ゆりちゅ!
上野遊
第1話 百合脅迫者
放課後の音楽堂。窓の外では雪が舞っていた。
雲のほとんどない晴れた空からからあふれ出すみたいにして現れた綿雪は、校舎に当たって逆巻く風に煽られて。ふわり、ふわり。夕日を浴びてオレンジ色に輝いている。
蝶が舞うような、ううん、妖精が舞うような幻想的な光景を、けれど、わたしが見たのは、本当はもう少し後のことだ。
このときわたしは空なんか見ていなかった。
それどころじゃなかったからだ。
「宮森ゆかりさん」
彼女がわたしの名前を呼んだ。
須藤花音――知らない相手じゃない。クラスメイトだ。
クラスメイトだけど友達ではない。一度も会話をしたことがない。彼女がわたしの名前を知っていることすら驚きだった。
手入れが大変そうな艶やかな長髪。氷のような眼差し。学年、いや校内でも一二を争う美少女で、成績優秀で、運動も得意で、生徒会役員で、親はなんとかいう大企業の経営者で、先祖には明治維新の立役者がいるとかいないとか。天から二物も三物も与えられたお嬢様で、わたしとは共通点が性別くらいしかない。
同じ教室にいながら、別の世界の住人のような、そんな存在だと思っていた。
その彼女と、放課後の、他に誰もいない音楽堂で二人きり。うらやましがる人もいるだろう。
でもわたしは嬉しくなんかなかった。むしろ逆だ。震えているのは寒さのせいじゃない。
「来て、くれたのね」
冷え冷えとした、だけどどこか熱っぽさをにじませた声で、彼女は言った。
「……来ないわけにはいかないじゃない」
とわたしは答えた。不機嫌と警戒を隠さない声で。
わたしのポケットには折りたたんだ便箋が入っている。そこにはこんなことが書いてある。
『――あなたの秘密を知っています
ばらされたくなければ、放課後、音楽堂までいらして下さい
須藤花音』
そうなのだ。わたしは脅迫されているのだ。
景色なんか見ている余裕のあるはずがなかった。
「……なんなの?」
私は訊ねた。精一杯の虚勢を込めて。怯えているのは見破られていたと思う。
彼女は余裕たっぷりに微笑んだ――少なくともわたしにはそう見えた。
「なんなの? とはなんです?」
「あんたが知ってる私の秘密」
「あら? 身に覚えがあるからいらしたのではなくて?」
「茶化さないで」
わたしの口調が荒くなる。彼女の態度はまったく変わらない。
今すぐこの場から逃げ出したかったけれど、逃げたらどうなるか考えるのも恐ろしかった。蛇に睨まれたまな板の窮鼠。噛み付く度胸なんて最初からないんだけど。
「そうね、ではヒントを差し上げましょうか」
彼女はじっとわたしを見つめ、
「先週の、土曜です。あなたは人に知られたくないあることをしましたね?」
と言った。
「土曜日……」
★ ★ ★
先週の土曜――三学期の最初の週末で、土曜日なのに授業があった。
まだ正月気分が抜けたか抜けてないか、そんな雰囲気の中テストが行われて、男子はぐちぐち文句を言い続けていた。わたしも内心不満に感じながら答案用紙のマス目を埋め、休み時間は自分の席でぼんやりと「早く放課後にならないかな」とか思っていた。誰とも口を利かなかった。
わたしは学校では極力目立たないようにしている。地味を通り越して存在感がない。友達も一人もいない。作りたいとも思ってない。入学してからずっとそうで、卒業するまでずっとそうだろう。もしかしたらその後も一生。友達なんて作りたくない。特に、女友達は。
その日、須藤花音がなにをしていたかは覚えてない。教室にいたのは間違いないけど。わたしと彼女は同じクラスであること以外何の接点もなく、当然、その日も言葉も交わさなければ目も合わなかったし。……そう言えば今週に入ってから彼女の視線を感じることが何度かあったような気がする。けれど気のせいだと思っていた。わたしと彼女は同じクラスで以下略。
要するに学校ではいつも通りだった。ぼっちのわたしはいるのかいないのか分からない感じで授業を受け、授業が終わると誰にも気付かれずに下校した。
電車に乗って、自宅のある駅を通り過ぎてさらに数駅。学校からも自宅からも距離のある街で降りたのは、書店のアルバイトのためだった。
これ? と思ったけどそんなはずはない。我らが桜明高校では生徒のアルバイトは禁止されていない。こんなことばらされたってなんの問題もなく、だから脅迫の材料にもなりはしない。
バイト先に須藤花音が現れたことがある。それも何度も。接客応対をしたことはない。というか彼女がわたしの店で何か買うところを見たことがない。今考えると妙だ。
しかし今は土曜日のことだ。バイト先でも何ら事件はなかった――わけではなくて、接客業にありがちなトラブルがあるにはあったけど――わたしがレジのお金をくすねたり客を殴ったり盗撮したり、そういう脅迫材料になるようなことは一切なかった。
バイトが終わると帰宅して、ご飯を食べてお風呂に入って部屋に戻ってパソコンを、
(……まさか)
とわたしは思った。
一つだけ、人に言えないというか、知られたくない「秘密」が、わたしにはある。
「思い当たったようね」
音楽堂の奥。一段高くなっているところ。ピアノに寄り掛かっていた彼女がそう言った。
「いや、でも、だって……」
彼女が気付けるはずがない。わたしは細心の注意を払って「あれ」をしていた。
「だって、なあに?」
微笑み。男子生徒なら百パーセント、女子でも七割くらいは一発で籠絡できそうな、彼女はそれはそれは艶っぽい笑みを浮かべた。わたしにとっては恐怖そのものだった。
彼女が動いた。
コツ……コツ……淑やかな足音を立てながら、こちらに歩いてくる。長い髪が揺れる。足音は処刑のカウントダウンのように。
手を伸ばせば触れる距離。わたしは反射的に後退った。すぐに壁際に追い込まれる。
彼女の手にはスマートフォンが握られている。わたしを正面に捉えたまま、彼女は横目で画面を見ながら操作して、ある動画を再生してわたしに見せた。
『りゅりゅの二次百合! ちゃんねる~』
画面に表示されたアバターが、心底頭の悪そうな、脳天から突き抜けた甲高い声でそう言った。
『ハイというわけでやって参りましたりゅりゅチャンネルのお時間です。お正月はお休みしたので久しぶりの配信ですねー、みんな元気だった? ボクは死にそうだったよ。だってお正月って流通止まるじゃん! 新刊でないじゃん! 百合成分が切れるっちゅーねん!』
りゅりゅと名乗ったアバターは危ないクスリでも決めてんのかというハイテンションでまくし立てる。
須藤花音は動画をミュートした。けれどわたしには、アバターが何を言っているのか分かる。知っている。それはけっして一度見た動画だからではなく、
「……これ、あなたよね? 宮森ゆかりさん」
彼女が言った。
そう、そうなのだ。
学校では誰も知らない私の秘密。
それは、百合作品をこよなく愛し、こじらせすぎて百合作品を語る配信までやっていること。
バレた。身バレしてしまった。しかも同じクラスの生徒に。
あまりのことにあたしはうろたえた。うろたえてミスをしてしまった。
「こ、校則にはネット配信を禁じるとはありませんですけど!?」
実質認めた発言である。まあ、ここで否定したところで結局は認めさせられていたような気もするけど。
「そうね。別に校則には反してないわね。ついでに言えば法律にも。公序良俗にも」
「そ、そ、そうだ! こんなことで脅迫したって無駄なんだから!」
「それはどうかしら? 違法でも違反でもなくても、あまりおおっぴらにはできない趣味ではないかと、私は思うのですけれど」
「うっ」
とわたしは言葉に詰まった。
百合。女の子同士の恋愛を扱った作品。わたしはそれがこよなく好きだ。
けれどそれはあくまでもフィクションの、二次元世界でのことで、現実の女の子が好きなわけじゃないし、女の子を恋愛対象に見てるわけでもない。現実とフィクションはちゃんと分けている。
だけどわたしのそうした姿勢は、誰にでも理解されるものではない。むしろ理解できない人の方が多いだろう。暴力ゲームをする人は暴力的、百合漫画が好きな人は同性愛者、そう見なされて、向けられるのは冷たい目線と差別的な言葉。
――ゆかりちゃんって、おかしいよ。ふつうじゃないよ。
「……っ」
嫌な記憶がフラッシュバックしてきて、わたしは頭を振ってそれを追い出す。須藤花音を睨み付ける。
「で、何が望みなの?」
秘密をばらされたくはない。
脅迫に屈したくはなかったけど、今はそれしかなかった。
須藤花音は微笑を浮かべながらさらに距離を詰めてくる。壁際のわたしはもう下がれない。詰まる。近付く。スマートフォンを持っていない方の手を伸ばしてくる。
わたしはぶたれるのかと思って身をすくめてしまった。
けれど彼女はそんなことはせず、伸ばした手をわたしの顔の横、壁につけた。いわゆる壁ドン。長い髪がさらさらと流れた。いい匂いがした。こんな時に何考えてるんだと自分でも思ったけど。実際そう感じたんだからしょうがない。
「ちょ、ち、近いんだけど」
突き飛ばしたかったけどできなかった。脅迫相手を怒らせるのは得策じゃない。それ以前に、わたしは他人に触れるのが怖かった。
彼女の瞳にわたしが映っている。逃げることも抵抗することもできずに、震えて彼女を見上げている。
いや、震えているのはわたしじゃない。彼女だ。圧倒的優位に立っているはずなのに、彼女は微かに震えていた。それはあるいは、わたしの気のせいだったかも知れない。
須藤花音は唇を舐め、そして言った。
「宮森さん。あなた、私と、付き合いなさい」
………………………………………………はい?
思考が停止した。思考というかあらゆる活動が停止していたのではないかと思う。まばたきも、呼吸も。そのままどれだけ時間が経ったのか。酸素不足でわたしは咳き込み、ようやく我に返った。
「付き合えって、え? どこに?」
「とぼけられるのはあまり好きではないのだけれど」
須藤花音は睫毛が数えられるほどの距離からわたしの目を覗き込み、言った。
「宮森さん、あなた、女の子が好きなのよね? 私もなの。それでね、私はあなたを『いいな』と思ったの。つまり恋人同士になりましょうと言うことなのだけれど」
「え? は? な、」
何言ってんだこの女――わたしがまず感じたのはそれだった。
「あのさ、わたし、そういう趣味はないんだけど」
「配信までしているのに?」
「それは二次元だから。わたしの百合は二次元限定なの。配信見たんでしょ? プロフィールにもそう書いてるし嘘でも何でもないから! リアルのそういう趣味はないの!」
焦っていたわたしは大きな声で否定した。ほとんど絶叫で、言ってしまってから誰かに聞かれたらまずいと思って、それから音楽堂は防音がしっかりしていることを思い出して安心して、誰かに聞かれる心配がないってことは泣き叫んでも助けは来ないと言うことだと気付いて真っ青になった。容姿端麗な須藤花音は身体能力も抜群であり、五十メートル走二十秒のわたしなんかがどう足掻いても勝てる相手ではないのだ。
「愛さえあれば次元の壁なんて」
須藤花音がぐっと顔を近づけてくる。目の色がやばい。襲われる。
「越えられないから!」
わたしは思いきって彼女を突き飛ば――すことはできなかったけどしゃがみ込み、這うようにして壁ドン体勢から逃げた。そのまま出口に向かってまっしぐらというか無様に走った。必死だった。
「ばらされたら困るのではなくて?」
「っ」
つんのめるように足が止まる。ぎこちなく振り返る。彼女はわたしを追いかけてもいなかった。圧倒的優位にあることを理解していた。
「困るのはお互い様じゃないの?」
わたしはせめてもの抵抗を試みる。
「いや、むしろ須藤さんの方が困るんじゃない? わたしなんかぼっちだしどんな噂が流されようとなくすような友達もいないし、これ以上評価が落ちることもないけど」
自分で言っててちょっと悲しくなってきた。けど歯を食いしばって続ける。
「須藤さんはそうじゃないでしょ。損害はそちらの方が大きい」
「そうね、確かにそうね。宮森さんの言うとおり」
意外にもあっさり認めて、しかし彼女はまったく動じていなかった。
「でも、誰が信じるかしらね、あなたの言うこと」
「うっ」
「むしろ、あなたに一方的に襲われたって訴えてもいいのよ?」
「ぐっ」
学年どころか校内でも有数の有名人で教師の覚えもいい彼女と、いるのかいないのか分からないぼっちで根暗なわたし――いざ騒ぎになったときに世間がどちらを信じるかは考えるまでもなかった。
追い詰められたわたしはしかし、起死回生の物理的証拠の存在を思い出した。彼女からの手紙だ。ご丁寧に自筆で名前も入っている。
「あ、あんたがわたしを呼び出して脅迫したって証拠が……あれ?」
ポケットを探るも中には何もなかった。落とした? 嘘?
「捜し物はこれかしら?」
須藤花音が余裕ぶった仕草で、ぴらぴらと便箋を振る。いつの間に……。
「別に百万円持ってこいとか、犯罪の片棒を担げとか言ってるわけではないのよ? ただ、私とお付き合いして欲しいだけ。あなたの嫌がることはしません。恋人なのですから、きちんと愛を持って接します。それがそんなにお嫌?」
嫌に決まってる。
交際したい→弱みを握って脅迫だ! という思考回路の人間がまともなはずがない。
断固お断りしたいところだったが、断ったら秘密をばらされる。それは困る。
「……わたしの嫌がることはしない、んだよね?」
結局のところ、わたしに選択権など最初からなかったのだ。
須藤花音は感極まったように両手を胸に当てた。
「もちろんです。絶対に幸せにして差し上げます」
悪魔が実在したらこんなふうに笑うんだろうなと、わたしは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます