第9話 緊急生配信


 花音はいなくなった。

 教室でわたしに話しかけてくる相手はいなくなり、わたしは花音に脅迫され、付き合わされる前の生活に戻った。

 目立たず騒がず空気のように。

 お昼は一人で食べて、空いた時間は逃げるように教室から出て校内をさまよう。授業が終わればそそくさと下校し、アルバイトのない日は家に直行する。家の外ではほとんど誰とも口を利かない。

 静かで平穏な日々。

 けれどそれは、元通りのものではなかった。

 お昼ご飯の向かいの席に、帰りの電車の隣に、ぽっかりと穴が開いたような感覚が消えてくれない。

 アルバイト中も店内に長い髪が見えるとはっと振り向いてしまってから、「違う」とため息をつく。

 消えてしまってもなお、いや、消えたからこそ、わたしは花音の存在の大きさを思い知った。

 二ヶ月にも満たない短い間に、花音はわたしの生活の一部になってしまっていたのだ。

 それが突然なくなってしまった影響は大きかった。

 元通り? とんでもない。

 かつてわたしは一人でいることを、平穏だと感じていた。落ち着いた、静かで平和な日々だと感じていた。

 今は違う。わたしは一人を孤独と感じる。平穏ではなく空虚と感じる。

 何事にも興味がなくなった、うつろな日々だ。

 初めはそうと気付かなかった。元の、一人で完結した生活に戻ったのだと。

『りゅりゅちゃん最近活動してなくない?』

 SNSにそんなメッセージが書き込まれたのは、小夜子さんのアパートに行った翌週のことだった。

 実際わたしはここしばらく、配信もしていなければ、SNSにもほとんど書き込んでいなかった。というか見てもいなかった。自分がVチューバーとして活動していることすら、半分忘れていたのだ。

『ゴメンねー。最近体調激悪過ぎて。みんなも風邪には気をつけるんだよー』

 そう書き込むと、体調を気遣うメッセージが複数返ってきた。

『お大事に! 配信待ってるよ!』

『皆のプレッシャーが重いぜ。でもがんばるー』

 と返事をして、わたしはSNSを閉じた。

「配信。配信かあ……」

 がんばるとは言ったけれど、ものすごくだるい。「りゅりゅ」をやるのがしんどい。

 花音がいなくなって以来、わたしは、それまで毎日のように読んでいた百合作品を、まったく読まなくなっていた。そこに描かれているのは女の子同士の恋愛だ。読めばどうしても、花音のことを思い出す。だから読めない。まあ読んでなくてもこうして彼女のことを考えてしまっているわけだけど。

 趣味への情熱を失い、花音のことを考え、ため息ばかりついている。

 そんなわたしをママとパパは心配してくれた。辛いことがあったらなんでも話してね。パパとママはいつだってお前の味方だぞ。

 これ以上くよくよしてはいられない、とわたしは思った。

 わたしがふさぎ込んでいると、ママとパパが悲しんでしまう。不幸が伝染してしまう。

 わたしは花音のことを忘れることにした。

 全部忘れて元に戻そう、そう誓った。

 それなのに。


    ★ ★ ★


 雛祭りも過ぎてしばらくすると、花音の不在にも慣れてきた。

 まったく元通りとはいかなかったけれど、気持はもだいぶ落ち着いてきた。

 あのめまぐるしい日々は一時の夢だったのだ。百合はやっぱり二次元のものだ。夢は覚め、わたしは現実に、日常に帰着しようとしていた。

 そんな矢先のことだった。

 授業が終わってアルバイトに行こうとすると、駅の入り口に小夜子さんがいた。

 こんなところでなにをしているんだろう。

 声を掛けた方がいいのか。迷ってるうちに向こうがわたしに気付いて軽く手を挙げた。

「よかった。行き違いにならなくて」

 どうやらわたしに用があって待っていたらしい。

「元気だった?」

「すみません。今日はアルバイトがあるので」

「大丈夫。時間は取らせないから」

 そう言って彼女はバッグをまさぐり、一通の封筒を取り出した。

 切手も貼っていなければ住所も書いていない封筒には、

『宮森ゆかり様』

 わたしの名前だけが書かれている。

「花音さんからよ」

「っ!」

 小夜子さんは一回り大きな封筒――こっちは宛名も切手もちゃんとしている。開封済み――をわたしにかざした。

「あたしのうちに送られてきたの。あなたにこの手紙を渡して欲しいって。あなたの住所が分からなかったんでしょうね」

「花音は今どこに……」

「それが住所が書いてないのよ。消印からすると東京みたいだけど……」

 差し出されたわたし宛の封筒を、わたしは震える手で受け取った。

「じゃあ、確かに渡したからね」

 あっさりとそう言って、小夜子さんは駐車場の方へ向かう。

 わたしは封筒を手に立ちつくし、帰りの電車を一本逃した。



 花音からの手紙。

 今更なんだというのだろう。

 人がようやく落ち着いてきたというのに。

 ちょっと腹が立った。けれどわたしには手紙を無視することなどできなかった。

 アルバイトが終わってうちに帰るまで待つこともできなかった。

 一本ずれてしまった電車が空いていたのを幸いに、わたしは隅っこの席で、さらに壁に身体を押しつけるようにして、封筒の口を切った。

 淡いグリーンの便箋が数枚。

 ふわりと甘い香りが――花音の匂いがしたような気がした。

 手が震える。寒さのせいじゃない。ようやく拡げた便箋を見る。



『 宮森ゆかり様


 あなたはきっと怒っているでしょうね。

 このまま何も言わずに消えてしまうべきだったのかもしれません。

 けれど、あなたを傷付けたことについて、謝罪もせずにいることも不誠実だと思い、筆を執りました。

 もし、今更私の言葉など聞きたくない、私の書いた字を見るのですら不快だと感じるのなら、読まずに捨ててくださっても構いません。

 私があなたにしたことを思えば、聞く耳を持ってもらえないのも当然のことですから。

 私はあなたを傷つけてしまいました。まずはそのことを謝りたいと思います。

 バレンタインのあの日、私は、あんなことをするつもりはなかったのです。そうは言っても、私の日頃の言動を鑑みれば、信じてはもらえないでしょうけれど。

 あの日の数日前、私は、あなたと交際している(と私が一方的に思っている関係にすぎませんが)ことを父親に知られてしまいました。父は激怒しました。

 あなたには隠していましたが、私には幼い頃からの許嫁がおります。男性の方です。

 父は私にあなたとの『不健全で異常な関係』を終わらせ、すぐに許嫁の元に身を寄せることを命じました。

 逆らえばあなたと、あなたのご家族にも不利益があると脅したのです。

 私はそれを承諾し、せめてバレンタインまでは待って欲しいと懇願し、かろうじて許しを得ました。

 本当はあの日、全てを打ち明けるつもりでいたのです。私のわがままに付き合ってくれてありがとう、ごめんなさいと伝えて、笑顔で、あなたと別れるつもりでいたのです。

 けれどあの日の私は、やはり平静ではありませんでした。

 今日で最後だ……そう思えば思うほど、あなたへの思いが強く激しく高ぶる。

 そしてあなたの言葉と笑顔とで、私は自分を抑えることができなくなりました。

 愛しいあなたを私のものにしたい。誰にも渡したくない。

 浅ましい欲望のままに行動して、私はあなたを傷つけてしまいました。ごめんなさい。



 そしてもうひとつ、どうしても伝えておきたい、誤解を解いておきたいことがあります。

 私は決して、誰でもよかったわけではないのです。

 あなたはきっと、たまたま見つけた百合に理解のある人だから、私に目をつけられたのだと思っているのでしょう。

 それは誤解です。私はあなただから交際を申し込んだのです。

 私の部屋で幼い頃の話をしたのは覚えているでしょうか? 

