第7話 ドーム
二つのギターの奏でる旋律が、ファンファーレのように響き渡った。
音が止まる。これだ。ジマングはピックを持ったままの右手を振り上げた。
「どうよ、ジマ?」
「いいよ、西さん。いいよ」
ジマングが答えると、西が白い歯を見せて笑った。
週末のライブに向けたリハーサルの最後の曲。朝から演奏を続けていたが、そろそろ日が沈む時間だった。
ジマングはギターをスタンドに立てかけると、テーブルの上に置いていたエネルギードリンクに口をつけた。飲み終わり、ひとつ息を吸い、顔をあげながら吐いた。
そこに空はなかった。ドームの広い天井。天井はどこまでも高い。高さは百メートルくらいあるのだろうか。ジマングは昔、野球をやっていて、肩の強さには自信があったが、ボールを真上に投げてもとても天井までは届かないだろうと思った。もっとも、プロ野球選手でもそんなことはできないかもしれない。
西がドラムスの
ジマングもアドバイスを求められることは多かったが、あまり答えられることはなかった。自分のことはよくわかるが、他人のことに関してはわからないのだ。
そのため、
ジマングはエネルギードリンクの缶を置くと、ギターを手にとった。このライブのために用意した新作だった。今日のリハーサルを経て、身体になじむようになっている。長年使い続けているギターには愛着があるが、新しいギターを使ってみるのもいいものだった。
「ジマ」
ジマングがギターをいじっていると、西が声をかけてきた。
「隅やみんなとも話したんだが、どの曲もほぼ完璧だ。ただ、何曲か気になるところがあった。もう少し、やれないかな。時間はまだあるだろう」
「そうだな」
ジマングは少し考えると、もう一度ギターを立てかけた。
「一旦休憩を入れて、もう三十分ほどやろうか」
「おう。先になにをやるか決めておこう」
西もギターをスタンドに立てかけた。
「西さんはどれを?」
「俺は、『ジェイ・ライブ』かな。最初のギターが入るところから、どうも引っかかる感じがある。隅、君はどうだ?」
「僕ですか?」
隅は自分が意見を求められるとは思っていなかったようで、少し動揺しているように見えた。
「気になることがあるなら、言っておいた方がいいぞ。リハってのは、そういうもんだ」
西が言った。やはり、若いミュージシャンを育てようとしているのかもしれない。自分の演奏について考えることは、ミュージシャンとしての経験に繋がるものだ。今回のライブで隅を起用したのも、西の推薦によるものが大きかった。
「ええと、そうですね。個人的には『アカネ・レイディオ』をもう一度やりたいです。サビの前のところ、僕のドラムの終わりが、ジマングさんのボーカルにかぶっている気がするんです」
「ほう」
それはジマングもいくらか気にしていたところだった。まだ若いのに、いい理解をしている。西が気をかけるのもわかる気がした。西は眼を細め、笑みを浮かべていた。
「俺は、『ロメオ』をやりたいっす。最初のメロのとこ、ちょっとベースが走ったかな。もう一回やればたぶんドラムとうまく合わせられる」
ベースの
「俺は『
その後もみな、それぞれの意見を出し合った。西の言った通り、リハーサルの段階で問題点が出てくるのは悪いことではない。ジマングは椅子に腰掛けながら、意見に耳を傾けていた。
「よし、『ジェイ・ライブ』『アカネ・レイディオ』『ロメオ』の三曲か。三十分休憩して、その後やるぞ」
ジマングは立ち上がると、ステージを降りて控室に向かうことにした。他のメンバーも、みな控室に引き上げるようだった。
ドームの通路を進み、エレベータに乗り、また通路を進む。やや遠い部屋だとされていたが、さほど気にはならなかった。野球の試合の時など、普段は
控室に入ると、川村がなにやら電話をしていた。川村はジマングが来たことに気づくと、電話を止め、こちらに向き直った。
「お疲れさまです、ジマさん。SONIAさんからお電話ですよ」
「
「ちょうど今着信があったところなんですが、ジマさんに用事だそうです。出ますか?」
「ああ」
ジマングは川村から電話を受け取り、椅子に腰掛けた。ジマングの業務用の携帯電話。演奏中など、ほとんどの時間は川村に預けてある。
「もしもし、俺だ」
「あっ、父ちゃん?」
麻里依の声。電話越しでもわかる、きれいな声だった。
麻里依は、SONIAという芸名で、アイドル歌手のようなことをやっている。ジマングとの血縁はなかったが、二十年近く面倒を見ていることもあり、ジマングのことを父ちゃん、と呼んでいた。どうにも照れくさいので、以前はたびたび訂正していたが、もう指摘することもなくなっていた。
「リハの最中だ。いや、もうすぐ終わるが、急用か?」
「土産頼むの忘れてたからさ。何ていったかな。あのまんじゅうみたいな、博多の土産。前に誰だったかな、友だちが修学旅行のときに買ってきてくれて。あれ、食べたくなった。買ってきてよ」
「それで」
「ああ、一箱でいいよ。二十個だと多すぎるけど、十個だと少ないかな。その間くらいのやつで」
「それだけか、おい」
「ちゃんと電話しておかないと。メールとかだと、見てなかった、って言われるかもしれないじゃん。この前もいつだったか、そんなことあったし」
そんなことが、あったような気もする。それでも麻里依には、遠征の度にいつもなんらかの土産を買っていた。
「俺が買うのは、前提なのか」
「父ちゃんは買ってきてくれるよ。そういう人なんだ。いつも、ありがたく思ってるよ」
ジマングは苦笑した。こんなふうに言われると、買って帰らないわけにはいかない。
「にしても、ドームかあ。あたしもいつか、ドームでライブやってみたいな。あの何万人も入るようなとこで」
「まだ早いよ。精進しろ」
「そうだ。あと、経費使いすぎって、経理の
事務所の経理を担当している根占は、入ってまだ二年ほどだが、ジマングにも臆することなく意見を言ってくる。ジマングとしても、その方がやりやすかった。
「おう、気遣いありがとうな」
「じゃね」
電話が切れた。風のような、嵐のような電話だと、ジマングは思った。
「SONIAさん、なんの用事でした?」
「土産を頼まれた。それから、あいつもドームでライブをやりたいらしい」
「ああ、土産ですか。やっぱり」
「やっぱりってのは?」
「北海道のドームライブの時、頼んだ土産買ってこなかったって言ってたじゃないですか。レーズンが入ったクッキーのお菓子」
「あぁ、それだ。いや、あったな」
「本気で怒っちゃいないでしょうけど、しばらくはなんだかんだ言われたでしょう」
「結局、俺が買ってきた土産は、ひとりで全部食べたみたいだけどな」
「そういうところは、普通の女の子なんですけどね」
「少し食い意地が張ってるけどな」
ジマングは携帯電話を川村に返した。
「ドームか。単独でやるとしたら、まだまだだろう」
「決して夢ではないでしょう。現状ではまだ技術的な
「あいつがいれば、そろそろ俺が仕事しなくてもやっていけるんじゃないか」
「楽を考えちゃいけませんよ。うちの事務所には、ジマさんとSONIAさんしかいません。それに、音楽活動以外にも社長としても業務があるんだから。まあ社長の業務といっても、SONIAさんが問題なくやっていけるように、睨みでも効かせておいて頂ければと」
「わかってるさ。変なことはさせんよ」
川村が携帯電話をスーツの胸ポケットにしまった。何気ない仕草だが、スーツ姿が板についているとジマングは思った。
「ジマさんの方は、休憩ですか?さっきまで、ラストの曲をやってたみたいですが」
部屋の中にあるモニターには、ステージの様子が映し出されていた。ここからでも、様子はわかるらしい。
「ああ、あと何曲かやって終わりにする。もう行こう。俺もがんばらなくちゃって気になったよ」
「SONIAさんに頼まれてた土産、僕が買っておきましょうか?」
「いや、帰る日に買おう。帰りは飛行機だが、空港に売ってるだろう。俺に買わせてくれ」
「そうですか。忘れないように、気をつけてくださいよ」
「忘れたとしても、麻里依が俺を恨む、俺も少し反省をする。それだけのことだ」
川村が乾いた笑い声を出した。ジマングは立ち上がり、控室を出た。
ステージに戻ると、既に西が来ていた。ギターでなにやらフレーズを弾いている。
「早いな、ジマ。まだ休憩時間だろ?」
「ああ、ちょっとやる気が出てきてな」
「俺もまあ、煙草を一本吸っただけで戻ってきたよ。こいつと一緒にいないと、どうにも落ち着かない。暇さえあれば、ついいじっちまう。もう病気かな、これは」
西がギターを左手で持ち上げた。西はいつでも、楽しそうにギターを弾いている。その印象は初めて会った時から変わっていない。
西はギターを持ちなおすと、再び弾き始めた。どこかアップテンポなフレーズだった。
「麻里依から電話がかかってきて、ちょっと話してたんだ」
「麻里依ちゃんか。最後に会ったのは、小学校の時だったかな。」
「よく覚えてたよ、麻里依のほうは。麻里依がピアノを弾いて、西さんと一緒に俺の楽曲のセッションをやったらしい。俺は覚えてないが」
「あったような気もするな、曖昧だが。ただ、麻里依ちゃんにどこか、音楽の閃きのようなものを感じたような記憶がある。その時かな」
「閃きか。最近、麻里依のことを羨ましく思うことがあるんだ。」
「ドーム三日間を完売させたやつが、なにを言っているんだよ」
「俺は自分の実力には、自信を持っている、だからわかるものもある。あいつは、本物だ」
「それは、おまえにとっては望ましいことだろう」
「当然だ。実の娘のように、育ててきたんだ」
「ほんとうに、おまえの子じゃないのか?」
西の声が、どこか沈んでいた。西とは長い付き合いになるが、すべてを知っているわけではなかった。
「戸籍上も、俺との繋がりはない。
「世良か。なつかしい名前だ」
西のギターの音色が、どこかゆっくりとしたものになった。先程と同じフレーズのようだが、どこか物悲しく感じた。
「俺も麻里依も、どこか複雑な事情ってやつを抱えている。それが週刊誌連中には、いい飯の種になるんだろう」
「気にしていないように見えるがな、おまえは」
「連中には好きにさせておくさ。それでファンが減っても、それは仕方ない。俺の音楽が通じなかったってだけだ。ただ、麻里依のことに関しては、俺もなにかしなきゃならんってこともあるだろう」
「達観したような考え方だな」
「俺は、自分のしたことをわかっている。それだけでいいんだ」
「そうだな。おまえは誰彼構わず子種を飛ばすようなやつだが、人の道に外れることはしない」
「人のこと言えるのかよ、西さん」
西が苦笑したようだった。西の若い頃の夜の街での武勇伝は、ひとつやふたつではなかった。業界では有名な話だったし、ジマング自身、それを察したこともあった。それでも妻帯してからは、そんな話は聞かなくなった。誠実な男だということは、ジマングにもわかっていた。
「西さん、土産は?」
「えっ」
西の奏でていたフレーズが止まった。
「土産だよ。家族になにか、買って帰るだろう」
「ああ、土産か。なんの話かと思った。博多なんで、明太子を買おうと思ってたが。他には、高菜とか」
「明太子と高菜か。いいな、酒のあてにもなる」
「おまえは、ジマ?」
「事務所に菓子を持っていこうと思ってる。最近、経費を使いすぎた、詫びってやつだな。あと、自分で食う明太子も買おうかな」
「麻里依ちゃんには?」
「菓子でも買っていくさ。覚えていたらだけどな」
西が肩をすくめた。忘れるはずがないだろう、と言っているようだった。
ステージの入口から、隅と初瀬が入ってくるのが見えた。
ジマングはギターを手に取り、一弦、二弦と音を鳴らしてみた。
異様な雰囲気だった。
アルバイトを終え、悠木が楽器店の裏口から路地に出ると、近くの自動販売機の前で男が煙草を吸っていた。剃り上げたスキンヘッドの頭に、サングラス。黒いシャツに黒のネクタイを包み込む、
ここから中洲は近いが、ホストでもこんな格好はしないだろう。普通に生きていたら、あまり関わりあいたくない人種だろうと悠木は思った。もっとも悠木にしても、自分のことをまともな人種だとは思っていない。
男と眼があったようだった。サングラスをかけているので、ほんとうに眼があったかはこちらからはわからない、男が煙草を地面に捨て、革靴でもみ消すと、悠木に向かって歩いてきた。高校にいた頃から、いろいろな恨みを買ってきたとは思っていたが、この男に見覚えはなかった。
「なにみとんじゃ、おう。くらすぞ、きさん」
男が凄んだ。小倉の言葉だとわかった。ただ、実際に耳にした記憶はほとんどなかった。そして、面識がないというのは間違いだろうとわかった。
「あの」
迷いながら、悠木は声をかけた。
「なんじゃ」
「どうしたんですか、その頭」
男が少し、ひるんだように見えた。
「なんだと」
「いや、その。イメチェンですかね、今永さん」
少し間をおいて、男が唐突に笑い声をあげた。
「いや、まさかとは思ったが」
サングラスを外しながら、男が答えた。やはり、今永だった。その眼の光は、以前と変わらないものだった。
「試すようなことをしちまったな」
「いえ、それより」
「この頭な。俺は元々格闘技をやってた時、坊主頭だったんだ。だから、こんな頭にしても、違和感ってものはないんだ」
今永が頭をなでながら言った。思いの外、今永も気に入っているのかもしれない。
「ちょいと付き合ってくれないか。なに、夜のドライブだ」
「俺でいいんですか?今永さんなら、女のひとりやふたり、声かけりゃすぐ来るでしょう」
「おまえがいいと思ったんだ。いや、変な意味じゃなくてな」
今永には何度か飲みに誘われたことはあったが、ドライブというのは初めてだった。
そして、何故自分が誘われたかというもの気になった。
「まあ、いいですよ。明日のバイトは午後からだし、今夜は暇ですから」
「ありがとな。車は向こうに止めてある」
今永が先導して歩き出した。時刻は八時を少し回ったところだ。博多では日が暮れるのが遅いが、それでも既に薄暗い。途中、何人かの通行人とすれ違ったが、誰も今永の風貌を気にした様子はなかった。悠木の思っているより、今永はこの街に溶け込んでいるのかもしれない。
たどり着いたのは、裏通りにある駐車場だった。今永の車は、もっとも手前に停めてあった。先日、吉田が運転していたものとは異なる二台目の車。光るような黒い車体の、二人乗りのオープンカーだ。
「この車に乗るのは、初めてだと思います。今永さんが女と一緒に乗ってるのは、街を歩いていて何度か見かけましたけど」
「まあ、二人乗りだからな。おまえも免許を取ったら、貸してやるよ。デートとかにはいいぞ、これは」
「そろそろ、教習所に行こうかと考えてます。もう十八になるし、今のところ金もある。あれば便利ですよね。車を買うってのは、まだ先の話になると思いますが」
今永が右側のドアを開け、車に乗り込んだ。
悠木も左側のドアから乗り込むと、車のエンジンがかかった。派手な音だった。エンジンには金をかけていると、以前今永が言っていたことを思い出した。
今永が慣れた手付きでハンドルを操る。駐車場を出ると、路地を抜け、駅前の大通りに差し掛かった。
車も人も多かったが、もう少し早い時間ならもっと混んでいるはずだった。ラッシュといわれる時間は、いくらか過ぎていた。
「そういえば、あの辺なら路上駐車しててもよさそうですけど、ちゃんと駐車場に停めてるんですね」
「あの駐車場は、俺のものなんだ。それに、
ウインカーをつけながら、今永が言った。
胸ポケットから煙草を一本取り出すと、悠木にも差し出してきた。悠木は一本受け取ると、ズボンのポケットからライターを取り出し、煙草に火をつけた。今永も自分で火をつけていた。煙草には自分で火をつけるというこだわりが、今永にはあった。
目の前の横断歩道。駅の中心からはいくらか離れているが、人の通りは少なくない。家路を急ぐであろうサラリーマンに、これから飲みに行くであろう学生。悠木は煙草をくゆらせながら、そんな通行人を眺めていた。
信号が青になった。今永はゆっくりと始動すると、次の信号の右折レーンで停まった。
「さっきのはなんだったんですか?」
「さっきの?」
「あの、なんていうのかな。北九州弁みたいな話し方ですよ」
今永が笑みを浮かべた。
「変だったかな。俺は小倉の生まれなんだけどな」
「違和感はありましたよ。使い慣れてないみたいな感じが」
「親父は使ってたな。地元にいた頃は、よく聞いていた。けど、俺らの世代になると、ほとんど使ってるやつはいなかったな」
「確かに。俺の周りでも、博多の言葉を使ってるやつは見ませんね」
「漫画やドラマの中だけか。ああいった話し方をするのは」
直進の対向車が途切れると、今永は右折して中央のレーンに進んだ。
この道は駅の南北を通る大きな通りで、今はちょうど南端から通りに入った。このまま北上すると駅の中心へ至り、その先は博多湾に面した地域となる。
駅の中心に近づくと歩行者が増えた。通りの両側の歩道には、数々の屋台が立ち並んでいる。大半がラーメンの屋台だが、おでんや焼き鳥といった屋台もある。悠木にとってはあまり興味をひくものではなかったが、いつ見てもそれなりに繁盛してそうだった。
今永の車はあっという間に駅を通りすぎると、都市高速の入口に差しかかった。博多の都市高速は博多市をぐるりと囲むように環状線があり、この辺りは円の北側だった。
「
悠木は煙草の火を消しながら言った。今永はなにも答えなかった。
今永はETCレーンを通りすぎると、そのまま左車線に入った。左車線に入ると、環状線の内回りで西側、南側と回ることになる。
なだらかなカーブを超え、本線に合流する。六十、八十。今永がスピードを上げる。この辺りは外回りの道路が内回りの真上を走っているので、対向車は見えない。
「おまえと初めて会った時のことを思い出してな」
今永がくわえていた煙草を、灰皿に置いた。
「当時、いろいろ揉めてた
「そうです。俺もよく覚えてますよ」
博多湾をまたぐ大橋に差しかかる。真上を走っていた外回りの道路が右側に移り、対向車のヘッドライトがきらきらと輝いていた。
「アイスペールに、なみなみと酒を注いだ。一本で二万の酒だったな。まさか、すべて飲み干すとは思わなかったが」
「俺も飲めるかどうか、わかりませんでした。ただ、飲まなきゃ失礼なのかなって」
「ちょっと試してみようと思っただけだよ。それで飲み干したおまえは、叫び声をあげた。あれには吉田もびびってたな。それからしばらくは仲間内で、おまえの話でもちきりだったよ」
今永が楽しそうに話していた。それでも悠木には、なぜ今永がこんな話をするのかがわからなかった。
「今永さん」
「俺も、叫びたいんだ」
ひとつ息をつき、今永が言った。
「叫ぶ?」
「身体の中に、なにか
悠木は今永のほうを向いた。今永は正面を向いたままだった。その表情からは、どのような感情も読み取れない。
「初めてだ」
「えっ」
「俺は初めて、こわいと思っちまったんだ。これまで何度か死線を潜ってきた。自分が死んじまうんじゃないかって思ったことはあったが、その時も恐怖ってもんはなかった。今回は死ぬとは思ってなかったが、ただこわいと思った」
「今永さんが、そんな」
今永の表情は変わらなかった。
今永の中で、なにかが
「そんなことをしても、どうにもならないものかもしれないけどな。ひとりで車に乗ってやればいいのかもしれない。けど、誰かに見られているほうがいい。いや、誰かに見られなければならいと思った」
道の左側、防音の壁の向こうに巨大なドームが見えてきた。
ハイオクドーム。野球場であり、イベントホールでもある。今週末はライブツアーが行なわれる。今日もアルバイト先の楽器店では、ライブツアーとタイアップしたピックが飛ぶように売れていた。店長の太田の見込みは大したものだと、悠木も感心していた。
「そうだな。あのドームに向けて、ただただ叫ぶ。この先、
今永がスピードを上げた。百二十。百四十。ドームがみるみる近づいてくる。今永が息を吸う音が聴こえた。
壁を抜けた。宵闇の中で、ドームは明々と光を放っていた。試合やイベントがないときでも、ドームはその明るさを失ってはいない。
悠木はまだ、心を決めていなかった。悠木自身、どこか淀んだような思いを抱えていた。ただ、今永を見つめている。
ドームの真横。今永が悠木のほうを向き、声をあげた。耳の奥をふるわせるような、大音声だった。悠木は胸の奥が熱くなるのを感じた。
悠木も同じように、声をあげていた。鬱々とした思い。得体のしれない男に出会ったこと。高校をやめたこと。いろいろな思いを吹き飛ばす。
車が唸りをあげた。またスピードが上がったようだ。
ドームが後方へ流されていく。今永の声は止まらなかった。悠木もまた、声を止めなかった。
やがて手前のビルに隠れ、ドームが完全に見えなくなった。悠木は声を止めた。今永の声も、少しづつ消えていった。
今永が正面を向くと、車のスピードを落としはじめた。
今永の眼。初めて出会った時と、同じ眼をしていると思った。
「すっきりしたな」
今永が灰皿をさぐる。先ほどスピードを上げた時に、煙草を吹き飛ばしてしまったようだった。今永が新しい煙草を取り出すと、ライターで火をつけた。
「ハイオクドームか。今年も、優勝できるかな」
今永が一瞬振り返り、言った。
「おまえ、野球は?」
「まあ、地元のチームを応援するくらいに、人並みには好きですよ。ただ、どちらかというとサッカーですね。中学の頃までやっていて、そこそこの選手だったと思ってます」
悠木は中学の頃、プロサッカークラブの下部組織でサッカーをやっていたが、高校年代には上がれなかった。それは素行の問題ではなく、ただ実力が不足しているのだと思った。そこでサッカーはやめてしまったが、今でもサッカーを観るのは好きだった。野球については詳しくなかったが、地元のチームというものは応援してしまうものだった。
「サッカーか。最近は、サッカーをやるやつのほうが多いみたいだな。俺の時は、野球をやってるやつのほうが多かった。俺も野球をやってたよ。高校三年までやって、せいぜい県大会の二、三回戦しかいけなかったが。それでもチームじゃ、四番を打ってたんだ」
今永が野球をやっていた頃の思い出を語りはじめた。悠木と同じく、今永もまたスポーツに情熱をかけていた。今となっては、それも思い出でしかない。ただ、忘れてはならないものだとは思う。
「いや、よかったな。この後は中洲に飲みに行こうと思ってたんだが」
今永が右手で剃り上げた頭を撫でた。このまま高速を進めば、中洲の近くまで戻ることになる。
「もう一周、行くか?」
悠木は少し考えた後、頷いた。
「よし、もう一週だ。その後は、朝まで飲もう」
今永が笑みを浮かべながら、言った。
悠木は新しい煙草に火をつけた。そろそろ冬といっていい時期だった。少し肌寒いが、そのほうが煙草がうまいという気がする。
悠木は煙草をひとつ吸い、顔をあげながら吐いた。
晴れた空だった。月といくつかの星。月は、ほとんど欠けている。
悠木は空に手を伸ばしてみた。なんとなく、月に手が届きそうな気がした。
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