第7話 ドーム

 二つのギターの奏でる旋律が、ファンファーレのように響き渡った。

 音が止まる。これだ。ジマングはピックを持ったままの右手を振り上げた。

「どうよ、ジマ?」

「いいよ、西さん。いいよ」

 ジマングが答えると、西が白い歯を見せて笑った。

 週末のライブに向けたリハーサルの最後の曲。朝から演奏を続けていたが、そろそろ日が沈む時間だった。

 ジマングはギターをスタンドに立てかけると、テーブルの上に置いていたエネルギードリンクに口をつけた。飲み終わり、ひとつ息を吸い、顔をあげながら吐いた。

 そこに空はなかった。ドームの広い天井。天井はどこまでも高い。高さは百メートルくらいあるのだろうか。ジマングは昔、野球をやっていて、肩の強さには自信があったが、ボールを真上に投げてもとても天井までは届かないだろうと思った。もっとも、プロ野球選手でもそんなことはできないかもしれない。

 西がドラムスのすみと、演奏のことで話をしていた。西はミュージシャンとして未だ現役だが、老齢の域に達しつつある。そのため後進を育てるというか、演奏に関してアドバイスを送ることも多くなっていた、それを嫌がる者もいるが、若いミュージシャンの多くはそれを歓迎しているようだった。

 ジマングもアドバイスを求められることは多かったが、あまり答えられることはなかった。自分のことはよくわかるが、他人のことに関してはわからないのだ。

 そのため、こうのミュージシャンだとか、一匹狼だとかいった評価をされることもあったが、答えられるものなら答えたかった。自分をおびやかすようなミュージシャンを育てるというのは、悪いものではないだろう。それはミュージシャンとしての歓びといってもいい。

 ジマングはエネルギードリンクの缶を置くと、ギターを手にとった。このライブのために用意した新作だった。今日のリハーサルを経て、身体になじむようになっている。長年使い続けているギターには愛着があるが、新しいギターを使ってみるのもいいものだった。

「ジマ」

 ジマングがギターをいじっていると、西が声をかけてきた。

「隅やみんなとも話したんだが、どの曲もほぼ完璧だ。ただ、何曲か気になるところがあった。もう少し、やれないかな。時間はまだあるだろう」

「そうだな」

 ジマングは少し考えると、もう一度ギターを立てかけた。

「一旦休憩を入れて、もう三十分ほどやろうか」

「おう。先になにをやるか決めておこう」

 西もギターをスタンドに立てかけた。

「西さんはどれを?」

「俺は、『ジェイ・ライブ』かな。最初のギターが入るところから、どうも引っかかる感じがある。隅、君はどうだ?」

「僕ですか?」

 隅は自分が意見を求められるとは思っていなかったようで、少し動揺しているように見えた。

「気になることがあるなら、言っておいた方がいいぞ。リハってのは、そういうもんだ」

 西が言った。やはり、若いミュージシャンを育てようとしているのかもしれない。自分の演奏について考えることは、ミュージシャンとしての経験に繋がるものだ。今回のライブで隅を起用したのも、西の推薦によるものが大きかった。

「ええと、そうですね。個人的には『アカネ・レイディオ』をもう一度やりたいです。サビの前のところ、僕のドラムの終わりが、ジマングさんのボーカルにかぶっている気がするんです」

「ほう」

 それはジマングもいくらか気にしていたところだった。まだ若いのに、いい理解をしている。西が気をかけるのもわかる気がした。西は眼を細め、笑みを浮かべていた。

「俺は、『ロメオ』をやりたいっす。最初のメロのとこ、ちょっとベースが走ったかな。もう一回やればたぶんドラムとうまく合わせられる」

 ベースのが手を上げながら言った。ミュージシャンとしては中堅で、SONIAのバックバンドを務めたこともあった。これまでのジマングのライブでも、何度か手伝ってもらったことがあった。そのためジマングには慣れているのか、口調がいくらかくだけていた。

「俺は『えいゆうたん』をやりたいんだよな。ただ、俺が歌っておきたいってだけだが。演奏を考えると、『タカラカニキミヘ』と『レッツ・ドライビン』かな」

 その後もみな、それぞれの意見を出し合った。西の言った通り、リハーサルの段階で問題点が出てくるのは悪いことではない。ジマングは椅子に腰掛けながら、意見に耳を傾けていた。

「よし、『ジェイ・ライブ』『アカネ・レイディオ』『ロメオ』の三曲か。三十分休憩して、その後やるぞ」

 ジマングは立ち上がると、ステージを降りて控室に向かうことにした。他のメンバーも、みな控室に引き上げるようだった。

 ドームの通路を進み、エレベータに乗り、また通路を進む。やや遠い部屋だとされていたが、さほど気にはならなかった。野球の試合の時など、普段はひんしつとして使われる部屋だと聞いていた。

 控室に入ると、川村がなにやら電話をしていた。川村はジマングが来たことに気づくと、電話を止め、こちらに向き直った。

「お疲れさまです、ジマさん。SONIAさんからお電話ですよ」

が?」

「ちょうど今着信があったところなんですが、ジマさんに用事だそうです。出ますか?」

「ああ」

 ジマングは川村から電話を受け取り、椅子に腰掛けた。ジマングの業務用の携帯電話。演奏中など、ほとんどの時間は川村に預けてある。

「もしもし、俺だ」

「あっ、父ちゃん?」

 麻里依の声。電話越しでもわかる、きれいな声だった。

 麻里依は、SONIAという芸名で、アイドル歌手のようなことをやっている。ジマングとの血縁はなかったが、二十年近く面倒を見ていることもあり、ジマングのことを父ちゃん、と呼んでいた。どうにも照れくさいので、以前はたびたび訂正していたが、もう指摘することもなくなっていた。

「リハの最中だ。いや、もうすぐ終わるが、急用か?」

「土産頼むの忘れてたからさ。何ていったかな。あのまんじゅうみたいな、博多の土産。前に誰だったかな、友だちが修学旅行のときに買ってきてくれて。あれ、食べたくなった。買ってきてよ」

「それで」

「ああ、一箱でいいよ。二十個だと多すぎるけど、十個だと少ないかな。その間くらいのやつで」

「それだけか、おい」

「ちゃんと電話しておかないと。メールとかだと、見てなかった、って言われるかもしれないじゃん。この前もいつだったか、そんなことあったし」

 そんなことが、あったような気もする。それでも麻里依には、遠征の度にいつもなんらかの土産を買っていた。

「俺が買うのは、前提なのか」

「父ちゃんは買ってきてくれるよ。そういう人なんだ。いつも、ありがたく思ってるよ」

 ジマングは苦笑した。こんなふうに言われると、買って帰らないわけにはいかない。

「にしても、ドームかあ。あたしもいつか、ドームでライブやってみたいな。あの何万人も入るようなとこで」

「まだ早いよ。精進しろ」

「そうだ。あと、経費使いすぎって、経理のじめちゃんが愚痴ってた。こっちに帰ってきたら、ちゃんとフォローしといたほうがいいんじゃないかな」

 事務所の経理を担当している根占は、入ってまだ二年ほどだが、ジマングにも臆することなく意見を言ってくる。ジマングとしても、その方がやりやすかった。

「おう、気遣いありがとうな」

「じゃね」

 電話が切れた。風のような、嵐のような電話だと、ジマングは思った。

「SONIAさん、なんの用事でした?」

「土産を頼まれた。それから、あいつもドームでライブをやりたいらしい」

「ああ、土産ですか。やっぱり」

「やっぱりってのは?」

「北海道のドームライブの時、頼んだ土産買ってこなかったって言ってたじゃないですか。レーズンが入ったクッキーのお菓子」

「あぁ、それだ。いや、あったな」

「本気で怒っちゃいないでしょうけど、しばらくはなんだかんだ言われたでしょう」

「結局、俺が買ってきた土産は、ひとりで全部食べたみたいだけどな」

「そういうところは、普通の女の子なんですけどね」

「少し食い意地が張ってるけどな」

 ジマングは携帯電話を川村に返した。

「ドームか。単独でやるとしたら、まだまだだろう」

「決して夢ではないでしょう。現状ではまだ技術的なつたなさがありますが、この前の新曲も評判は上々ですし、なにより本人が熱心です。日々成長しているのを感じるとは、担当マネの摂津さんも言ってました」

「あいつがいれば、そろそろ俺が仕事しなくてもやっていけるんじゃないか」

「楽を考えちゃいけませんよ。うちの事務所には、ジマさんとSONIAさんしかいません。それに、音楽活動以外にも社長としても業務があるんだから。まあ社長の業務といっても、SONIAさんが問題なくやっていけるように、睨みでも効かせておいて頂ければと」

「わかってるさ。変なことはさせんよ」

 川村が携帯電話をスーツの胸ポケットにしまった。何気ない仕草だが、スーツ姿が板についているとジマングは思った。

「ジマさんの方は、休憩ですか?さっきまで、ラストの曲をやってたみたいですが」

 部屋の中にあるモニターには、ステージの様子が映し出されていた。ここからでも、様子はわかるらしい。

「ああ、あと何曲かやって終わりにする。もう行こう。俺もがんばらなくちゃって気になったよ」

「SONIAさんに頼まれてた土産、僕が買っておきましょうか?」

「いや、帰る日に買おう。帰りは飛行機だが、空港に売ってるだろう。俺に買わせてくれ」

「そうですか。忘れないように、気をつけてくださいよ」

「忘れたとしても、麻里依が俺を恨む、俺も少し反省をする。それだけのことだ」

 川村が乾いた笑い声を出した。ジマングは立ち上がり、控室を出た。

 ステージに戻ると、既に西が来ていた。ギターでなにやらフレーズを弾いている。

「早いな、ジマ。まだ休憩時間だろ?」

「ああ、ちょっとやる気が出てきてな」

「俺もまあ、煙草を一本吸っただけで戻ってきたよ。こいつと一緒にいないと、どうにも落ち着かない。暇さえあれば、ついいじっちまう。もう病気かな、これは」

 西がギターを左手で持ち上げた。西はいつでも、楽しそうにギターを弾いている。その印象は初めて会った時から変わっていない。

 西はギターを持ちなおすと、再び弾き始めた。どこかアップテンポなフレーズだった。

「麻里依から電話がかかってきて、ちょっと話してたんだ」

「麻里依ちゃんか。最後に会ったのは、小学校の時だったかな。」

「よく覚えてたよ、麻里依のほうは。麻里依がピアノを弾いて、西さんと一緒に俺の楽曲のセッションをやったらしい。俺は覚えてないが」

「あったような気もするな、曖昧だが。ただ、麻里依ちゃんにどこか、音楽の閃きのようなものを感じたような記憶がある。その時かな」

「閃きか。最近、麻里依のことを羨ましく思うことがあるんだ。」

「ドーム三日間を完売させたやつが、なにを言っているんだよ」

「俺は自分の実力には、自信を持っている、だからわかるものもある。あいつは、本物だ」

「それは、おまえにとっては望ましいことだろう」

「当然だ。実の娘のように、育ててきたんだ」

「ほんとうに、おまえの子じゃないのか?」

 西の声が、どこか沈んでいた。西とは長い付き合いになるが、すべてを知っているわけではなかった。

「戸籍上も、俺との繋がりはない。の娘だというのは確実だが」

「世良か。なつかしい名前だ」

 西のギターの音色が、どこかゆっくりとしたものになった。先程と同じフレーズのようだが、どこか物悲しく感じた。

「俺も麻里依も、どこか複雑な事情ってやつを抱えている。それが週刊誌連中には、いい飯の種になるんだろう」

「気にしていないように見えるがな、おまえは」

「連中には好きにさせておくさ。それでファンが減っても、それは仕方ない。俺の音楽が通じなかったってだけだ。ただ、麻里依のことに関しては、俺もなにかしなきゃならんってこともあるだろう」

「達観したような考え方だな」

「俺は、自分のしたことをわかっている。それだけでいいんだ」

「そうだな。おまえは誰彼構わず子種を飛ばすようなやつだが、人の道に外れることはしない」

「人のこと言えるのかよ、西さん」

 西が苦笑したようだった。西の若い頃の夜の街での武勇伝は、ひとつやふたつではなかった。業界では有名な話だったし、ジマング自身、それを察したこともあった。それでも妻帯してからは、そんな話は聞かなくなった。誠実な男だということは、ジマングにもわかっていた。

