第8話 献杯
眼の前のグラスに注がれるウイスキーを、私はただ眺めていた。
なんとなくウイスキーを頼んだが、これといって酒にこだわりはない。その時の気分だったり、飲む相手に合わせたり、どんな酒でも楽しむことができる。
Jは私のグラスにウイスキーを注ぎ終わると、自身のグラスにも同じように注いだ。テーブルに置かれた二つのグラス。Jのグラスには、私のグラスよりもいくらか多く氷が入れられていた。以前私が、薄い酒の方が好みなのかと問うと、Jは暑がりだから冷えているほうがいいのだと答えた。
実際酒に弱いというわけではなく、度数の高いウオッカを冷凍庫で冷やし、生のまま飲んでいたこともあった。
互いに特にグラスを重ねるでもなく、先に私がグラスに口をつける。少し遅れ、Jも口に運んだ。
グラスを持ち、窓際に立つと私はカーテンを開けた。
ベランダの奥。ただ黒いなにかが、そこにあった。夜の海が見えるということはわかっていたが、それが海だとは思えなかった。吸い込まれそうな闇。それでも眼が慣れると、空と海との境目がぼやけて見えてきた。
「夜景を楽しむ、って部屋ではないな」
またひとつ酒を口に含むと、私は低い笑い声をあげた。
「昼間は、いい景色らしい。博多湾を一望だからな」
「そこに、夜呼び出すとはな」
Jもまた、低い声で笑った。
博多湾に面した、タワーマンションの一室だった。博多での拠点を探す中で、Jが借りてきたものだ。借りてきたということだったので、博多に知り合いでもいるのかと思ったが、賃貸で借りてきたのだとJは言った。
遊んでいても暮らしていけるだけの金を稼いでいるJにとっては、たいした出費ではないだろうが、私には必要なものとは思えなかった。それでも、Jのすることなら間違いはないという気もする。
私はテーブルに戻り腰を下ろすと、Jと向き合った。
「資料は読んだな」
「ああ、問題ない」
Jは資料の束をテーブルに放った。私は既にデータで受け取っているが、Jは別に資料を用意していたらしい。最近はネットワークでデータをやり取りすることが増えたが、昔はそんなものは無かった。せいぜいワープロを使って資料を作成していたくらいだった。
「おまえにとっては、今回も楽な仕事かな」
「雑魚だろうと達人だろうが、楽なことはないさ。どんな獲物だろうと、やり方は変わらない」
「今回の獲物は、どっちかな」
「おまえの資料の感じだと、そこそこの雑魚かな」
Jが自分のグラスに酒を注いだ。
「博多じゃ、ちょっとは名を知られてる奴らしいが」
「ただのチンピラだろう。まあ、写真で見た感じでしか判断できんが、資料を読んでも特別なものは感じない」
「そうだ。ちょっと風貌が変わってたな」
「風貌?」
Jが胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「その写真は依頼人からもらったものだから、少し古い。最近じゃなんというのか知らんが、リーゼントみたいな髪だろう。それが、すっぱりとなくなってる」
「なくなったって、なんだ。なんか反省でもして、刈り上げちまったってか?」
「刈り上げるというか、剃り上げるだな。スキンヘッドってやつだ」
Jが額をなであげる素振りを見せた。私よりも年長だが、歳のわりにJの髪は黒々としていた。私の髪は、白いものが目立つようになってきている。
「へえ、それもまあチンピラっぽいスタイルだろうか。どんな心境の変化かね」
「気になるか?こういう変化は」
狩ろうとしていた獲物の唐突な変化。少なからず、影響はあるという気がする。
「情報として、把握はしておく。ただ、気にしすぎない方がいいな。大勢は変わらん」
Jが肩を竦めた。
「雑魚が突然ある日、達人に変わることはないか」
「そんなこともあるかもしれない。これまでになかった、なにかに目覚める。ただ、俺はそんな経験をしたことも、そんな相手に会ったこともない」
「なにかを積み上げてきたものの言葉かな、それは」
私は答えず、グラスの酒を飲み干した。
「それじゃ、手筈について話しておくか」
Jが酒瓶を掴むと、私がテーブルの上に置いたグラスに酒を注いでいく。
「獲物は明日の夜、新しく自分のものになった店を見に行く。福岡駅から徒歩圏内、歩いて十分から十五分ってとこか。建物まるごとそいつの所有だ。今後、改装予定があるが、今はテナントは入っていない。つまり、無人。好機だろう」
「毎度のことながら、たいしたもんだ。楽な仕事じゃあるまい」
Jが頭をふる。
