第2話 百合チューバーの事情

 階段をえっちらおっちらおばあさんみたいな足取りで登る。頭が重い。寝不足。休めば良かったかと今更思う。

 ドアを開けて教室に入る。

 わたしに挨拶をする生徒は誰もいない。それどころか目も向けない。友達ゼロの、突然いなくなっても誰も気付かない程度のぼっち。それがわたし。

 須藤花音は……いた。教室の前の方で、きちんと席に座り、文庫本を読んでいる。それだけ見ればわたしと同じぼっち生徒みたいだけれど、彼女は他の生徒が登校してきて席の近くを通ると本から顔を上げて「おはよう」と、優美な微笑とともに挨拶をしている。声をかけられた生徒はうわずった声で「お、おはよう、須藤さん」なんて。まるでアイドルと会ったかのように緊張した挨拶を返す。

 彼女は人気者だ。氷のような美貌とは裏腹に、誰にでも分け隔て無く接する。

 自分の席に着きながら、わたしは教室を見回した。あちこちに固まって談笑する女子生徒。部室から盗んできたテニスボールで遊んでいる男子。

 授業が始まって終わって、休み時間になって、次の授業が始まって――

 衝撃の大事件(わたしにとっては)から一夜明けた学校は、憎らしいぐらいにいつも通りだった。

 須藤花音がわたしに話しかけてくることも、それどころか目線を寄越すことすらなかった。

 いつも通りだ。いつも通り過ぎて、昨日のことは夢だったのではとすら思う。

 けれど残念ながら夢ではなかった。わたしのスマホにはすでに彼女の電話番号とアドレスが登録されていた。

『放課後に音楽堂で』

 昼休みの終わり頃、彼女から送られてきたたった八文字のメッセージが、わたしに現実を突きつけた。


     ★ ★ ★


『ハイというわけでやって参りましたりゅりゅチャンネルのお時間です。お正月はお休みしたので久しぶりの配信ですねー、みんな元気だった? ボクは死にそうだったよ。だってお正月って流通止まるじゃん! 新刊でないじゃん! 百合成分が切れるっちゅーねん! で、配信始めたはいいけどぶっちゃけネタが無いんだよねー。年末は『ゆり見て』全二十巻再読してたけどあれについてはもう語るだけ語っちゃったし、や、語ろうと思えば無限に語れるよ? でもさ、見てる人は「またそのネタかよ~」ってなるじゃん? だから今日はもう雑談! 雑談です。 何か面白テーマあったらじゃんじゃん書き込んで下さい。それ拾ってだらだらトークするんで』

 イヤホンから聞こえる甲高い声が周囲に漏れていないか気になってボリュームを落とした。

 自分の配信を見返すのは久しぶりだ。Vチューバーを始めた頃は配信ごとにチェックしてミスを見つけて頭を抱えていたものだけど、最近はすっかり慣れてベテランの貫禄。

 そういえばかれこれ一年以上やってるんだなあとちょっと感慨にふける。

 りゅりゅチャンはぶっちゃけ人気があるとは言えない、弱小ドマイナーチャンネルである。アバターも2Dで全然お金かけてないし。百合オタが百合作品についてオタク特有の早口でしゃべるだけだし。まあ人気出ないよねって。それでもこのローカル感が受けたのか何なのか常連リスナーなんかもいたりする。

『りゅりゅが一番萌えるシチュエーションは何ですか?』

『最近は身長差! 年の差はなしね。あくまで同級生で、なのに片方ちびっこいの。身長コンプレックスなの』

 チャットで投げられた質問に答えていくりゅりゅ=わたし。

 特定作品の話じゃないから脈絡もなければとりとめもない。一問一答質疑応答みたいになっている。それでも最初は二次元百合についてだったのが、次第に「最近見た映画のお勧めは?」とか、「お年玉いくらだった?」とか、もう本当にただの雑談になっている。

『りゅりゅちゃんってリアルな女の子はどうなの?』

『あー、それはないです。ない。わ……ボクの百合は二次元限定なので。プロフィールにもあるとおり』

『ごめんなさい。何か百合っぽい体験ってしたことあるのかなって』

『んー…………ない……わけでもない、かなあ?』

 そう答えると、質問したのとは別の人たちまで「聞きたい」と言い出して、チャットが収集つかなくなってしまった。そのノリに流されるようにして、わたしは一つ、昔話をした。

『んーとね、迷子の女の子と会ったんだ。小学校の低学年。ボクもその子も。その子がビービー泣いて名前も言えない状態で。いや、迷子じゃなくて家出だったかも? 家出して迷子になった? ごめん全然覚えてないや。とにかくその子が泣いてるの見てて、何とかしなきゃって思ったんだと思う。それでぎゅって抱きしめて。おでこにキスしたんだったかな。ボクが泣くとママが良くそうしてくれたんだ。何も怖いことなんてないよ、守って上げるからね、って』

 キャーキャーキャーりゅりゅちゃんイケメーン! とチャットが盛り上がる。


「――何を見ているのかしら?」


「ぬわぁっ!」

 いきなり話しかけられてわたしは椅子から転げ落ちた。耳たぶに彼女の吐息の感触。甘い香り。見上げると、そこに須藤花音が立っていた。嬉しそうな顔で。

 約束通りの放課後の音楽堂。ただし彼女の登場はずいぶんと遅かった。

「なんでバレたのかと思って検証してた」

 ただ待っているのも何だったので、自分が何をミスしたのか確認しておこうと思ったのだ。ところが先週土曜の配信には特に個人情報につながるような発言はなかった。私的な発言が全くないわけじゃないけど、十年も前の昔話一つで「これは桜明高校二年二組の宮森ゆかりに違いない」なんて特定できるはずがない。

「ああ、別にこの間の配信で気付いたわけじゃないのよ。それにどちらかといえば配信よりはSNSの方ね。ずっとフォローしてたし」

「なぬっ!?」

 声が裏返った。

「とりあえず立ったら?」

 と須藤花音は手を差し伸べてくる。わたしはそれを無視して自分で立ち上がった。

 彼女はわたしが座っていた椅子に腰掛け、ポンポンと膝を叩いた。

「何?」

「ここに座って欲しいなあ、って」

 やなこったい。わたしは彼女から一メートルの間合いを置いて別の椅子に座った。

「りゅりゅの正体があなただと気付いてフォローしたわけじゃないのよ。最初は、単に百合仲間がいるなあってフォローして、それでしばらく見ているうちに気付いたの。ああ、この子同じ学校の生徒だって。うちの学校の運動会の直後に『筋肉痛辛い』とか、『今日はカモシカと衝突して電車が遅れた』とか。天候や事件に関する書き込みもこの町の記録と一致してたわね。地震とか大雨とか。後は修学旅行ね。聖地巡礼! って京都のカフェの写真上げてたでしょ? ちょうどあの日って私たちのクラスが京都で自由行動だった日ですし、前後の書き込みも旅行中を思わせていたし。書店でアルバイトをしているとか、バイト代は百合本に消えるとか。諸々の情報を総合した結果、犯人はおまえだーっ! というわけ」


 クラスメイトに数ヶ月にわたってソーシャルハックされてました。

 何それ怖い。


「……仮に恋人でもプライバシーは穿鑿しない方がいいんじゃないかな」

「恋人同士だって認めてくれるのね!」

「仮にって言ってるでしょ! 仮定の架空の仮想の話!」

「いずれ事実にしてみせるわ。そうね、まずは呼び方から改めましょうか。恋人同士らしく、愛を込めて、ゆかりんって呼んでも」

「ダメ」

「私のことはお姉さまって呼んでいいから」

「同級生でしょ?」

「冗談よ」

 と彼女は言ったのだけど、どこまで冗談だったのか正直怪しい。

「仕方ないからゆかりで許して上げる」

「何その上から目線」

「みんなの前でりゅりゅたんって呼んでもいいのよ?」

「ゆかりと呼んで下さいお願いします」

「うふ。素直な子って大好き。じゃあ私のことも花音でいいわ。試しに呼んでみて。愛を込めてね」

 やなこったい……と思ったけれど拒否権なんかないわけで。

「……か…………花音」

 うわあなんだこれめちゃくちゃ恥ずかしいぞ。顔が赤くなる。

 照れるとかそう言うんじゃなくて。考えてみれば他人を名前で呼ぶなんて何年ぶりだろ。ちょっと思い出せない。

 顔を背けて横目で見ると、花音は指を組んで目を潤ませていた。名前を呼ばれたのがよっぽど嬉しかったらしい。それほど喜ばれるなら悪い気はしない――なんてことはなかった。だってこいつ脅迫者だし。ソーシャルハッカーだし。犯罪すれすれ? ほぼ犯罪者? 隙を見て始末するべき?

「なあに? ゆかり」

「……あんたが呼べって言ったんでしょ」

「あんたじゃなくて花音。はい、やり直して」

「誰がやるか!」

 わたしは叫んだ。すっかりペースに飲まれている。付き合ってられない。

「で、何のために呼び出したの?」

「あ、そうだったわ。ゆかりと話すのが楽しすぎて忘れていたわ」

 花音は舌を出し、それからものすごく緊張した、初々しい、恋する乙女そのものの顔でこう言った。

「……一緒に、帰らない?」


     ★ ★ ★


 我らが桜明高校は街外れの辺鄙なところにあって、最寄り駅は通学のためだけに新設されたものである――といっても駅ができたのは何十年も前の話だけど。

 その桜明校生専用の駅にはしかし、他の生徒の姿はほとんどなかった。

 終業直後でもないし、運動部が上がってくるにはまだ早い隙間時間。

 わたしは花音と並んでホームに立ち、電車を待った。

 吐く息が白い。冬のど真ん中。雪は降っていない。

「手をつなぎましょう?」

 出し抜けに花音が言った。

「嫌」

「恋人同士なのに?」

 抵抗するならバラすわよ「りゅりゅちゃん」、という雰囲気を感じたけれど、わたしは再度はっきりと言った。

「嫌。ってか無理」

 わたしの態度に何かを感じ取ったのか、花音はそれ以上は押してこなかった。残念そうではあったけれど。

 電車は十分遅れでやってきた。この路線は山を越えて隣県まで延びているので、そっちの方で降雪があると、こっちでは晴れていても遅れることがこの時期はよくあるのだ。

 空席だらけだったけど、わたしはドア付近の手すりをつかんで立つことにした。

「座らないの?」

「立ってる方がいい」

「じゃあ私も」

 と花音は何が嬉しいのか笑顔でつり革につかまった。

「うふふ」

「嬉しそうね」

「ええ。とっても」

 花音がわたしを見てなくうなずく。こっちが恥ずかしくなるくらい、まっすぐで、衒いのない笑顔だった。その笑顔を受け止めきれずに、わたしは俯いた。

 電車が動き出し、がたごと揺れる。花音の長い髪も揺れた。やっぱりいい匂いがする。

「ねえ、眠くならない?」

「全然」

 わたしはつっけんどんに答えた。本当はめっちゃ眠かった。昨日の今日だ。昨夜はよく眠れなかったし、授業中に居眠りするような度胸もないし。

「残念。ゆかりが居眠りして、私の肩に寄り掛かってきたら、きっとすっごくかわいいだろうなって思ったのに。それで私はゆかりが倒れないようにしっかり抱き寄せてあげるの。目的地に到着して、ゆかりがハッと目を覚まして、それで、居眠りしてたことに気付いて真っ赤になったりしたら、ああっ、我慢できないっ」

 しゃべりながらその光景をリアルに想像したのだろう、花音はとろんとした目になって全身を震わせる。やべえこいつ。

 わたしは恐怖に鳥肌を立てながら花音から半歩遠ざかった。

「ど、ど、同意なしにわたしに触ったら殴るからね!」

「大丈夫よ。ゆかりの嫌がることはしないって言ったでしょう」

 花音はいつもの様子に戻ってそう言ったけど、信じろと言われてもちょっと無理。


      ★ ★ ★


 花音の家は街中にあって、わたしの家は郊外――学校にそこそこ近いところにあるので、必然的に、わたしが先に降りることになる。

 花音があれこれ理由をつけて(もしくは単純に脅迫して)家までついてくるんじゃないかとわたしは不安だったけど、意外にも花音は素直にわたしを見送り解放してくれた。ちっ、家まで来たなら完全犯罪のチャンスだったのに。嘘嘘。

「ただいま」

「オカエリー、ゆかり」

 靴を脱いで家に上がると、青い目をした大男がキッチンから廊下に顔を出した。

「パパ?」わたしは目を丸くした。「会社は?」

「ママが熱を出したから早引けしてきたよー」

「いいの?」

「家族より大事なものなんてないよー。仕事なんてやりたい人にやらせておけばいいのさ」

 流暢な、けれどどこか発音の怪しい日本語。

「ゆかりも気をつけるんだよー。たちの悪い風邪が流行ってるらしいから」

「うん」

 と答えながらわたしは自分の部屋に向かう。

 うちの両親は国際結婚だ。バリバリのキャリアウーマンだったママがアメリカ赴任中に二人は「運命を超えた出会い」(本人たちに言わせれば)をして電撃的に結ばれた。つまりわたしもアメリカ生まれ。実際、一二歳まではわたしは向こうで育ち、日本に来るのは年に一度か二度、ママの里帰りのときだけだった。

 パパはママに出会う前から日本びいきで、いつか日本に住みたいと夢見ていた。ママもアメリカに移住するつもりはなく、落ち着くなら日本がいいねと二人は考えていた。そしてわたしが中学生になるのを気に、それまでの仕事を辞めて、おばあちゃんの実家があったこの町に移り住んで来たのである。

 この話をすると大抵の人はうらやましがる。国際化だグローバル化だといいながらも、結婚までいくケースはそうそうないし、何かしらロマンを感じるのは分からないではない。

 けれどわたしはこの境遇でよかったと思ったことはない。

 十二歳までアメリカで過ごし、日本は「ただの旅行先」でしかなかったわたしは、まあ、一般的な日本人から見れば異物そのものだった。個人主義、アメリカ的な振る舞いをするわたしは、日本の中学でいともあっさりと孤立した。目立つ女子に目をつけられたのがいけなかった。後はまあ、おきまりのパターンだ。

 ちょうどその時期に出会ったのが――わたしを救ってくれたのが、漫画を初めとした百合作品たちだった。

 物語の中の女の子はかわいくて、性格はおしとやかだったり荒っぽかったり色々だけど、みんな心にあふれんばかりの「愛」を持っていた。女の子と女の子が仲むつまじい夢のような世界――わたしがはまったのは言うまでもない。二次百合さえあれば、リアルの女の子なんて恐ろしいものと友達になる必要なんてないじゃないか。

 そう。わたしはリアルの女の子が恐ろしくてたまらない。

 そんなわたしが女の子と付き合うなんて、あり得ない――はずだったのに。

「なんでこんなことに……」

 答え、迂闊だったから。

 いや待てしかし。

 バレたのが花音だったのは幸運……では絶対にないけど、不幸中の幸いだったのかもしれない。何しろ花音はガチ百合だ。わたしと違ってリアルにそういう関係を求めている。というかわたしに求めてるんだけど。とにかく彼女はマイノリティの側にいる。排斥される異物の側にいる。中学時代の同級生たちのようなことは、しないだろう。多分。自信ないけど。しないんじゃないかな。

 そう思う根拠は今日の花音の振る舞いだ。わたしが嫌だと言ったら、花音はちゃんと我慢してくれた。脅迫して無理矢理言うことを聞かせることだってできたはずなのに。わたしの気持ちをおもんぱかり、意思を尊重してくれたのだ。だったらそもそも脅迫して交際を迫るなよって話なんだけど。

 とにかくわたしが言いたいのは、彼女は発言こそめちゃくちゃ気持ち悪かったけど、明らかにやばい人だったけど、しかし悪い人とは限らないのではないか、ってこと。いい人だとは絶対に言えないけど。

 要するに事態は思ったほどにはやばくはなさそうだなと、わたしは思ったのだった。

 全然甘かった。

 花音はいじめっ子よりもはるかに危険な――


 ――恋の暴走百合特急だった。



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