第8話 花音が消えた
どうにかこうにか起き上がり、息も絶え絶えに家までたどり着いたところでわたしは力尽きた。
出迎えたママは悲鳴を上げて――その後のことは記憶が不確かだ。車に揺られたり駐車をされたような気がするから、病院に連れて行かれたんだろう。
いくらか意識が戻ったときには、自室のベッドに寝かされていた。
熱は三十九度もあった。
幸いにしてインフルエンザではなくて、連夜のチョコレート作りで寝不足だったところにたちの悪い風邪を拾ってしまったらしい。
頭が重くて全身の関節が痛い。息をするのもしんどい状態じゃ何も考えることができない。
週末をわたしは、寝たり起きたり夢うつつで過ごし、月曜になってもそのままで、熱が引き始めたのは火曜の夕方になってからだった。
「……」
冬の短い日が西の山に落ちる。薄暗い部屋でまずわたしがしたことは、投げっぱなしになっていたスマホを充電器につないで電源を入れることだった。
微かな緊張。
着信、なし。
花音からの連絡が無かったことに、落胆と安堵と、あとなんかよく分からない感情が一緒くたに襲ってきてわたしはまだ微熱の残るため息をついた。
こちらから連絡するべき、なんだろう。
たっぷりぐっすり寝たことで、気持ちはだいぶ落ち着いている。
冷静に振り返ると、花音が一方的に悪いとは言えない。
そりゃいきなり襲ってきた花音が悪いことは悪い。けれどわたしもやりすぎた。たかがキスされそうになっただけなのに、焦って動転して、過剰な反応をしてしまった。それについては謝りたいと思う。
けれど。
やっぱり順番としては花音が謝るのが先じゃないのかとか、こっちから折れてやる義理なんてないよねとか、そんな意地が邪魔をする。
いや、わたしは逃げているだけだ。
花音と話をするのが怖い。そのときをできるだけ先延ばしにしたがっている。
どっちみち、風邪が治って学校に行けば花音に会わざるをえないのに。
どんな顔して会えばいいんだろう。
★ ★ ★
「病は気から」って言うけど、気が滅入ってるからって必ずしも病気になるわけではなく、翌日には熱はすっかり冷めて食欲ももりもりで、そうなると学校に行かざるを得ない。
花音と会う。そう考えるだけで気まずい。
気まずいのはわたしのせいじゃないし。花音が悪いんだよ……なんて思ってみても気まずさは全然減らないし。こういう日に限って天気は死ぬほどよくて電車は一秒の遅延もなしにやってきてはわたしを学校に運んでしまった。
よし、決めた。
まずは花音に謝らせる。そしてわたしは許してあげる。ついでにこっちも謝る。そしたらこれまで通りの関係に戻れるはずだ。うん。
とにもかくにも方針を決めて――正直会う覚悟は全然固まってなかったけど――わたしは教室に入った。花音はまだ来ていないようで、肩すかしを食らったようなほっとしたような。
勝負は昼休みかそれとも放課後か。それまでにできるだけ気持ちの整理をしておこう。
わたしはそんなふうに考えたんだけど。
予鈴が鳴っても花音は教室に現れなかった。授業が始まっても。
遅刻とは珍しいなとわたしは思った。
けれど昼休みになっても花音は現れなかった。
わたしは一ヶ月ぶりに学校で一人で昼食を摂り、スマホを取り出した。
花音からの連絡はいまだない。
花音も気まずくて連絡する勇気が持てないでいるんだろう、とわたしは思っていたんだけど、もしかしたら別の可能性もあるのではないかと思った。
例えば連絡したくてもできない状態――わたしみたいに体調不良で寝込んでいたりしているのでは?
伏せって咳き込んでいる花音をわたしは想像した。
いても立ってもいられなくなり、わたしは教室から飛び出した。
廊下の隅っこに移動しながら花音に電話を掛ける。
つながったスマホを耳に当て、
『おかけになった番号は、現在使われておりません……』
「えっ?」
何を言われたか分からなかった。
掛け間違い? スマホの画面を覗き込む。登録した番号だ、間違えるはずがない。
電話がダメならSNSはと思い付いてアプリを開く。
花音のアカウントはなくなっていた。
「なんで、どうして……」
予想もしなかった展開にわたしは戸惑う。
吹雪の夜に放り出されたような気分だった。
何も見えない。どこに立っているのかも分からない。
……花音が、消えてしまった。
わけが分からない。めちゃくちゃ混乱したけど、それでも「まず事実を確認しなきゃ」と思い至ったのは奇蹟に近い。わたしはその足で職員室に向かった。
日頃目たたず騒がず空気のように振る舞うことを心がけているわたしにとって、自分から職員室に行くことは勇気のいることだ。
けれどこのときはさすがに尻込みなんかはしなかった。というか礼儀正しさも何もかも吹っ飛んでいて、ノックもせずに乗り込んで先生方に見咎められたけどそれはともかく。
担任の先生はあっさりとこう言った。
「須藤なら家庭の事情でしばらく休むそうだ」
怪我や病気ではなかったことにわたしは安心した。それから、もっとやばい事態だと気付いて焦った。
「家庭の事情って何ですか?」
食い気味の質問。存在感皆無の生徒の意外な剣幕に先生は面食らった様子だったけれど。
「……そういえば最近須藤と仲良くしてるらしいな」
そうなんです一大事何ですだから教えてください!
願うわたしにしかし、先生は弱り切った顔でこう言った。
「実を言うと詳しいことは先生も知らない」
「え?」
「いきなりだよ。『家庭の事情でしばらく学校を休みます』。理由を聞いても答えないし、家に問い合わせても取り付く島なし『部外者はお構いなく』だとさ。部外者ってなんだよ俺は担任だぞ……」
思い出して悔しかったのか、先生は拳を振るわせた。
「もし、須藤から連絡があったら教えてくれ」
先生はそんなことまで言った。
わたしはすごすごと教室に戻る。
午後の授業なんてまったく頭に入らなかった。
頭がぐるぐるしたまま放課後を迎える。
いつも駆け寄ってくる花音がいないことに強烈な違和感がある。
家庭の事情――先生の言ったそれが嘘の可能性を考えた。花音が休んでいるのはバレンタインのあれのせいなんじゃないの? 私に合わせる顔がなくて。
違う。
それだけならスマホの番号を変えたり、SNSのアカウントまで削除する意味がない。しばらく着信拒否とかすれば済むだけだ。
先生が知らないのは、本当に知らないのだろう。あの様子で嘘をついているとは思えない。
一体何があったのだろう。
午後の授業はまるで頭に入らなかった。ずっと空席を見つめていた。
放課後、わたしはアルバイトに行った。
そんな気分では全くなかったけど、急に休んでシフトを変わってもらった手前、埋め合わせをしないわけにはいかなかったのだ。
いかにも心ここにあらずなわたしを見て、店長は「まだ風邪が治ってないなら無理しなくていいよ」と優しい言葉をかけてくれたのがものすごく申し訳なかった。
仕事に集中しなくてはと思うんだけど、視界の隅に制服の女子高生や、ロングヘアの若い女性が入るたび、わたしは作業を止めてそちらを見てはため息をついてしまう。
結局、追い出されるような感じで早く上がらされてしまった。
ロッカールームでスマホを見た。
もちろん、連絡はなかった。
★ ★ ★
何も言わずに学校に来なくなってしまった花音。
バレンタインの件の気まずさが理由ではないはずだ。
SNSのアカウントを抹消し、スマホも多分解約してしまっている。普通はそこまでしない。何か別の事情が潜んでいるに違いない。
いや、花音は普通とは言い難いからなあ……。
あるいはそれは、単なるわたしの願望に過ぎないのかもしれない。
何か別の事情があって欲しい、という。
わたしのせいではないのだ、という。
「…………」
いずれにしてもこのままではいられない。はっきりさせる方法も、ある。
電話もSNSもダメなら、直接乗り込めばいいのだ。
わたしは次の日の放課後、電車を乗り継ぎ花音の家に向かった。
たいして長い道のりでもなく、花音の家にはあっという間に着いてしまう。
そのまま勢いで乗り込んでしまえればよかったんだろうけど、しかし、長い塀と巨大な門の威圧感にわたしは気圧されてしまった。
塀は高く、敷地内の様子はまったく見えない。インターフォンの押しボタンは核ミサイルのスイッチのよう。
門の前を行ったり来たりするわたしはどこからどう見ても不審者。
今日は心の準備もできてないし出直した方がいいかも。なんて、弱気の虫が騒ぎ出したそのとき、不意打ちのように門が開いた。
もしかして防犯カメラで見ていた花音が出てきてくれたのでは。
そんな甘い期待を打ち砕いて、現れたのは黒塗りの高級車だった。
「っ!」
それまでビビっていたのが嘘みたいに、わたしは車の前に飛びだした。門を出たばかりでまだゆっくりだった車は、それでも急ブレーキを踏んでつんのめる。運転席の窓が開く。
「ちょっと、危ないじゃな、」
「あのっ!」
文句を言おうとする運転手を遮って、わたしは声を掛けた。
「ごめんなさい! でも急用なんです! わたし、花音の友達で、花音が学校に来てなくて、先生も理由は知らないみたいだし、心配で!」
運転席側に回り込み、開いた窓から車内の様子をうかがう。後部座席は暗くてよく見えないけど、誰かが乗っているのは分かる。花音の家族に違いない。
「花音は、花音はどうしたんですか!?」
運転手が困惑し、車内で低い声がして、後部座席の窓が開いた。
乗っていたのは花音の父親だった。
以前見たときと同じ、いや、それ以上に不機嫌極まりない顔で、わたしを睨んでいる。
「お前か……」
憎悪のこもった視線だった。ただの娘の友達にこんな顔をするものだろうか。
心底怖かったけど、勇気をふるってわたしは話しかけた。
「宮森ゆかりと言います。あの、花音は……」
「花音ならいない」
「どこにいるんですか?」
「言う必要はない。花音はお前には会わせない。二度とだ」
父親は運転手に向かって顎をしゃくった。車の窓がゆるゆると上がる。
「待って! 花音は!」
わたしは窓の隙間に手を入れる。運転手が操作したのだろう、窓が一度止まり、しかし父親が再度スイッチを押し込んで窓を閉める。
「花音に会わせて! 花音はどこにいるの!」
窓が閉まっていく。わたしの手が挟まりそうになる。父親の目はまったく本気だった。けれどわたしも引かなかった。花音に会うためなら手の一つや二つ。
けれど突然、わたしは、誰かに後ろからぐいっと引かれた。その誰かもろとも、冷たいアスファルトに尻餅をつく。
「あっ!」
わたしの手が抜けた直後、車は急発進してその場を去る。
「待って! 待って! 離して!」
立ち上がれない。わたしは自分を捕まえている人をふりほどこうと暴れた。
「落ち着いて、ゆかりちゃん」
わたしを捕まえている人が言った。知っている声だった。わたしが抵抗をやめると、その人はわたしを解放した。
「ごめんなさいね。怪我してない?」
そう言ったのは、以前にも会った家政婦さんだった。
★ ★ ★
家政婦さんはわたしを助け起こすとインターフォンを押し、中の人と二言三言、言葉を交わすと、
「そこでおとなしく待ってて。いい?『おとなしく』よ?」
と、わたしに念押ししてから須藤家に入っていった。
何か話をつけてくれるのだろう。花音本人が出てきてくれることをわたしは期待して、言われたとおりにおとなしくしていたんだけど、十数分して戻ってきた家政婦さんは一人だった。荷物が多少増えている。
「来て」
家政婦のお姉さんはそう言うとわたしを待たずにずんずん歩き出した。わたしがついていかないのに気付くと立ち止まって振り返り、
「花音さんのこと、知りたくて来たんでしょ?」
また歩き出す。わたしももう迷わなかった。小走りで追いかけ、隣に並ぶ。
家政婦さんはちらりと私を見たけれど、何も言わずに歩き続けた。
古い街並みを通り抜けて駅の方へ。踏切を越えて線路の反対側。斜面を無理矢理宅地にしたような坂の途中に幾つも安っぽいアパートがあって、その一室に家政婦さんは住んでいた。
「入って」
「……おじゃまします」
わたしはおずおずと声を掛けて、アパートに入る。
「あの、家政婦さん」
「元家政婦。クビになったから。一回花音さんに紹介してもらったはずだけど、まあ覚えてないわよね。一瞬だったし。萩小夜子」
「萩さん」
「小夜子でいい」
家政婦さん――小夜子さんはそう言うと、花音の家から運んできた荷物をキッチンテーブルに置いた。
「私物を取りに行ったら家の前で騒いでるし。タイミングがいいんだか悪いんだか。とりあえず座ったら? コーヒーでいい?」
ファンヒーターのスイッチを入れながら訊ねてくる。花音の家で会ったときとは全然態度が違う。当たり前か。あのときは仕事中だったんだし。
「はい。それであの、花音は……」
「聞いてない……のよね。聞いてたら殴り込みなんかしないし」
「別に殴り込んだわけじゃ……」
言い返す言葉に勢いがない。
まあ確かに、あのままだったら自分が何をしでかしていたか分からないところはある。花音の父親の態度に腹を立て、わたしは完全に周りが見えなくなっていたし。
「結論から言うわね。花音は結婚の準備のために家を離れた」
「結婚!? 男と!?」
失言だった。結婚は普通男と女がするものだ。少なくとも日本では。
けれどわたしの疑問に小夜子さんは驚かなかった。ということは、小夜子さんは花音の性癖を理解していたということになる。
「あなたとのことも知ってる。デートの相談とかされたし。というかちょっと焚き付けたりしたし」
うお。それは何というか。唖然とするわたし。小夜子さんはふうっと息をついて。
「余計なことしなければよかったと思ってる」
「それは……」
お湯が沸いた。小夜子さんは二人分のコーヒーを淹れて、一つをわたしの前に置くと、自分は立ったままカップに口をつけた。
「話が動いたのはつい最近だけど、ずっと前から決まってたのよ。花音さんの結婚は。本当にずっと前……彼女が小さな頃からね。いわゆる許嫁って奴。相手は政治家の――」
と小夜子さんは国会議員の名前を出した。わたしは知らなかった。知らないことを呆れられた。つまり、ニュースにもよく登場するレベルの大物ってことだ。
「ああいう古くて大きなおうちだと、今でもそういう話ってよくあるらしいわよ。まあ客観的に見ればおいしい話よね。相手も裕福な上流階級なわけだし、ハズレつかまされる可能性はまずない。家同士の繋がりが強くなって今後も安泰、と」
「でも、本人の意思は無視してるわけですよね。それってどうなんですか」
「あたしもそう思った。だからちょっと水を向けてみたわけ。『花音さんはそれでいいんですか?』って。そしたら『相手の方はとてもいい方ですから』って。そのときの顔がねえ、世捨て人みたいで……。まあ、ああいう家に生まれちゃったらしょうがないのかなとは思うんだけど。やっぱりなんかね、納得いかないじゃない。勝手な価値観の押しつけって。それで、『今のうちに火遊びの一つもしておいた方がいい。じゃないと人生灰色ですよ』って言っちゃったの。今思えば、これも勝手な価値観の押しつけなのよね」
小夜子さんはため息をついた。コーヒーを啜り、わたしを見る。
「正直、できるわけがないと高をくくっていたところもあるの。だって花音さんって、あれでしょう?」
あれ――同性愛者。
「手近で簡単にパートナーが見つかる可能性なんてまずないし。あたしとしては火遊び云々は言葉の綾というかもののたとえというか。せめて学生の間だけでも青春を謳歌したら? って軽い発破程度のつもりだったのよ。だいたい誰かと付き合ってもすぐ別れなきゃいけないんだから、付き合わされる相手はたまったもんじゃないわよね」
「……」
「本当はね、高校を卒業してから、って話だったの。進学に合わせて上京して、婚約者として相手の家に入って、大学を卒業したら晴れて結婚って予定……だったんだけど、まあ、バレたのよ。花音さんがあなたと付き合っていることが」
わたしは息を呑んだ。
あの時代錯誤で専制的な父親に、性癖のことも、隠れて交際していることもバレた。
大変なことになったに違いない。
「そりゃあもう大激怒よ。女同士とかまともじゃない。病気だって、すごい剣幕。それで花音さんをすぐに東京に行かせて、悪い虫とこれ以上会えないようにしたわけ。ついでに、そそのかしたわたしはクビ」
ため息。
「面倒なことに巻き込んじゃってごめんなさいね。花音さんに代わってあたしが謝るわ。花音さんのことは怨まないであげて」
わたしは何も言えなかった。
★ ★ ★
つまりこういうことだ。
花音には婚約者がいた。
わたしとのことは一時の遊び――結婚する前の、ちょっとした親への反抗であり、結婚前の思い出作りだった。
親バレしなければもうしばらくあの関係は続いていたのかもしれない。
けれど花音は、あれが一時的な、すぐに終わってしまうものだと最初から分かっていた。
すぐに別れなければいけないのに、恋人もなにもあったもんじゃない。
遊びだった、ということだろう。わたしとのことは。花音にとって。
それが分かっても、怒りは湧いてこなかった。花音を怨もうとも思わなかった。
ああ、そうなんだ、と思った。
まあ、そうだろうな、と思った。
そもそもが、花音の心の中にいたのはわたしではないのだ。彼女は幼い頃に会った、初恋の女の子を思っていた。わたしは単に、手頃な代用品に過ぎなかった。
それだけのことだ。
……それだけのことなのに、なんでこんなに息が苦しいんだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます