第6話 百合メモリーズ


 折りたたみのテーブルを出してきて、お菓子を並べてお茶を淹れて。

 うーん女子会だ。自分にこんな機会が訪れるとは思っても見なかった。

「……でね、九十九期のメンバーは同じ時間を何度も繰り返してるんだけど……」

 わたしはずっとアニメの話ばかりしている。

 花音は静かに聞き役だ。何となく上の空なようにも見える。視線がちらちらとわたしの首筋とか鎖骨とか、その辺を行ったり来たりしているのだ。……まさか襲いかかる隙をうかがってるんじゃないだろうな。

 わたしの嫌がることはしない、と花音は宣誓してるけど、理性なんて簡単に吹き飛ぶのが人間である。

「花音ってさ。いつからそうなの?」

 いきなりわたしは話題を変えた。

「えっ?」

 と花音が目を瞬く。

「いやその、女の子が好きになったきっかけ……って生まれたときからそうなんだろうけど、自覚したのはいつなのか、ちょっと気になって」

「ああ……」

「嫌なら言わなくていいんだけど! 全然! 無理に聞き出そうとかないから!」

 訊いた瞬間後悔して、わたしは慌てて取り消そうとした。

「……嫌ではないわ。むしろ花音には聞いて欲しいと思っていたくらい」

 そう言って花音は話し始めた。



「見ての通りうちは旧家でしょう? 古い古い考え方が今も根付いている。お父様は『そんなことはない。須藤家は現代的で先進的だ』って言うでしょうけれど。誰しも自分のことはよく見えないものよ。私もそういう家で産まれて、それが当たり前だと思って育ったのだけれど、まさか今時箱入り娘とはいかないでしょう? 外に出れば違う価値観に触れる。自分の家とよその家の違いが分かる。我が家の方針はおかしいんだ、私には自由が許されていないんだって子供ながらに気付く。最初のうちはそれでも耐えていたわ。お父様やお爺様が怖くて反抗できなかったのもあるけれど。でもあるときね……きっかけはもう覚えていないんだけど、家を抜け出したことがあるの」

 突然、花音はクスッと笑った。

「何?」

「どこまでも遠くにいくつもりだったのに。怖くて一人で電車に乗れなかったのよ。駅員さんが警察官に見えたわ。それで引き返してその辺りをウロウロして。おなかが空いたなあって思ってもお店にも入れなくて。疲れてくると家を出たときの決意とかエネルギーとか、そんなものはすっかりなくなっちゃって。『こんなことをしたんだから怒られる』って。それが怖くて帰ることもできずに、公園の遊具に隠れて、誰か通るたびにビクビクしてた。……ほんと、馬鹿みたいでしょう?」

「そんなに内気だったの? 何か信じられない」

「内気というか、恐がりなのよ、私」

 うっそだあ、と茶化すことがわたしにはできなかった。

 学校では自信たっぷり堂々として、わたしの前でも強引で積極的(すぎる)振る舞いをする花音の、その裏に隠れた繊細さをわたしはもう知っている。

「で、どうしたの?」

「……そのうち私は泣き出してしまって、そうしたらね『誰かいるの?』って声がして。

 顔を上げたら知らない女の子が、私を見ていた。不思議な雰囲気の子だったわ。『どうして泣いているの?』って聞かれて、私は泣きながらめちゃくちゃなことを言ったんだと思う。

 その子は時々質問しながら、話を聞いてくれて『あなたが正しい。あなたのお父さんは間違っている。子供だからって黙ってる必要はない』って。多分そんなようなことをまくし立てて、『わたしがあなたの家までついていって、一緒に戦ってあげる。だからもう泣かないで。あなたはひとりぼっちじゃないから』って、おでこにキスをしてくれたの。……王子様みたいだった」

 花音は反応を確かめるようにわたしを見た。

「……ずいぶんとませた子供ね。というか子供にしては語彙豊富すぎない?」

 わたしの突っ込みに花音は小さなため息をついた。機嫌悪くさせちゃったかな。

「その子がその通りに言ったわけじゃないわよ。あれこれけっこう早口で言われて、要約するとそんな感じになるかしらと。……まあ、一緒に家に来るのは実現しなかったのだけれど。その子は一緒に来ていた大人に呼ばれてその場を離れて、わたしは大人に見つかったら叱られると思ってその隙に逃げちゃったから。それで、そのまま家に帰った」

「怒られた?」

「全然」と花音は肩をすくめた。「私の『家出』は精々三、四時間のことで、ちょっと遠くに散歩に行ったくらいにしか思われていなかったの。なんだかすごく拍子抜けしちゃったわ」