「いや、そうでもないんだ。最近は、ケータイに自分のスケジュールを入れて管理するやつが多い。ネットワーク上に保存されるようなものをな。それを覗いてきただけだ。それがわかれば、関連する情報はいくらでも調べられる」
「おまえみたいなやつがいると思うと、気軽にネットってのを使えなくなるな」
「安全なものだと、信用しすぎないことだ。それは、ネットに限らないだろう」
私は一口酒を呷り、息をついた。
「話がそれたな。それで、獲物が網に入ったところで仕留めればいいのか。それなら、人眼につかないよう、済ませることができる」
「ただ、獲物がひとりで来ることはないと思う。あまりひとりでは動かんようだ。もうひとりか、二人は来るかもしれない」
「護衛か?」
先日の東京での仕事の時も、獲物はひとりではなかった。
「取り巻きというか、手下だな。獲物よりも腕は下だろう。チンピラの域を出ることはない。仕事をする時、いくらか邪魔になるかもしれんが」
「依頼人からは、なんて?」
「獲物以外はこだらわない。
獲物以外の犠牲が出ることを、好まない依頼人もいる。非合法なコロシを依頼しながら面倒なことだった。今回の依頼人はやりやすい方だ。
「目撃者に対しては、なにかできるか?」
「街中だし難しいな。俺は、万が一のために車で待機することになる。とはいえ、建物の前ならともかく、無人の建物にまで入ってくるやつもいないとは思うが」
「前回もそんな感じだったな。あれもカメラを壊していたが、目撃者が出るかもしれなかった」
「あまり完璧にはしないほうがいい。そのほうが面白いだろう?」
私は頭を抱えながら、笑い声をあげた。かつて私はJにそんなことを言っていた。その思いは今も同じだった。
「俺からも確認だ。開始は明日の夜二十時。十九時半には到着する。逆算して十九時。出てこれるな」
「ああ。昼過ぎから、予定は空けてある」
「もしものための準備は、おまえの車に入れてある。今は、ここの地下駐車場の中だ。それで、仕事道具は」
「ここに」
私は懐に手を入れ、それを抜き出した。白鞘に納められた黒い刃。これまで使っていたナイフと、長さはほとんど変わらない。この仕事のために用意した一品だった。今日のトレーニングを経て、身体になじむようになっている。
「ほう、新調したのか」
「いいものだよ、これは」
私は刀身を部屋の照明に翳した。刃の黒さが際立つようだった。これから、多くの血を吸っていくことになるのか。その血が、この黒さをさらに深めることになるのか。
「よし、話は終わりだ。明日も頼むぞ、J」
私はナイフを懐に戻すと、グラスを満たした酒を一息に飲み込んだ。
明日、ひとりの男がこの博多から姿を消すことになる。この一杯が、その死に対する献杯になるのだろう。
まだ混雑する時間帯だった。十九時をいくらか過ぎているが、帰宅ラッシュといっていい混み具合である。
福岡駅の入口にある、大型スクリーンの前。友利はひとり佇んでいた。
友利にとっては、いくらか早い時間の退勤だった。普段は終業後に上林と煙草を吸いながらどうでもいいような話をしてから帰るが、今日は上林がいなかった。
帰り道、福岡駅まで来たところで何をするでもなく、この場所で立ち止まりスマートフォンを眺めていた。
スマートフォンの画面には、SNS上の無数の書き込みが並んでいる。いつもは友利もここに何らかの書き込みをするところだが、今は何も書き込む気にはならなかった。
友利は顔をあげた。駅へと至る階段。その上には、天井から広告が吊るされている。有名なアイドル歌手の、CDの広告だった。夏の終り頃から、博多の街のあちこちで広告を見るようになっていた。二曲か三曲ほど知っている歌手だったが、特別興味を持っているわけではなかった。
もともと音楽が好きな人間ではなかった。中学や高校の頃は、はやりの楽曲に疎く、周囲の会話についていけなかったこともあった。そのことも大して気にはしていなかった。そんな自分が、決して安くない金を払い音楽のライブに行くようになったのだから、ずいぶんと変わったのだと思う。
耳に着けていたイヤフォンから流れていた楽曲が止まった。胸ポケットから音楽プレイヤーを取り出し、次に再生するアルバムを探す。どのアルバムもジマングの楽曲だった。幾度となく聴いているが、聴き飽きることはなかった。
はじめてジマングの楽曲を耳にした時のことは、今でも覚えている。大学一年の頃、大学で知り合った友だちが聴いていた楽曲を教えてもらったのだ。普段なんとなく聞こえていた音楽というものが、不意に違うものになった気がした。
以来ずっと聴き続けており、玄羽ほど情熱を持ってのめり込んでいるわけではないが、友利にとってなくてはならないものになった。明後日となった、福岡でのライブも楽しみにしている。
友利は音楽プレイヤーからアルバムを選ぶと、胸ポケットへとしまった。
一曲目。イントロが流れる。鞄にスマートフォンをにしまい、小さく笑みを浮かべると友利は歩き出した。
眼の前の階段。一段飛ばしで、駆けあがっていく。特に急ぐこともないし、隣にはエスカレータもあるが、ただただ気分に高揚するものを感じていた。
アクセルを踏みこむように、駆けあがる。眼の前には誰もいない。
階段の終わり。ふと歩みを緩めると、右手で髪をかきあげるように頭を抱えた。
逃げていたのか、俺は。
誰に語りかけるでもなく、ただ心の中で友利は呟いた。
二十時になり、店の入口に鍵をかけてから控室に戻ると、太田がスマートフォンを見ながら缶コーヒーを飲んでいた。
「お疲れさまです」
「おう、お疲れ。今日も平日のわりに、繁盛してたな」
「今日もほとんど、ピックやCDを売ってたような感じでしたよ」
悠木は楽器に関する知識がまだ無いので、どういったギターを買いたいだとか、メンテナンスはどうすればいいのだとかいったことは、太田や吉田に仕事を引き継いでいる。レジ打ちに品出しに在庫確認。それが悠木の仕事だった。
太田が部屋の隅に置いてあるごみ箱に、缶を投げ入れた。先週の初めに袋を変えたばかりなので、ごみ箱にはまだ余裕があった。
「さて、レジも締めたし、明日のための準備もない。どうだ、たまには飲みに行かないか」
「店長。未成年ですよ、俺は」
太田が意外そうな顔を浮かべると、笑った。
「ああ、そうだったな。当然のように煙草を吸ってるから、忘れていたよ」
悠木は苦笑した。普段煙草を吸っている男が未成年だから酒を飲めないと言うなど、おかしなことだった。
「スポーツマンって感じはしないが、昔はサッカーをやってたんだろ。その頃から吸ってたのか?」
「今ほどじゃないにしろ、吸ってたような気がします。そりゃ、見つからないようにこっそりとしてましたが」
「それで、博多のユースか。たいしたもんだ」
「ユースじゃなくてジュニアユースですよ。中学生年代の」
「どっちにしろ、すごいことさ。福岡でサッカーをやってる奴らのトップだろう」
悠木はロッカーを開け、ペットボトルを取り出すと一口つけた。サッカーをやっていた時から飲みつづけている清涼飲料水。あまり日頃から飲むべきではないと思っているが、なかなか手放せないものになっている。
「周りにゃプロになりそうなやつもいましたけど、俺はそんなレベルじゃなかったですよ。そいつらほど、情熱もなかったのかな。だから、高校ではすっぱりとやめちまった。店長もサッカーを?」
「男のガキなら、だいたい半分は野球かサッカーをやるだろう。俺は、サッカーだったってだけさ。一応、高校まで続いていた」
「へえ、もしかしたら、俺よりも上手いかもしれないな」
「ねえよ。ずっと控えだったんだ。県大会の三回戦には負けるような高校のな。公式戦には、三試合しか出ていない。下手の横好きってやつだな」
眼の前にいる太田と、サッカーというものがどうにも結びつかなかった。ただ、印象で言えば音楽をやっているというふうにも見えない。
「そういえば、吉田は、今日明日と来ないみたいだな」
太田が、自分のロッカーから鞄を取り出しながら言った。ひとりで酒を飲むのは好きではないと言っていたので、このまま帰るのかもしれない。
「確か、何か音楽の仕事をするとか。今永さんと」
「へえ、今永が。音楽の仕事をするなら、うちもあやかれるかな」
太田と今永の関係について、悠木は気にしたことがなかった。今永が友だちだと言っていたが、それだけでいいと思っていた。
「なんだか久しぶりに、サッカーをやりたくなったな」
「駅の北側のビルの屋上に、フットサルコートがありますよ」
「久しぶりに、友達を誘ってやりにいくかな。その時は、おまえも来ないか」
「誘ってもらえるなら、ぜひ」
太田が微笑み、振り向きながら鞄を背にかけた。
悠木はペットボトルを一気に飲み干すと、いくらか距離があったが、ゴミ箱に投げた。
ペットボトルがゴミ箱に吸い込まれるのを見た太田が、口笛を吹いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます