第9話 乾杯

 二人。建物に入ったうちのひとりは、間違いなく獲物だった。地下に続く階段を、先に立って降りていく。

 私は道を挟んで向かいのコンビニエンスストアの壁に背をもたせ、スマートフォンを見ている振りをしていた。視線はスマートフォンを向いてても、眼の前の光景を見逃してはいない。

「さあ、始めようか」

 耳に取り付けたヘッドセットから、Jの落ち着いた声が聞こえた。

「ああ」

 応えると、私は懐の白鞘に一度触れた。

 無機質だがどこか温かみのある手触り。まだ未使用といってよいが、私は既にこれを気に入っていた。友が、よい仕事をしてくれた。

「二分待つ。それから、下に降りる」

「了解だ。入ってから三十分。そのくらいか」

「その半分で終わらせる」

 私はスマートフォンをジャケットのポケットにしまい、手足の感覚を確認するように伸ばした。十分に動く。今日の仕事に問題はなさそうだ。

 歩道の信号が変わるタイミングを見計らい、横断歩道の前に立った。向かい側には、誰もいない。駅からはいくらか離れているが、人通りはそれなりにある。

 横断歩道を渡った。階段の前に立ち、一つ息をつく。いつも通り。なんの不安もない。

 階段を降りる。極力、足音は立てない。もっとも、足音で相手に気づかれたことなど、久しくなかった。それだけの経験は積んでいる。

 階段を降り、通路に出る。両端にはいくつかの扉があり、看板が並んでいる。

 バー。パブ。スナック。営業していた頃のものが、そのまま残されているのであろう。

 私は、ひとつの扉の前で立ち止まった。この中にだけ、人の気配がある。それに、かすかに音が聴こえる。ギターの音。間違えようがない。

 私は扉の上の看板を見やる。ライブハウス・ガイア。街の外れの小さなライブハウス。私も昔は、こういったライブハウスにはよく出かけたものだった。安い酒を飲みながら、素人の演奏にああでもない、こうでもないと、その場で出会ったやつと語り合う。

 そんなことをふと考えたが、ドアノブを握る時には消えていた。

 仕事の始まりだ。仕事が終わったら、また物思いに耽ることもあるだろう。

 私は力をかけないよう、ゆっくりとドアノブを引いた。


 初めて宿した殺意をこの胸に。

 吉田が歌い続ける様を、今永が無表情に見ていた。

 店でギターを演奏するのは毎日のことだが、ライブハウスで演奏する機会はこれまでにはなかった。それでも、観客は今永ただひとりだ。

 吉田が歌いきると、今永が拍手をした。

「いや、よかったな。おまえの演奏を初めて聴いたが、これは金を取っていいレベルだと思った」

 今永が口元に笑みを浮かべた。スキンヘッドにサングラスという格好の今永だったが、これまでの今永と比べ、どこか違っていた。屈託がなくなった。そんな感じがする。

 今永が買い取った建物の中にライブハウスがあり、営業を始めるまえに試してみようということで、楽器のできる吉田が演奏をすることになった。

「この辺には、あまりライブハウスはないからな。需要はあるだろう」

「けど、それほど大きくはないみたいですね」

「やっぱり、そう思うか。今のサイズだと、五十人くらいかな。隣の店とくっつけりゃ、百二十は入ると見込んでる。でかい会場さ。千人も入るような会場と比べちゃいけないが」

「まあ、俺の場合、でかい会場ハコといっても、高校ガッコウの学園祭くらいでしか弾いたことはないんですが。客といっても、せいぜい三十人くらいですよ」

「十分に上手かったよ、おまえは。その曲、なんとなく聴き覚えがあるな」

「『砂塵さじんの天使』って曲ですよ。十何年か前の曲ですが、結構有名なやつです」

 今永が煙草に火をつけた。吉田もギターをスタンドに立てかけると、煙草に火をつけた。

「俺は親にも世間にも、そう自慢できる人生は送っちゃいねえが、自分なりにいい人生を送ることはできてると思ってる」

 今永が煙草の煙を吐き出した。いくらか高い天井。天井に達する前に、煙は霧散していく。

「おまえにゃ、俺はどう見える。博多に巣くっているダニの親玉か」

「そんな」

 今永が低い声をあげて笑った。やはり、これまでの今永とは、どこか違う気がする。

「俺もまあ、そんな認識なんだよ。ちょっとばかり喧嘩が強いから、いろいろ手に入れてきたものがある。けど、所詮はただの雑魚なんだと思う」

 吉田はなにも言わず、煙草の灰を落とした。吉田が飲んでいた空き缶を、灰皿代わりにした。

「だからこそ、手に入れたものは大事にしたいんだ。それは金だったり、仲間だったりな」

「仲間」

「言い方が悪いかもしれないが、手下だったり、部下だったり。それでも、俺には大切なものなんだよ」

「手下って言われるほうが、俺にはあってる気がしますよ」

 今永がまた、笑みを浮かべた。それは悪いものではなかった。

 今永の後ろ。入り口の扉が、ゆっくりと開くのが見えた。今永が他に誰かを呼んでいたのか。吉田が少し考える間に、開いた扉から黒い影のようなものが入ってくるのが見えた。


 ただ、気になった。

 それだけのことだと思う。それが友利にとっては見過ごせないものだった。

 福岡駅から、いくらか西に歩いた道。コンビニエンスストアの灰皿で、リトルシガーを吸っていた。

 隣にいた男。スマートフォンを操作しているようだったが、それは振りだけのように思えた。

 上下の黒の装束とは不釣り合いな銀色のまじる髪。いや、白髪だろう。四十代、五十代くらいに見える。

 刑事の勘。そんなものを身に着けられたとは思っていないが、友利にとってやはり見過ごすことのできない何かがあった。

 中洲なかす警察署の刑事課に資料を渡す用事があり、これから城南警察署に戻る途中、灰皿を見つけてつい立ち寄った。

 風の強い日だった。リトルシガーの燃焼がいつもより早い。元々、普通の煙草よりも燃焼が早いが、風の強さがさらに燃焼を早める。

 フィルターに火が移る前に、友利は火を消した。

 男はスマートフォンをしまうと、横断歩道の向こう側へと歩いていった。

 友利が歩き出すと、横断歩道の信号が点滅を始め、すぐに赤信号になった。既に横断歩道を渡りきっていた男は、ビルの外側にある、地下への階段を降りていった。

 眼の前を何台もの車が通り過ぎていく。車の通りは少なくない。

 車道の信号が、黄、赤と変わる。遅れて、歩道の信号が青となった。

 友利はゆっくりと歩を進めた。何も急ぐことはない。特に不審な様子もないが、ただ気になる男がいた。その男を、ちょっと追いかけてみようと思った。それだけのことだった。

 男の後を追い、階段を降りていく。尾行に関しては、いくらか心得があった。刑事課に異動になったときに研修で学んでいた。この平和な署にいる間に使う機会はないだろうと思っていたが、思わぬ機会が訪れた。

 地下に降り、いくつかの扉が並ぶ通りに出たところで、ひとつの扉がゆっくりと閉じていくのが見えた。

 あそこか。早足で近づいていく。

 近づき、扉が閉じた瞬間、短い叫び声が聞こえた。

 不意に友利は壁に背を寄せた。ただ事ではない。部屋の防音設備が効いているのか、いくらか小さくなった声を聞いたのは、自分だけだろうと思った。

 懐に手を入れる。入っているのは警察手帳だけだった。拳銃など携帯していない。

 一通りの逮捕術は学んでいるが、相手が得物を手にしていたなら心もとない。

 それでも、自分は警察官なのだ。見過ごすことのできないなにかが、この扉の先にある。

 ドアノブに手をかける。

「動くな」

 精一杯の声を張り上げ、扉を開いた。

 視線の先。うつ伏せに倒れた二人の男。その奥。こちらに背を向け、照明を受けて立ちつくす影。

 影がゆっくりと、こちらを向いた。

 先程の男だった。右手に光の鈍いナイフを握りしめている。倒れている男を切りつけたのだろうが、血の滴りは見えない。

 男の顔を見つめた。いかなる感情も感じとることができない表情。その表情が、どこか友利にふれてくるものがある。

 友利は一歩踏み出した。男もまた、一歩踏み出す。ナイフを持った男の制圧。たやすいことではない。

 男がナイフを構えた。互いの距離は十歩ほど。まだ、距離がある。

 男の口元がゆるんだ。笑ったのだと、友利は思った。やはり、友利の心になにががふれる。なんなのだ、これは。友利は思考を振りきるように、重心を落とした。

 初めて宿した殺意をこの胸に。

 不意に脳内に歌が響き渡った。幾度も聴き返した歌。

 なぜ、歌が聞こえるのか。その歌は止まらない。

 悲しみを蹴り上げ辺獄リンボ、ここは血塗られた世界。ブラッディーゾーン

 男が迫ってくる。飛ぶように、一気に距離を詰め、ナイフが友利の首を狙う。男のひとつひとつの動きを、はっきりと見定めることができた。しかし、身体は反応できない。

 男の顔がはっきりと見えた。響き渡る歌。この男は。

 男の口が動いた。なにかを口走ったのか。その言葉は、友利の耳には届かなかった。


 階段を登り終えると、壁際に身を潜め私はスーツを整えた。

 さほど苦労する仕事ではなかったが、それでも動き回るといくらかの乱れは出るものだ。仕事の後は極力目立たないように心がけている。

 スマートフォンのカメラで自分の顔を確認する。返り血など浴びてはいなかった。

 しわを伸ばし、手ぐしで髪もいくらか整えると、路地の奥に停まっている愛車を見つけた。

 Jが笑みを浮かべ、こちらを見ていた。私は苦笑しながら助手席にすべり込んだ。

「女を待ちわびる、若い坊やかと思ったぞ。期待に胸をふくらませたような」

「男として、その姿勢は生涯忘れたくはないな」

 Jが煙草に火を着けると、私にも差し出した。私も一本抜くと、Jのライターから火を取る。灰皿には、いくらか吸い殻が入っていた。

「それで首尾は、J?」

「ああ、いい感じだ、J。と言いたいところだが、失敗しくったな」

「一応聞いてはいたが、余計な死人が出たか。まあ、仕事の上では許容範囲ではあるが」

「俺もヤキが回ったか。尾行つけられたみたいだ。油断してたわけじゃないが、もう何十年もやってる。さすがに慣れが出てきたか。気をつけなきゃならんと思うよ」

「で、誰だったんだ、そいつは?」

警察サツだ。懐に手帳を持ってた」

「おいおい警察殺しか。仕事がやりにくくなるな、博多じゃ」

「警察なんて、これまで何人コロシたか覚えちゃいないよ」

「俺の知ってる限りじゃ、意図してやっちゃいないと思ってるがな」

 Jがエンジンをかけると、路地から車を出した。眼の前の信号がちょうど赤に変わった。

「どうする、ホテルに帰るか?」

「その前にどこかコンビニに入ってくれ」

「なんだ、トイレか。それとも、酒でも買って乾杯か?」

「乾杯。まあそれもいいが、アルコールじゃない。最近、エナジードリンクってのにはまってな。買いにいきたいんだ」

「俺にはよくわからんが、うまいのか、あれ」

「まあ、気に入ってるよ。覚醒できるような気がする」

「帰ったらもう、寝るだけじゃないのか。明日からまた別の仕事もあるだろ」

「いや、ちょっと曲を作りたい気分になったんだ。夜だけど、少し眼を醒ましておきたい」

「まあ、そっちの仕事に関しちゃ俺は首を突っ込まんよ。川村だったか。あの坊やに任せておくよ」

 信号が青に変わり、Jが車を発進させた。博多の街中ともなるとあちらこちらにコンビニエンスストアがあるが、駐車場のある店はそう多くない。Jは路上駐車を好まない。法を犯すようなことを平気でやるが、そんなこだわりもある男だ。

「コロシの話に戻るけどな」

「なんだ?」

「今日の仕事のとき、音楽を聴いていたんだ」

「何の?」

「俺のだ」

「あ?」

「俺の作った、俺のための曲。聞こえたんだ」

 Jが右手だけでハンドルを切ると、左手で煙草を取った。ひとつ、大きく吸い込んだ。

「音楽を聴きながら、人を殺していたのか。それとも、歌いながら人を殺してたのか。どっちも、あまりいい趣味とは言えないんじゃないか」

 私は頭を振った。

「脳内に響き渡る、と言えばいいのかな。別に歌ってたわけじゃない。ただ聞こえた、そんな感じだ」

「へえ。歌う方も別の仕事だろうが、これまでにもあったのか、そんなことは」

「記憶の中じゃ無いな。歌いながらコロシをするのは、不気味なものじゃないか」

「俺としちゃ、仕事の上で支障がなきゃ気にしないよ」

「俺としても、ちょっと気になっただけだ」

 私はくわえていた煙草を、灰皿に押し込んだ。喉が乾いてきた。

「それって、ターゲットの連中にも聞こえてたのかな」

「知らんよ。聴こえていたなら、逆に気味が悪い」

「いや、それは面白いかもな」

「何が」

「ターゲットにされた奴らは、どこからともなく曲が聞こえてくる。誰でも知ってる有名な曲。それを聴き終えたとき、そいつの命は尽きる。どうだ?」

「どうだ、って言われてもな」

「ちょっと広めてみよう」

「また変な都市伝説を流すのか。この前まではJ・M・Gだったか。なんだったんだ、あれ。音楽業界にまで広がってたぞ」

 Jが低い声で笑った。

「俺にとっちゃ、そういう伝説みたいのがある方が仕事がやりやすくてな。そっちの仕事にゃ、そんなに影響はないだろう」

「そんなにというか、まあ、まったく無いんじゃないかな」

「そうだな、シンガーソング・殺し屋。いや、おまえに合わせると、シング・ア・ソング・コロシヤか。素敵じゃないか、そっちの方が。そうしろよ」

「ああ、考えておこう」

 私は苦笑した。

「会心の出来だろうよ」

 こういったことを、Jは面白がる傾向にあった。それは私にとっていやなものではなかった。最近では、私も楽しめるようになってきた気がする。

「本業は終わったが、もうひとつの仕事はこれからだ。」

「四日はこっちにいるつもりだ、俺は。あのタワーマンションの件で、ちょっとやっておくこともある」

「じゃあ、戻りも俺の方が先かな。大切にあつかってくれよ、こいつ」

 私は車の扉を叩いた。この前も、同じようなことを言った気がした。

「ちゃんと綺麗にして返すさ」

 片側が二車線のいくらか広い通りに出た。街の外れなのか、車の多さの割に人通りは少ない。真上を高速道路が通っているようで、町並みもいくらか暗い。

「そこに入ろう」

 Jがウインカーを点けた。駐車場のいくらか広いコンビニエンスストアだ。

「俺も何か買おうかな」

 車を駐車場に止め、Jが先に扉を開いた。続いて私も車を降りた。

「酒は止めておけよ」

「俺にとっちゃ問題ないが、コーヒーにしておくよ。乾杯するか」

「そうだな」

 昨日、酒を飲み、それを今日の死者への献杯としていたことを思い出した。献杯も乾杯も祝杯も、ただ心の持ちようなのだろう。そう気になることでもなかった。

 後手で車の扉を閉めると、何度も聞いた心地よい音が鳴った。

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