人が一緒の家で暮らし家族となり、わたしから見たら母親と父親は血が繋がっていて切っても切れない関係だけど彼らはもともと紙切れ一枚で繋がっただけなわけで、その薄っぺらい紙の上にどれほど重いものを載せているのかふいに知りたくなった。Twitterで回ってきていたツイートを思い出す。確か親が生きているうちにやっておくべき親孝行一覧とかいうやつで、その中に親の馴れ初めを聞いておく、という内容のものがあったはずだ。わたしの親にもわたしと同じくらいの年齢だった時代があるはずで、人生の中で今が無敵、常に無双状態だと感じていたときもあっただろう。もう何十年も前に通り過ぎたであろう若人だったお母さんとお父さんは何を思って生きていたのだろう。いつ二人は出会って恋に落ちたのだろう。どんな子ども時代だったのか、誰と毎日笑い合っていたのか、何と戦い傷付き悩んでいたのか、結婚するきっかけは、親の反対はあったのか、わたしがお腹の中にいるとわかったときは、産み育てようと決意した瞬間は。今となってはテレビの音とお母さんの声だけが反芻しているこの家にも笑顔が絶えなかった瞬間があったはずだ。
わたしの持っている記憶の中に、この家で、父方のおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に、今はもう使われていないハンディカメラで撮ったわたしの運動会の映像をテレビに映し出し、あー、とか、あはは、とか様々な声が溢れている、よくテレビで観る家族団欒風景がある。恐らく小学校の運動会だと思われるそれは遠くても十年ほど昔なはずだが、もうずっと前、何十年も前の出来事のように感じられる。父方の祖父母にも母方の祖父母にもここ数年会っていない。小学生のころは毎年夏になると汗を大量にかきながらみんなで御墓参りしたのに。まだ生きてる人の方が死んでる人よりも遠く感じるこれはなんなのだろう。
お皿に跳ねた水で濡れた手先を見ながら立ち竦んでいると、なにしてるの、とお母さんがこちらに視線を向けた。
「どうしたの、気分でも悪いの」
「なんでもない」
「変な子ね、そんなところでぼーっと立って。お風呂沸いてるから入るなら入りなさいよ」
「うん」
わたしはタオルで手を拭ってバスルームのドアを開けた。
深夜、スマホをいじりながらそろそろ寝ようか迷っていたときに玄関のドアが開く音がしてお父さんが帰ってきたのがわかった。お母さんの足音とお父さんの足音が交わって夜のしんとした空気を響かせている。わたしは部屋の電気を消してスマホを閉じた。
夜の空気は昼間と違ってよく振動すると思う。人や動物が眠っていて遮るものが少なくなるからか、日中だとしたら決して聞こえるはずのない声までこちらに届く。
目を閉じて視界を無くしたわたしの五感はまるで蜘蛛の糸のように家中に張り巡らされていて、お母さんとお父さんの会話がより鮮明に聞こえる。
「あなた、いつも遅いんだから、帰る時間くらい連絡してくれてもいいのに。ご飯は、食べたの、食べるの、食べるなら温めなおすけど、食べる?」
「いや、いい」
「いらないならそれも先に伝えてっていつも言ってるでしょう。作って待ってる身にもなってちょうだい。毎日毎日」
お父さんが荷物を置いたのか、ゴトッというやけに大きな音が届く。きっとお母さんの小言に気が立ってるんだ。
「家のことは全部押し付けて、仕事ばっかり。少しはこっちのことも考えてよ。あなた、ミツナと最後に会ったのはいつか覚えてる? 高校に入ってからあの子が何時に家を出て何時に帰ってくるか知ってる? 進路相談だってそろそろあるのよ。大学進学させるのか就職させるのか、そんなの本人の自由だっていう一言で逃げないでね」
子は鎹、という言葉があるけれど、お父さんとお母さんはわたしのせいで離婚できないのだろうか。わたしが二人を繋ぎとめてしまっているのだろうか。本当は互いに好きな人生を歩みたいのだろうか。久しく見ていないお父さんの顔がはっきり思い出せない。最後にわたしを正面から見てくれたのはいつだったろうか。わたし、毎日ずっと戦ってるの、知ってる? 朝日と戦い電車と戦い大人と戦い学校と戦い教科書と戦い世間と戦い、あと何と戦えば自由になれるの。
きっと明日もそう。勝ちも負けも無い戦に向かっていく。
わたしの戦 M @M--
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