 いつから百合に目覚めたのかとあなたが訊ね、私は家を飛び出し、公園で泣いていたところに出会った見知らぬ女の子の話をしました。


 あれは、あなたです。

 私たちは、幼い頃に一度出会っていたのです。


 あの話をしたとき、私はあなたが真実に気付くと思っていました。

 けれどあなたは気付かなかった。あなたは子供の頃はアメリカ在住で、だからあれもアメリカでのことだと思い込んでいるのではないでしょうか。

 けれど違うのです。あの日はきちんと説明しませんでしたが、私が家出したときに出会った女の子は、英語混じりの日本語――日本語混じりの英語といった方がいいかもしれません――を使っていました。

 これも以前に話したとおり、『りゅりゅ』が桜明高校の生徒であることは以前から気付いていました。やろうと思えば特定はもっと早くできたでしょう。ただしその時点では、私はりゅりゅの正体を突き止めようとも、突き止めて交際を迫ろうとも思っていませんでした。

 りゅりゅは「百合は二次元に限る」と公言していましたし、私としても誰でもいいわけではない、幼い頃に出会った王子様のような女の子のことを、思い続けていたわけですから。

 ところが年明けの配信で、りゅりゅは私の思い出に酷似したエピソードを語りました。

「りゅりゅの正体はあの子なのでは?」

 そう思った私は特定に乗り出し、りゅりゅが同じクラスの宮森ゆかりに違いないと確信しました。

 思い出のあの子が、二度と会えないと思っていたあの子が同じクラスにいる。

 運命を感じずにはいられませんでした。

 同時にわたしは、強い後悔に襲われました。

 あの子と同じ空間にいながら、私はそうと気付かず、二年もの時間を無駄にしてしまったのです。

 これ以上は一秒たりとも無駄にはできない。すぐに行動をしなくては。

 私が自由でいられる時間の全てを使ってあなたを愛そう。

 そう、思ったのです。


 誰でもよかったわけではありません。

 誰かの代わりだったのでもありません。

 私は、あなたがあの子だったから、――あなたがあなただったから、踏み出したのです。

 身勝手ではありますが、そのことだけはどうしても誤解されたくないのです。

 私はあなたに隠し事をしていました。振る舞いも強引でした。

 けれどこの思いだけは、あなたを好きだという気持ちには、一片の嘘も偽りもありません。

 勝手ですが、それだけは分かって欲しいのです。

 短い間でしたが、あなたと過ごした日々は幸せでした。私の、一生の宝物になるでしょう。

 迷惑を掛けてしまってごめんなさい。

 さようなら。ありがとう。

                                須藤花音 』



 電車が甲高いブレーキ音を立てて止まり、私は我に返った。

 手紙を畳んでしまいながら、慌てて電車から駆け下りる。

 駅を出て、アルバイト先に向かって歩きながら、また手紙を拡げた。

 車内で二度も読んだそれを、また頭から読み返す。

「花音……」

 頭がぐらぐらした。息が苦しい。

 わき上がったのは強い悔恨の念だ。

 わたしは、どうしてあんな酷い勘違いをしてしまったのだろう。

 誰でもよかったわけではなかった。

 代用品なんかじゃなかった。

 そんなこと、花音の態度を見ていればすぐに分かったはずなのに。

 自分のことを話されているとも気付かず、あまつさえ過去の自分に嫉妬して。

 そう、嫉妬だ。

 わたしは花音の心が別の女の子に向いてると感じて、激しく嫉妬した。

 わたしは間抜けだ。間抜けの中の間抜けだ。

 ちょっと考えれば分かることを考えず、気付かず、花音の心を疑った。

 それはきっと、わたしが自分自身を信じていなかったせいもあるんだろう。こんなわたしを愛してくれる人なんているはずがない、と。

 確かにいたのに。

 胸が切なさではち切れそうだ。

 花音に会いたい。

 声が聞きたい。

 けれど連絡を取る方法はない。花音はどこにも連絡先を書いて寄越さなかった。

 どうしようもない。

 ……本当に? 

「……違う」

 連絡する方法ならある。

 配信だ。

 花音個人に連絡を取ることはできなくても、配信ならわたしのメッセージを伝えられる。

 そのことに思い至ったわたしは、手紙を握りしめて走った。アルバイト先ではなく自宅へ。

 寒風を切り裂くようにして自宅に駆け戻ったわたしはすぐにパソコンのスイッチを入れ、起動するのを待つ間にコートを脱いでパソコンの前に向かった。

 配信用のアプリを起動。SNSに配信開始を書き込む。

 マイクに掛けた指が震えた。たまらなく怖かった。

 この声は本当に届くのか。

 そんなわたしに勇気をくれたのは、花音の笑顔だった。不思議なことにデートのことでも百合トーク中の笑顔でもなく、初めて音楽堂に呼び出された――脅迫されたときの。

 あのとき花音は悪魔のように不適に尊大に笑っていた。けれど、心の中は全然違ったはずだ。

 きっと花音に届く。

 信じて一つ深呼吸。マイクをオン。

「りゅりゅの二次百合ちゃんねる、始めます。……ごめんなさい。今日はいつもの百合トーク配信じゃないです。私用で使わせてもらいます」

 宣言。

 予定外の突発配信なので、始めたときは視聴者はいなかった。けれどすぐに、SNSを見た人がぽつぽつと入ってくる。チャット覧にアカウントが並ぶ。ほとんどがいつものメンバーだ。そうじゃない一見さんもいる。花音が混じっているかは分からない。そう都合良くはいかないだろうと、わたしの中の冷静な部分が告げる。

 けれど今更やめるつもりはなかった。

「……手紙、見たよ。家政婦さんから話も聞いた。うん。びっくりした。いきなり婚約者とかさ、超展開にも程があるよ。ちゃんと前振りしとけよ! 構成雑すぎるだろ! って。……でも思い返すとそうじゃないんだよね。予兆はちゃんとあって、わたしが気付いてなかっただけ。ちゃんと見てなかっただけ」

 あっ、とわたしは思った。りゅりゅの演技を忘れていた。完全にいつもの自分でしゃべっている。どうしよう。戸惑い、このままいくことにした。

 これはわたしから花音へのメッセージだ。演技はするべきじゃない。

「あなたは何度もサインを出していた。なのにわたしは気付かなかった。あなたの思いも真剣に受け止めていなかった。あなたと正面から向き合っていなかった。そんな態度を取られたらあなたがどう感じるかなんて、これっぽっちも考えていなかった。苦しかったよね。切なかったよね。最後にはあなたをあんなふうに拒絶して。

 わたしもあなたに誤解されたくないことがあるの。あのときわたしが拒絶したのは、ただちょっと、そういう心構えがなくて、びっくりしたって言うか。する前に一言言ってくれればよかったんだよ!」

 逆ギレしてどうするわたし。

 そうじゃない。そんなことが言いたいんじゃない。

「嫌いになったからじゃないの。本当に。うん。ちょっと怖かったのは確かだけど。わたしの勘違いのせいなの。あなたは別の女の子が好きなのに、わたしにあんなことをしようとしたんだと思い込んじゃって。でもそれは誤解で。ああもう頭ぐちゃぐちゃしてきた! 要するにこういうこと。あの日のことはわたしも後悔してる。やり直せるならやり直したい。そしたら今度は突き飛ばしたりしない。ちゃんと受け入れるから。

 ……やり直したいの。あなたと。

 嫌いなんかじゃないから。

 あなたがいなくなって思ったの。一人は寂しいって。あなたといたいって。

 分かったの! 

 あなたのことが、好きなんだって! 

 ねえ、あなた言ったよね。わたしの嫌がることはしないって。わたしのことを絶対に幸せにするって。わたし、あなたにいなくなられたのが嫌だよ。今、幸せじゃないよ。

 あれは嘘だったの? わたしと付き合いたいから嘘ついたの? そうじゃないなら、ねえ、お願い、戻ってきて、花音!」


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