 遠い目をする花音。

「他人から見ればどうでもいいような出来事かもしれないけど、この後、私は生きるのが少し楽になった。『あなたはひとりぼっちじゃないから』――どこかに味方がいる、分かってくれる人がいるのだって思えば、気持ちがとても楽になった」

「……その子とは?」

「会ってお礼を言いたかったけど、その後何度公園に行っても、もうその子とは会えなくて。そのうち私も成長して、その子のことも滅多に思い出さなくなっていたのだけれど。中学生……小学生でも高学年ぐらいになると、男女交際を始めたりするでしょう? 私も何度か告白をされたのだけど、全然そういう気分になれないのよ。そんなときにふっと、公園のあの子のことを思い出して、気付いたの。あれが私の初恋なのだ、私は女の子が相手じゃないとときめかないんだ、って」



 わたしは言いようのない気持ちになった。なんだか息が苦しい。なんだこれ?

「……今でも会いたい?」

 自分でも理由の分からない動揺を抱えたわたしの声は、少し強ばっていた。

 花音は肩をすくめ、

「あっちは私のことなんか覚えていないのでしょうね」

 と、微妙に答えになっていないことを言った。

 もやもや気分でわたしは紅茶に手をつける。

 そんなわたしを見て花音は悪魔的な笑みを浮かべ、

「じゃあ次はゆかりの番ね」

「は!?」

 いきなり話を振られてわたしは面食らった。

「だってそうでしょう? 私にだけこんな恥ずかしい告白させるなんて不公平ですわ。ここは何としてもゆかりの過去の恋愛遍歴を明かしてもらわなくっちゃ」

「いやないから遍歴とか」

「大丈夫よ。昔好きだった男のことなんて私は気にしないから。ああ、でも昔好きだった女のことだと嫉妬してしまうかも」

「どっちもいないから!」

「強情ね」

 花音は唇を尖らせた。

 わたしは困ってしまう。だって本当に恋愛経験なんて、ない。

 そもそも人を好きになるってことがよく分からない。

 いやまあ、まったく分からないってわけではないけど。恋愛漫画とか映画とか見て感動することはあるし。

 でも、創作に描かれるようなあれやこれやが自分の身に起こることだとはどうしても思えないのだ。

 愛情とはわたしにとって二次元にだけ存在する概念だ。

「どうしても話したくないならしょうがないわ」

 花音のため息。わたしは解放されると思ってほっとしたんだけど、

「じゃあかわりにあれやってもらおうかしら。りゅりゅちゃんねる」

「は?」

 花音は予想外の攻撃を繰り出してきた! わたしは混乱している!?

「最近配信してないでしょう? そろそろ新作が聞きたいなあって」

「……い、今?」

「今、ここで」

「いやいきなり言われても無理だから」

 適当にだらだらトークしてるだけだと思ったら大間違いだ。あれはあれで事前の準備がけっこうかかる。何よりここには機材もないし。

 ちなみに最近配信してないのは主に花音のせいだ。やれば花音は必ず聞くだろう。「知り合いに聞かれている」と思いながら話すのはめちゃくちゃ恥ずかしい……というか、配信中に絡まれて放送事故になるのが怖い。花音はときどきブレーキがどっかいく危険人物だし。

「言い方が悪かったわね。ここから配信して欲しいのではなくて、ここで今、『私のためだけに』りゅりゅをやって欲しいの」

「ああ、そういうこと……」

 できるかできないかと言われたら、できる、できるのだ、物理的には。

 だが、しかし、精神的には――

「――無理! 絶対無理! 勘弁して!」

 配信ですら恥ずかしいのに目の前でやるとか、もはや拷問ではないか!

「そこを何とか、ね?」

 花音は床に手をつき身を乗り出し、上目遣いでお願いしてくる。エロいなこのポーズ。

「ゆ・か・り」

 甘えた声。

「やってくれたらゆかりのお願い、なんでも聞いちゃうから」

「……な、何でも?」

 それは大変に魅力的な提案――――でもなかった。

「やらない」

「どうして!?」

「わたし、花音にやって欲しいこと特にないから」

「むぅー。もう知らない! ゆかりの馬鹿!」

 子供みたいに拗ねた花音の機嫌をとるのに一時間近くかかって――結局、百合小説朗読で手を打った。

「どれにしようかしら……」

 浮き浮き弾んだ声で、花音が秘蔵のコレクションを覗き込む。

 ややあって一冊の文庫本を抜き出してペラペラめくり、

「……あ、これがいいわ。ここから読んで」

 とページを拡げた本をわたしに寄越す。

「どれどれ」

 受け取った本にわたしは目を通した。


 ――生ぬるい風が首筋を撫でた。古びた蛍光灯がパリパリと音を立てている。微かな灯りに朽ちかけた手術台や錆びたメスが浮かび上がる。

「ねえ、悦子……悦子?」

 隣にいるはずの悦子の姿がなくなっていることにあたしは気付いた。

「悦子!?」

 直後、獣臭い息が首筋に吹き付けられた。

「ミィ、ツケタ……」――


「やだこれ怖い奴じゃん!」

 わたしは叫んで本を投げ……そうになったけどぎりぎり踏みとどまった。本は大事にしないと。代わりに拳を握って振りかぶる。

 ホラーはダメだ。いくら百合でもホラーだけはダメなのだ。配信でも何度かそう言ってるから、花音だって知ってるはずなのに。

 いや、花音は知っててやったのだ。わたしが怖がるところが見たくて。

「別のにして。ホラーじゃない奴」

 本を突っ返す。

「面白いのに……」

 と花音は唇を尖らせながらも別の本を選び出す。

 すると今度は、


 ――震える私の膝小僧に、彼女は舌を這わせた。触れるか触れないかの微妙なタッチ。熱っぽい吐息が膝を包み、甘美な刺激となって私の内ももを伝い、私の身体の芯へと響――


「エロいやつもダメ!」

 わたしは顔を真っ赤にして花音をぽかぽか叩いた。

「やめてごめん許して」

 と言いながら、花音はケラケラ笑っている。

 その様子があまりにも楽しそうで、わたしの怒りは長続きしない。

 ああもう。憎らしいったらありゃしない。

 これなら素直に最初のお願いを聞いて、配信ごっこしたほうがマシだったかもしれない。


    ★ ★ ★


 一緒に夕食もどうかと誘われたけれど、そこは丁重に辞退して、わたしは帰ることにした。

 その、帰り際のことだった。

 花音は馬鹿でかい門のところまで、わたしを見送りに出てきてくれた。

「それじゃ……」

 わたしが口を開こうとしたところに、雪の中を走ってきたとは思えないほどぴかぴかの高級車が現れた。花音が少し表情を強ばらせる。

 やり過ごそうとすると車は減速し、わたしたちの前で止まった。後部座席の窓が開いて、灰色がかった頭髪の、痩せた男が顔を覗かせた。

「お父様……」

 花音がそう言ったのでわたしは驚いた。

 花音と父親は、全然似てなかった。花音もまあ、どちらかといえば鋭利な顔立ちではあると思う。けれど花音には丸みというか、人当たりのいい雰囲気がある。父親は対照的に、猛禽のような顔立ちだ。

「……今日はお戻りにならないはずでは?」

「天気のせいで先方の飛行機が引き返した。まったく予定が狂う」

 声も鋭く突き刺すよう。気難しさと荒々しさが同居しているその声で、父親は続けた。

「これはお前の友達か?」

 これ、ってわたしのことか?

「クラスメイトの宮森ゆかりさんよ」

「み、宮森です。花音さんにはいつもお世話になってます」

 わたしはそう挨拶したのだけど、父親はあっさり無視してくれた。

「のんきに遊んでいる暇があるのか? 支度は進んで、」

 ※後の方修正注意。元々三学期が終わったら転校の予定。

「お父様」

 花音が強い口調で父親の言葉を遮る。

「こんなところではお体に触ります。お話は家の中で」

「…………」

 父親は無言で車の窓を閉めた。いつの間にか門が開いていて、父親を乗せた車は滑らかに敷地内へと入っていく。

「感じ悪っ」

「ごめんなさいね」

 思わず漏らした呟きに花音が頭を下げる。

「いいよ! 花音が謝ることじゃないよ!」

 慌ててそう言いながら、わたしは(あんなのが花音の父親か)と思っていた。

 普段の家の中がどんな具合なのか、父親のあの態度だけで何となく想像できる――花音が感じているであろう息苦しさも。

「それじゃあ、また明日。学校で」

 取り繕うように、花音は言った。父親のことには触れて欲しくなさそうだった。

「うん。また明日」

 余所様の家庭の事情だ。わたしの方でも踏み込むつもりはなかった。

 けれどやっぱりどこか、もやもやした気持ちは残った。

 帰る道々、寒波に首をすくめてあれこれ考えた。

 花音のこと。花音が置かれた境遇のこと。

 明日からはもうちょっと、花音に優しくしてあげよう。


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