「西さん、土産は?」

「えっ」

 西の奏でていたフレーズが止まった。

「土産だよ。家族になにか、買って帰るだろう」

「ああ、土産か。なんの話かと思った。博多なんで、明太子を買おうと思ってたが。他には、高菜とか」

「明太子と高菜か。いいな、酒のあてにもなる」

「おまえは、ジマ?」

「事務所に菓子を持っていこうと思ってる。最近、経費を使いすぎた、詫びってやつだな。あと、自分で食う明太子も買おうかな」

「麻里依ちゃんには?」

「菓子でも買っていくさ。覚えていたらだけどな」

 西が肩をすくめた。忘れるはずがないだろう、と言っているようだった。

 ステージの入口から、隅と初瀬が入ってくるのが見えた。

 ジマングはギターを手に取り、一弦、二弦と音を鳴らしてみた。


 異様な雰囲気だった。

 アルバイトを終え、悠木が楽器店の裏口から路地に出ると、近くの自動販売機の前で男が煙草を吸っていた。剃り上げたスキンヘッドの頭に、サングラス。黒いシャツに黒のネクタイを包み込む、えん色のスーツ上下。

 ここから中洲は近いが、ホストでもこんな格好はしないだろう。普通に生きていたら、あまり関わりあいたくない人種だろうと悠木は思った。もっとも悠木にしても、自分のことをまともな人種だとは思っていない。

 男と眼があったようだった。サングラスをかけているので、ほんとうに眼があったかはこちらからはわからない、男が煙草を地面に捨て、革靴でもみ消すと、悠木に向かって歩いてきた。高校にいた頃から、いろいろな恨みを買ってきたとは思っていたが、この男に見覚えはなかった。

「なにみとんじゃ、おう。くらすぞ、きさん」

 男が凄んだ。小倉の言葉だとわかった。ただ、実際に耳にした記憶はほとんどなかった。そして、面識がないというのは間違いだろうとわかった。

「あの」

 迷いながら、悠木は声をかけた。

「なんじゃ」

「どうしたんですか、その頭」

 男が少し、ひるんだように見えた。

「なんだと」

「いや、その。イメチェンですかね、今永さん」

 少し間をおいて、男が唐突に笑い声をあげた。

「いや、まさかとは思ったが」

 サングラスを外しながら、男が答えた。やはり、今永だった。その眼の光は、以前と変わらないものだった。

「試すようなことをしちまったな」

「いえ、それより」

「この頭な。俺は元々格闘技をやってた時、坊主頭だったんだ。だから、こんな頭にしても、違和感ってものはないんだ」

 今永が頭をなでながら言った。思いの外、今永も気に入っているのかもしれない。

「ちょいと付き合ってくれないか。なに、夜のドライブだ」

「俺でいいんですか?今永さんなら、女のひとりやふたり、声かけりゃすぐ来るでしょう」

「おまえがいいと思ったんだ。いや、変な意味じゃなくてな」

 今永には何度か飲みに誘われたことはあったが、ドライブというのは初めてだった。

 そして、何故自分が誘われたかというもの気になった。

「まあ、いいですよ。明日のバイトは午後からだし、今夜は暇ですから」

「ありがとな。車は向こうに止めてある」

 今永が先導して歩き出した。時刻は八時を少し回ったところだ。博多では日が暮れるのが遅いが、それでも既に薄暗い。途中、何人かの通行人とすれ違ったが、誰も今永の風貌を気にした様子はなかった。悠木の思っているより、今永はこの街に溶け込んでいるのかもしれない。

 たどり着いたのは、裏通りにある駐車場だった。今永の車は、もっとも手前に停めてあった。先日、吉田が運転していたものとは異なる二台目の車。光るような黒い車体の、二人乗りのオープンカーだ。

「この車に乗るのは、初めてだと思います。今永さんが女と一緒に乗ってるのは、街を歩いていて何度か見かけましたけど」

「まあ、二人乗りだからな。おまえも免許を取ったら、貸してやるよ。デートとかにはいいぞ、これは」

「そろそろ、教習所に行こうかと考えてます。もう十八になるし、今のところ金もある。あれば便利ですよね。車を買うってのは、まだ先の話になると思いますが」

 今永が右側のドアを開け、車に乗り込んだ。

 悠木も左側のドアから乗り込むと、車のエンジンがかかった。派手な音だった。エンジンには金をかけていると、以前今永が言っていたことを思い出した。

 今永が慣れた手付きでハンドルを操る。駐車場を出ると、路地を抜け、駅前の大通りに差し掛かった。

 車も人も多かったが、もう少し早い時間ならもっと混んでいるはずだった。ラッシュといわれる時間は、いくらか過ぎていた。

「そういえば、あの辺なら路上駐車しててもよさそうですけど、ちゃんと駐車場に停めてるんですね」

「あの駐車場は、俺のものなんだ。それに、に因縁をつけられるのが嫌なんだよ、俺は」

 ウインカーをつけながら、今永が言った。

 胸ポケットから煙草を一本取り出すと、悠木にも差し出してきた。悠木は一本受け取ると、ズボンのポケットからライターを取り出し、煙草に火をつけた。今永も自分で火をつけていた。煙草には自分で火をつけるというこだわりが、今永にはあった。

 目の前の横断歩道。駅の中心からはいくらか離れているが、人の通りは少なくない。家路を急ぐであろうサラリーマンに、これから飲みに行くであろう学生。悠木は煙草をくゆらせながら、そんな通行人を眺めていた。

 信号が青になった。今永はゆっくりと始動すると、次の信号の右折レーンで停まった。

「さっきのはなんだったんですか?」

「さっきの?」

「あの、なんていうのかな。北九州弁みたいな話し方ですよ」

 今永が笑みを浮かべた。

「変だったかな。俺は小倉の生まれなんだけどな」

「違和感はありましたよ。使い慣れてないみたいな感じが」

「親父は使ってたな。地元にいた頃は、よく聞いていた。けど、俺らの世代になると、ほとんど使ってるやつはいなかったな」

「確かに。俺の周りでも、博多の言葉を使ってるやつは見ませんね」

「漫画やドラマの中だけか。ああいった話し方をするのは」

 直進の対向車が途切れると、今永は右折して中央のレーンに進んだ。

 この道は駅の南北を通る大きな通りで、今はちょうど南端から通りに入った。このまま北上すると駅の中心へ至り、その先は博多湾に面した地域となる。

 駅の中心に近づくと歩行者が増えた。通りの両側の歩道には、数々の屋台が立ち並んでいる。大半がラーメンの屋台だが、おでんや焼き鳥といった屋台もある。悠木にとってはあまり興味をひくものではなかったが、いつ見てもそれなりに繁盛してそうだった。

 今永の車はあっという間に駅を通りすぎると、都市高速の入口に差しかかった。博多の都市高速は博多市をぐるりと囲むように環状線があり、この辺りは円の北側だった。

都市高速としこうですか。やっぱりわからないな。野郎と一緒に来るってのは」

 悠木は煙草の火を消しながら言った。今永はなにも答えなかった。

 今永はETCレーンを通りすぎると、そのまま左車線に入った。左車線に入ると、環状線の内回りで西側、南側と回ることになる。

 なだらかなカーブを超え、本線に合流する。六十、八十。今永がスピードを上げる。この辺りは外回りの道路が内回りの真上を走っているので、対向車は見えない。

「おまえと初めて会った時のことを思い出してな」

 今永がくわえていた煙草を、灰皿に置いた。

「当時、いろいろ揉めてたよしの店を襲ったんだ。そのときに初めておまえを見かけた。そこで少し興味を持ったんで、その後、俺の店で酒を飲んだ」

「そうです。俺もよく覚えてますよ」

 博多湾をまたぐ大橋に差しかかる。真上を走っていた外回りの道路が右側に移り、対向車のヘッドライトがきらきらと輝いていた。

「アイスペールに、なみなみと酒を注いだ。一本で二万の酒だったな。まさか、すべて飲み干すとは思わなかったが」

「俺も飲めるかどうか、わかりませんでした。ただ、飲まなきゃ失礼なのかなって」

「ちょっと試してみようと思っただけだよ。それで飲み干したおまえは、叫び声をあげた。あれには吉田もびびってたな。それからしばらくは仲間内で、おまえの話でもちきりだったよ」

 今永が楽しそうに話していた。それでも悠木には、なぜ今永がこんな話をするのかがわからなかった。

「今永さん」

「俺も、叫びたいんだ」

 ひとつ息をつき、今永が言った。

「叫ぶ?」

「身体の中に、なにかよどむようなもんができちまった。それを、吹き飛ばしたい。そう思ったんだ」

 悠木は今永のほうを向いた。今永は正面を向いたままだった。その表情からは、どのような感情も読み取れない。

「初めてだ」

「えっ」

「俺は初めて、こわいと思っちまったんだ。これまで何度か死線を潜ってきた。自分が死んじまうんじゃないかって思ったことはあったが、その時も恐怖ってもんはなかった。今回は死ぬとは思ってなかったが、ただこわいと思った」

「今永さんが、そんな」

 今永の表情は変わらなかった。

 今永の中で、なにかがれてしまったのかもしれない。それは、ばつよそおいをしても隠しきれないものなのか。それはもう、取り返すことができないものなのだろうか。

「そんなことをしても、どうにもならないものかもしれないけどな。ひとりで車に乗ってやればいいのかもしれない。けど、誰かに見られているほうがいい。いや、誰かに見られなければならいと思った」

 道の左側、防音の壁の向こうに巨大なドームが見えてきた。

 ハイオクドーム。野球場であり、イベントホールでもある。今週末はライブツアーが行なわれる。今日もアルバイト先の楽器店では、ライブツアーとタイアップしたピックが飛ぶように売れていた。店長の太田の見込みは大したものだと、悠木も感心していた。

「そうだな。あのドームに向けて、ただただ叫ぶ。この先、しゃおんへきがなくなる。ドームの真横につく時だ。俺は、そこで叫ぶ。おまえはなにも言わなくてもいい。ただ、俺を見ていてほしい」

 今永がスピードを上げた。百二十。百四十。ドームがみるみる近づいてくる。今永が息を吸う音が聴こえた。

 壁を抜けた。宵闇の中で、ドームは明々と光を放っていた。試合やイベントがないときでも、ドームはその明るさを失ってはいない。

 悠木はまだ、心を決めていなかった。悠木自身、どこか淀んだような思いを抱えていた。ただ、今永を見つめている。

 ドームの真横。今永が悠木のほうを向き、声をあげた。耳の奥をふるわせるような、大音声だった。悠木は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 悠木も同じように、声をあげていた。鬱々とした思い。得体のしれない男に出会ったこと。高校をやめたこと。いろいろな思いを吹き飛ばす。

 車が唸りをあげた。またスピードが上がったようだ。

 ドームが後方へ流されていく。今永の声は止まらなかった。悠木もまた、声を止めなかった。

 やがて手前のビルに隠れ、ドームが完全に見えなくなった。悠木は声を止めた。今永の声も、少しづつ消えていった。

 今永が正面を向くと、車のスピードを落としはじめた。

 今永の眼。初めて出会った時と、同じ眼をしていると思った。

「すっきりしたな」

 今永が灰皿をさぐる。先ほどスピードを上げた時に、煙草を吹き飛ばしてしまったようだった。今永が新しい煙草を取り出すと、ライターで火をつけた。

「ハイオクドームか。今年も、優勝できるかな」

 今永が一瞬振り返り、言った。

「おまえ、野球は?」

「まあ、地元のチームを応援するくらいに、人並みには好きですよ。ただ、どちらかというとサッカーですね。中学の頃までやっていて、そこそこの選手だったと思ってます」

 悠木は中学の頃、プロサッカークラブの下部組織でサッカーをやっていたが、高校年代には上がれなかった。それは素行の問題ではなく、ただ実力が不足しているのだと思った。そこでサッカーはやめてしまったが、今でもサッカーを観るのは好きだった。野球については詳しくなかったが、地元のチームというものは応援してしまうものだった。

「サッカーか。最近は、サッカーをやるやつのほうが多いみたいだな。俺の時は、野球をやってるやつのほうが多かった。俺も野球をやってたよ。高校三年までやって、せいぜい県大会の二、三回戦しかいけなかったが。それでもチームじゃ、四番を打ってたんだ」

 今永が野球をやっていた頃の思い出を語りはじめた。悠木と同じく、今永もまたスポーツに情熱をかけていた。今となっては、それも思い出でしかない。ただ、忘れてはならないものだとは思う。

「いや、よかったな。この後は中洲に飲みに行こうと思ってたんだが」

 今永が右手で剃り上げた頭を撫でた。このまま高速を進めば、中洲の近くまで戻ることになる。

「もう一周、行くか?」

 悠木は少し考えた後、頷いた。

「よし、もう一週だ。その後は、朝まで飲もう」

 今永が笑みを浮かべながら、言った。

 悠木は新しい煙草に火をつけた。そろそろ冬といっていい時期だった。少し肌寒いが、そのほうが煙草がうまいという気がする。

 悠木は煙草をひとつ吸い、顔をあげながら吐いた。

 晴れた空だった。月といくつかの星。月は、ほとんど欠けている。

 悠木は空に手を伸ばしてみた。なんとなく、月に手が届きそうな気がした。

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