第4話 初デートは滑るものだと誰かが言った


 それからもわたしたちの交際? は順調に、健全に続いた。

 お昼は一緒にご飯を食べて、学校が終わると、時間の合う限りは一緒に帰る。たまに寄り道してだらだら百合トーク。昼食は毎日一緒だったけど、帰りは別々になることも少なくなかった。お嬢様は生徒会役員もやっていたし、わたしはアルバイトもある。

 そんなこんなで一月も末になると、わたしは花音の存在にだいぶ慣れた。

 この調子でいくなら特に問題はなのかも、と思う。

 初めこそ脅迫だったけれど、その後の花音は比較的まとも……でもないけど、めちゃくちゃ強引ではあったけど、わたしの都合を無視するようなことはしないし、きちんと慮ってくれる。

 ……たまによだれを垂らしそうな顔でわたしを凝視してたりして、そこだけはちょっと貞操の危機を感じるけれど。

 ちょっとばかり距離感の怪しいお友達。そんな感じだ。

 まあ、油断だったね。完全に。

 花音がわたしに求めているのは、そんなゆるい関係ではなかったのだから。


    ★ ★ ★


「うげっ」

 その日、アルバイト先の書店のレジカウンターで、わたしは客商売にあるまじき声を上げた。

「どうしたの? 宮森さん」

「なななんでもないです」

 訝しむ店長をとりあえずごまかし(全然ごまかせてないけど)視線を戻した。

 空調の風にながれる艶やかな黒髪。

 そう、須藤花音様のご来店である。

 そういえばこの店に来たことあるって言ってたなあ。というかわたしも見かけた記憶がある。それも何度も。

 その頃は花音はわたしにまるで興味を持っていなかったようだし、わたしの方でもクラスメイトに話しかけるなんて考えもしなかったのでニアミスだけで接触はしていない。

 あの頃の自分に、今の自分の状況を説明しても信じてもらえないだろうなあ。

 花音は店内を、なんだか人目をはばかる感じで進んでいる。もちろん全然はばかれていない。美少女はなにをしても目立つ。

 とりあえずは、いきなりこっちに来て愛をささやいたりしなかったのでわたしはほっとした。

 そうなると今度は、花音が何しに来たのかが気になってしまう。

 どうも本を買いに来た様子ではないのだ。

 書棚で立ち読みするふりをしながらちらちらこっちを伺って、わたしがそちらを向くとさっと隠れようとするんだけど、その姿は防犯カメラのおかげで丸見えなのだった。

 小売店に死角があると思うなよ!

「すみません、ちょっと離れます」

 店長にそう断って、わたしはレジカウンターを出た。

 花音が潜んでいる書棚に反対側から回り込み、足音を殺して背後から近付く。

「……お客さん、ちょっといいですか?」

 テレビで見た万引きGメンのような口調で話しかけると、

「ひゃいっ!」

 花音が裏返った悲鳴を上げた。

「いえ、あのっ、違うんです! わたしは別に……ってゆかりぃぃぃぃ」

 振り返り、わたわたと手を振りながら弁明を始めた花音が、相手がわたしだと気付いてへたり込む。

「やめてよ脅かさないでよ、死ぬかと思ったわ」

「ごめん。そんなに驚くとは思わなくて」

「まあ、ゆかりに殺されるのならそれはそれで」

「……」

 半目で言葉を失うわたしを余所に、花音は「のっぴきならない愛っていいわよねえ……」なんてうっとりしてる。通報した方がいいのかな? いいよね? うん、しよう。

「で、何しに来たの?」

 一応、通報する前に訊ねる。

 まあだいたい見当はつく。昨日今日と一緒に帰れず、今日はさらに昼休みに呼び出しがあって昼食を速攻で切り上げてしまったので、一緒にいる時間が足りていない。寂しくなって顔を見に来たとかそんなところだろう。

「あ、あのね」

 花音は周囲を見回した。小さな書店の、需要が歩かないかも分からないビジネス新書のコーナーだ。周囲に人などいるはずもなく。

 花音は小さく息を吸い込み、わたしに一歩詰め寄って、言った。わたしの想像を軽々飛び越えて。乙女の顔で。

「で、デートしましょう!」

「でえと?」

 単語が頭に入ってこなかった。

 デート。日付。年月日。違う。そうじゃないデートだ。

 男と女が、同性同士でも別にいいけど、とにかく恋人同士が一緒にするあれだ。

「これっ」

 花音はコートのポケットに入れていたなにかのチケットを、強盗の出刃包丁みたいにわたしに突きつける。わたしが勢いに呑まれて受け取ってしまうと、

「じゃあ、明日ね!」

 一方的にそう告げると脱兎のごとく逃げ出した。

「明日!?」

 ちょっと待って、そんな急に言われても困る――と呼び止めようとしたのだけど、『レジ応援お願いします』の店内放送がわたしを阻んだ。



 アルバイトが終わるとわたしはすぐさま花音に電話を入れた。

「いきなりデートとか言われても困る。それも明日だなんて急すぎるし」

「何か予定が?」

「いや、ないけど」

「ならいいじゃない」

「でも」

「あのね、ゆかり。私たち恋人同士なのよ? 愛し合っているのよ?」

「いやそれは違う。わたしは脅迫されて付き合ってるだけで」

「なのに一緒にお昼を食べて一緒に帰るだけ。それって変だわ。付き合っているんだからデートの一つもするべきじゃない? いいえ、これは義務だわ。私たちはデートをしなくてはいけないのだわ」

 人の話聞けよ。

「ゆかりもかわいい格好してきてね、デートらしく。うふふふ。楽しみ」


     ★ ★ ★


 ……で、翌日。つまり今日。

 駅前のバスターミナルにわたしはいた。

 待ち合わせの時間は午前十時。わたしはその三十分前には着いた。

 花音の姿がなかったことに、わたしはちょっとむしゃくしゃした。あんた、わたしのことが好きなんでしょ? だったらわたしを待たせるんじゃないっての。これじゃわたしの方が楽しみにしているみたいじゃない。花音の馬鹿。

 早く来すぎた自分が悪いだけなのに、わたしは心中で花音を罵った。現れたらクドクド文句を言ってやる。そんなことを思っていた。んだけど、

「ゆかり?」

 声に振り返る。花音の姿を見た途端、放たれるはずだった罵詈雑言は消し飛んでいた。

 ショート丈のファーコートに大胆な赤いニット。寒さをものともしないミニスカートとロングブーツの組み合わせ。デザインはどれもシンプル。だけど着ている花音が美少女でスタイルがいいので、めちゃくちゃお洒落に見える。

 いや、実際お洒落なんだ。「お洒落な服を着る」のは誰にでもできるけど、「自分を引き立てる服」を選べる人は多くはない。

 大人っぽいのにかわいらしい。思わずため息なんか出そうになったけど、

「……ゆかり、その格好はないですわ」

 花音の口からそんな言葉が放たれて、わたしは我に返った。

「私、言いましたよね? かわいい格好してきてって。デートなのよ?」

 花音はジト目でわたしを見る。

 花音の非難もまあ分からんでもない。今日のわたしは、ユニクロダウンにどこで買ったかよく分からないコーデュロイのパンツである。頭に乗っけたキャスケット帽は一応お洒落のつもりだったのだけど、冷静になると意味が分からない。

「うっさいなこれでも背一杯お洒落してきたんだよ! 根暗ぼっちにファッションセンスなんか求める方が悪い! 悪いったら悪い!」

 自分のセンスのなさを差し置いてわたしは逆ギレした。

「ごめんなさい。私ったら、今日はゆかりの私服がみられるに違いないと思って舞い上がって……」

「わたしも、ごめん。言い過ぎた」

 しおれてしまった花音にわたしは謝った。初デートと気合いを入れてきたら相手はなんと競馬場にいるおっさんみたいな格好で現れたのだ。「その格好はない」と言いたくもなろうというものである。

「でもさ、前の日にいきなり言われても服なんか用意できないよ……」

 あんな時間ではもうお店は閉まっている。まあ、開いてたとしてもわたしのセンスじゃ何買っても同じという致命的な問題があるんだけど。

 デートは出だしからどんより暗ーい雰囲気になってしまった。

 気まずい。帰りたい。

「……今日は止めにする?」

 と私は訊ねた。すると、

「いいえ、中止にはしません。ええ、しませんとも」

 俯いていた花音は顔を上げ、きっぱりと言い切った。

「ええ……」

 こんなクソダサ女と並んで歩くの花音だって嫌でしょうに。戸惑うわたしを尻目に、

「いいことを思い付きました」

「いいこと?」

「ええ、とってもいいこと」

 花音はお正月のような晴れやかな顔でそう言った。

 わたしは嫌な予感がした。


    ★ ★ ★


 嫌な予感は当たるものだ。これがもう嫌になるくらいに当たるものだ。

「ちょ、ちょ、ちょーっと待って無理無理無理!」

 午前十時。わたしは絶叫していた。

 本来花音がどこに行くつもりだったのかは知らない。

 今、わたしは駅前の小洒落た服屋にいた。

 小洒落たというのは言葉の綾である。わたしの感じたままを言えば「ひらひらふわふわ女の子女の子した」お店である。ブランド名なんか知らん。知りたくもない。

 そこで花音はわたしを通路に突っ立たせたまま店内をぐるぐる回ってあれこれ見繕ってきた。

 あれこれってなにかって? ひらひらしたスカートとかコートとかふわふわしたブーツとかだ。それをわたしに全部押しつけ、指差したのは試着室。

 わたしのクソダサっぷりにキレた花音は、わたしにファッションを叩き込むことに決めた――あるいは着せ替え人形にして楽しむことに決めたらしい。

「……無理だって。似合わないってこんなの」

「嫌だと言うなら、あなたの秘密を全校生徒にお知らせするだけですわ。りゅりゅちゃん?」

「くっ」

 花音はいきなり伝家の宝刀を抜いた。おのれ。

 渋々わたしは試着室に入り、ため息をつきながら着替えた。似合わない。こんなの絶対似合わない。泣きそうな気分で一式着替え、試着室のカーテンを開ける。

「キャー!」

 いきなり花音が歓声を上げた。

「ゆかりには絶対こういうの似合うと思っていたのよ」

 花音の目線を感じてわたしは胸元と太股を手で隠そうとする。

「どうして隠すの? ちゃんと立って」

「うう……」

 言われたとおりにする。

「いいわ。その恥じらう表情がすっごくいい。お持ち帰りしたい」

 あ、やばいスイッチ入ってる。

「も、もういいでしょ!」

 とわたしはカーテンを閉じようとしたのだけど、

「何言ってるのそのままよ。あ、店員さん。これ、着ていくのでこのままお会計お願いします」

 花音は信じられないことを言った。

「え、ちょ、ちょっと待って。こんな服……」

 わたしは青い顔で花音を止めた。自分の好みじゃないから、というのもあるけど、それより何よりお値段が問題。お嬢様の花音にとっては普通の金額かもしれないけど、わたしには到底払えない。

「大丈夫よ、ここはわたしが払うから」

「それ余計ダメでしょ」

 本物の恋人同士なら交際相手に服を買ってあげることもあるかもしれない。

 けれどわたしたちはそうじゃない。

 わたしには花音に服を買ってもらう理由がない。

 そういうことを考えなくても、高校生が、クラスメイトに数万円の奢りなんてしてはいけない。額が大きすぎる。道義的にまずい。どう考えても。

「じゃあこうしましょう。この服は私が、私のために買う。そして、今日一日ゆかりに貸すことにする。これならお金のやりとりではなくてお洋服の貸し借りだわ」

「それなら、まあ……」

 方便のような気がしないでもなかったけれど、どういったところで花音はこの服を買ってわたしに着せるだろうし、妥協点としてはまあ悪くないのかなって。

「じゃあ決まりね」

 花音は嬉しそうに言った。

 あれ? わたしはお金のやりとりの話をしたはずなのに、この格好で過ごすことが既定路線になってない?

「あ、あのさ、花音、」

「あとで一緒に写真撮りましょうね」

 なってた。



 小っ恥ずかしい格好で服屋を出る。スカートなんて制服以外じゃ履かないから落ち着かない。

 際どいよ。すーすーするよ。

 寒いのと恥ずかしいのとでわたしは自然と内股になる。

「もっと堂々とすればいいのに。店員さんも、『よくお似合いですよ』って言ってたじゃない」

 そりゃ店員はそう言うよ。商売なんだから。

「早く移動しよう。まさか駅前うろつくだけのつもりじゃないんでしょ」

 わたしがそう言ったのはやけっぱちになったからではなく、こんなところを知り合いに見られたくなかったからである。まあ半分くらいは自棄だった気がしないでもない。もうどうにでもなーれ!

「こんなにかわいいゆかりをみんなに見せて回りたい気もするけれど」

「やめて」

 家から着てきた服は駅のロッカーに叩き込んだ。

 それからわたしたちは路線バスに乗り、一時間以上かけて到着したのは、県立スケート場だった。

 運動の苦手なわたしは、フィギュアスケートの大会を見に来たのであって欲しいと強く思ったけれど、もちろんそんなことはなかった。



「ちょ、ちょ、ちょーっと待って無理無理無理!」

 正午。前回からきっかり二時間後。わたしはまた絶叫していた。

 今、わたしはスケートリンクにいた。

 手すりにしっかり掴まって。借りたばかりの、生まれて初めのスケート靴を履いた足は子鹿みたいにプルプルプルプル震えている。

「大丈夫よゆかり。やればできる。あなたは強い子。ふぁいと!」

 どうやら花音は経験者らしい。どこにもつかまらずに、わたしから一メートルくらい離れた氷の上を前後にすいすい動いている。前後にだ! 前ならともかく後ろに動けるって何!? 美少女は物理法則もぶっちぎれるの?

「引っ張ってあげるわ。私につかまって」

 花音がすーっと移動してきて、わたしに手を差し伸べた。わたしは反射的にびくりと固まる。花音の存在にはだいぶ慣れた。隣にいられても不快ではない。

 けれど、やっぱり怖い。

 他人の手が。他人に触れることが。

 そんなわたしを見て花音は悲しそうな顔をした。

 悲しそうな花音を見て、わたしは申し訳なく思った。

 わたしが病的なまでに他人との接触を嫌がることに、花音はもちろん気付いているだろう。気付いていながら何も訊ねてはこない。ただ、察して距離を保ってくれる。

 花音は中学校の同級生とは違う。わたしを珍しがったりしないし、いじめたりもしない。あの手がわたしを傷つけることはないし、わたしを拒絶することもない。

 それは分かっている。分かっているんだけど、頭の理解と、身体の記憶は別物だ。トラウマはそう簡単に消えるものじゃない。

(わたしだって……)

 ふと湧いた思いに自問を抱く。わたしだって――その先を考えようにも氷の上で危うく震えていてはどうにもならない。

「きゅ、休憩にしよう。もうお昼だし。ね?」

 わたしは震えながらそう言った。

「仕方ないわねえ」

 花音が同意してくれたので、わたしはほっと息をついた。相変わらずプルプル震えながら、手すりをしっかり握りしめて、一歩一歩というか、数ミリずつリンクの入り口に向かう。

 花音はわたしの斜め前を、わたしに身体を向けながらバックで滑っている。

「私、焼きおにぎりが食べたいわ」

「自動販売機の? 花音にはもの珍しいんだろうけど、あれ、正直おいしくは――」

 そのときわたしは見た。

 リンクの彼方から猛スピードで滑ってくる男子小学生の一団があった。仲間たちとの競争に夢中で周りが見えていない。

 加速しながら突っ込んでくる。

「――花音! 前!」

 わたしの声に花音が立ち止まって振り返る。そのときにはもう、子供たちの先頭が花音から数メートルのところにいた。気付いた男の子が青ざめる。

「っ!」

 花音はとっさに片足を軸にしてくるりと身体をターンさせた。男の子が花音のすぐ側をかすめていく。さすがは花音だ。一瞬で的確に判断して衝突を回避した。

 けれどほっとしたのもつかの間、すぐに後続が突っ込んできた。

 残りの男の子たちは先頭の子より距離があったから、花音にぶつかりそうなことに早めに気付き、避けようとする――ところが、その動きがかえってよくなかった。バラバラに進路を変える男の子たちに花音は対応しきれず、大きくバランスを崩してしまったのだ。

「花音!」

 叫び、わたしは手すりから手を離した。

 その後のことはまったく覚えていない。無我夢中だった。

 花音に飛びつく。倒れる彼女を支えるなんて当然無理だった。もろともに倒れる。肩にゴツンと氷の感触。

「あ、痛たたたた……」

 顔をしかめるわたし。すぐ側に花音の顔がある。ぽかんと口を開けて、間抜けかわいい。

「花音? 大丈夫だった?」

「ゆかり……」

 花音が返事の代わりにわたしに抱きついた。

「……うれしい」

「ちょ、やめて、離して!」

「ええ、ゆかりの方から押し倒したのに?」

「押し倒してないから! 助けようとして失敗しただけだから!」

「ゆかりが私のために我が身を投げ打ったなんて……私、もう死んでもいい……」

 本当にそのまま昇天しそうなとろけ顔で、花音は言った。


    ★ ★ ★


 いつまでもリンクに寝っ転がっていては、別のスケーターに轢かれて本当に死にかねない。

 わたしも花音も完結を見届けていない百合作品を残して死ぬつもりは毛頭なく、そそくさとリンクから上がった。……わたしから手を離すとき、花音は名残惜しそうだったけど。

 お昼は花音の希望通りに自販機の軽食。

「……ど、独特な食感ですわね」

「だから言ったのに」

 最近はこの手の自販機も進歩していて割とおいしいらしい……と小耳に挟んだんだけど、ここのは旧式らしく、外は持てないくらい熱々なのに中はひんやりの、子供の頃に高速道路のパーキングエリアで食べたものとまったく変わってなかった。ある意味懐かしい味だ。

 わたしたちは、イートインの隅っこのテーブルで向かい合っている。

 スケート靴を脱いで、平らな靴で床を踏むこの安定感が感動的。そうとも、人間は氷の上を移動するようにはできていない。スケートなんて考えた奴は頭がどうかしてる。

 空調がごわんごわん鳴っていた。

 わたしは舌がおかしくなりそうな焼きおにぎりをペットボトルのお茶で胃に流し込み、リンクを上がってから言わなければと思っていたこと――花音がずっと、聞きたいけど我慢していたことを、言った。

「……わたしさ、中学校のときいじめられてたんだ。日本に来たばかりで色々分かってなくて、女子のリーダーに目をつけられて。嫌がらせは一通りやられたかな……」

 淡々と、私は話す。

 これまで誰にも言えなかったこと。口に出すのはきっと苦しいだろうと思ってたけど、意外にもそれは、心になんの波風も起こさない、単なる事実の羅列でしかなかった。

「……でね、その子の手が、すごく綺麗な手が印象に残ってて。だから人の『手』が怖かったの、特に女の子のきれいな手が。そういう手はわたしを攻撃する手だったから」

「…………」

「それでわたしは他人に触れるのも触れられるのも苦痛で、だからずっと嫌がってたのは花音のことが嫌とか怖いとかじゃなくて……って花音!?」

 相づちも挟まずどうにもおとなしいな、と思って様子を見たら、花音は両手で口を押さえて泣いていた。

「なんで花音が泣くの」

「だって、私……そんなこととは知らずに……軽い気持ちで……ごめんなさい……」

 意味がよく分からない。涙声で聞きづらい。とりあえず泣き止め、そして鼻をかめ。

 花音が鼻をズビズビかみながら語ったところによると、やっぱり花音は、わたしが他人に触ったり触られたりすることを極端に怖がることに気付いていた。

 ただしその理由は、単に内気で人見知りだからだと思っていたのだそうだ。

 花音としては、「恋人同士」なんだから肩も寄せ合いたいし手もつなぎたいし抱きしめ合いたい。しかしそのためにはわたしのこの性質はおおいに問題になる。このままではめくるめく百合ワールドが達成できない。

 それで考えたのが今日のスケートデートだ。運動の苦手なわたしがスケートを得意なはずもなく。手取り足取り教えると言えば手をつなぐ口実になる。もしわたしが嫌がっても、転んだら一人では立てないんだから手をつなぐしかない。

 今日のデートはわたしを窮地に追い込んで無理矢理にでも手を繋いでしまおうという、花音の策略だったのだ。

「最初はプールにしようかとも思ったのだけれど、浮き輪を使われたら手助けの必要がなくなっちゃうでしょう?」

「まあ、確かに」

「私、浅はかでしたわ。ゆかりにそんな辛い過去があるとは思いもよらず、ただ臆病なだけだと決めつけて、荒療治でゆかりを成長させてあげるのだと、上から目線で考えていたの。ごめんなさい。本当は、私があなたに触れたいという、自分勝手な欲望でしかないのに……」

「あー」

 わたしは唸った。

「そんな泣かなくてもいいから。怒ってないし」

「本当に?」

「本当に。ちょっと前までは深刻だったんだけど、今はそうじゃないし。ほら」

 と、わたしは自分から手を伸ばして、花音の腕を取り、手を握った。

 わたしの手はまったく震えていない。恐怖も不快感も何もなかった。さっき、倒れそうになった花音に飛びついたときからそうだった。ごく当たり前の動作として、花音に触れることができた。

「荒療治、効果あったよ」

「ゆかり……」

 花音は両手でわたしの手を包み込んだ。壊れ物みたいに。

 あったかい、と思った。

 数年ぶりに感じる、他人のぬくもりだった。



「離さないでよ! 絶対離さないでよ!」

「ゆかりがそんなことを言ってくれるなんて……ああっ」

 花音はとろけきった顔でそう言った。

 食後、わたしたちはリンクに戻ってスケートを再開した。手取り足取り教えられるということで花音はめちゃくちゃ嬉しそう。というかやばいスイッチ入ってるみたいで、なんかハアハア喘いでいる。怖い。ぶっちゃけ逃げたいけど支えてもらわないと転んでしまうのでそうもいかない。やばい。

「くっついてくれるのは嬉しいのだけど、私に体重を預けてしまってはダメよ。手をつかんでいるのは転んだときの保険。自分でバランスをとらないとかえって……きゃっ!」

「わあっ!」

 言ってるはしからわたしはバランスを崩し、花音と一緒になって転ぶ。

 花音に手を引かれてよたよたと立ち上がり、笑い合う。

「もう一回。重心を意識して」

「うん――わあっ!」

 何度も何度も転んで、何度も何度も笑った。

 二時間ぐらいはがんばってみたけど、結局滑れるようにはならなかった。それでもどうにかこうにか、手すりにつかまらずに立つくらいはできるようになって、最後は花音に手を引かれてリンクを一周した。

「もうダメ、足パンパン」

 泣き言も明るい。こんな気分は久しぶりだった。

 スケート場に併設のカフェで一休みしてから、帰りのバスに乗る。

「また来ましょうね」

「次は運動しない方向でお願い」

「だーめ。ゆかりはもっと体力つけた方がいいわよ絶対」

 ほっとけ。人には向き不向きがあるのだ、とわたしは思った。

 街に向かって走るバスの座席に、わたしたちは並んで座っている。とりとめもないことを話していると、不意に花音が静かになった。

「花音?」

 答えるように花音の頭が揺れて、そのまま、こてんとわたしの肩に乗る。

 小さな寝息が聞こえてきた。

「居眠りのふりしてくっついてるなら耳たぶ切れるまで引っ張るからね」

 返事はなかった。マジ寝だ。

 人に体力つけろとか言っておいて先に寝落ちするかあ? ほんと、自分勝手な奴。

「しょうがないなあ……」

 わたしは花音を起こさず、そのままにしておくことにした。

 花音の手が、何か求めるように動く。

「はいはい。ここにいますよ」

 わたしは花音の手に、自分の指を絡めて掴まえた。

「んぅ」

 と花音が甘ったるい声を出した。

 不思議な気分だった。ほんのちょっと前まで、他人に触られるのが恐怖でしかなかったわたしが、肩を枕にされて平然としている。それどころか、花音がずり落ちないように姿勢を変えてあげたりしている。寄り掛かる花音の重さや体温に、心地よさすら感じている。

 頭をすり寄せてくる花音の髪が、わたしの鼻先で踊る。

 心がくすぐったかった。


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