第6話 安全運転
橋に入ったところで、アークは車のパワー・ウィンドウを下ろした。車自体は古いものだが、内装にはだいぶ手を加えてある。パワー・ウィンドウからエアコン、ナビゲーションまで最近の車と
いくらか潮の匂いのする風が、車内を通り過ぎていく。
車で九州に来るのは初めてだったかと、アークは思った。
先週の末に東京を出て、五日だった。急げば一日で来れる距離だったが、ゆったりとした行程だった。急ぐ必要も無いし、道中に寄り道をするのもアークにとっての楽しみのひとつだった。
昨夜は広島にいた。昨夜のうちに九州に入ることもできただろうが、やはり急ぐ必要はないと、牡蠣とお好み焼きを
体を張っているJには悪いという気持ちもいくらかあったが、あいつも既に博多で楽しんでいるだろうと割り切ることにした。アークがどういう行程で来ようと、Jもさして気にしなかった。Jにしても、食にはいくらかこだわりがあった。
橋を越えた。大きな橋だったが、あっという間に通り過ぎてしまった。いつだったか訪れた瀬戸大橋は、もっと長かったような気がする。
車載ナビに眼を落とした。博多まで、あと一時間といったところだった。
このまま走っていてもいいが、一度Jに連絡を入れたかった。それに、いくらか腹も減っていた。昼前に広島を出てから、なにも口にしていないのだ。
しばらく走っていると、ナビにサービス・エリアの案内が表示された。頃合いだと思い、アークはスピードを落とし左車線に移ると、サービス・エリアに入り、車を止めた。
駐車場も建物内も閑散としていた。平日の昼間なのでこんなものかもしれないが、観光バスの一台でも停まっていれば、もっと混雑するだろう。
フードコートに入り、食券機を見つけるとアークはうどんの食券を買った。博多といえばとんこつラーメンだと思ったが、博多に入ってから食べることにした。うどんにしても、博多の名物であるらしい。
席に着くと、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。通知を確認したが、特別なものは無かった。Jからの連絡も無い。
しばらくフードコートのテレビでニュースを見ていると、アークの持っている食券の番号が呼び出された。うどんなのだから、時間はかからないだろうと思っていたが、その期待通りだった。
受取口でうどんと茶を受け取ると、席に戻る。
見た目は普通のうどんだった。具として、ごぼうの天ぷらが入っている。
麺を口に入れたところで、おやと思わせるものがあった。麺自体はいくらか柔らかいくらいで、特別なものではないようだが、だしが効いているのか、いい味だった。
うどんを平らげ、つゆも飲み干すと、アークは一息ついた。
手を組むと、伸びをする。長い時間運転をすると、いくらか身体が固まるような気がする。歳をとったからというわけではなく、昔からそうだったと思う。
紙コップの茶に口をつける。温かい茶だった。昔は食事には冷水を合わせて飲んでいたが、最近は茶を飲むことが多くなった。
茶を味わいながら、もう一度スマートフォンを取り出す。一件、メールが届いていた。Jに対する仕事の依頼だった。
軽く内容を読むと、後で返答するものとしてスマートフォンを閉じた。店の中だった。画面を見られても内容をわからないようにしてはいたが、見られたいものではなかった。
返却口に容器を返すと、アークは外に出た。
煙草をくわえながら、車に戻る。昨今は街中でも灰皿を見なくなった。アークは喫煙者としてのエチケットとして、灰皿の無いところでは煙草を吸わないようにしていた。そのため、ほとんどは車の中で吸っている。
車に乗り込んだところで、火をつける。シートを後ろに倒してもたれかかると、天井に向けて煙を吐き出した。低い天井が微かに霞んで見えた。
年内にあと二件。いや、三件いけるか。先ほどの依頼のメールについて考えていると、耳元で着信音が鳴った。
スマートフォンを取り出す。Jからだった。ヘッドセットの応答ボタンを押す。高速道路でも通話できるように使っているものだ。
「どうしたんだ、J」
煙草をくわえたまま、電話に応じた。
「いや、そろそろ博多に入ったかと思ってな」
のんきそうなJの声が聴こえてきた。仕事をしていない時のJは、どこにでもいるような陽気な男だった。極限状態以外では常に気を抜いていると、J自身が言っていたこともある。どちらがJにとっての本性なのかは、アークにもわからなかった。
「あと一時間くらいだと思う。高速で少し休憩してる」
「じゃあ、もう九州に入ったか。昨日は山口でふくでも食ったか。それとも、瓦そばか?」
「いや、昨夜は広島だった。山口は通り過ぎてきたな。ちょうど今食ってたのも、博多うどんだ」
「ああ、うどんもうまいな。俺にとってうどんと言えば、博多うどんよりも、皿うどんだが」
アークも皿うどんは好きだった。ただ、あれをうどんとして扱っていいのかわからなかった。
「それで」
アークは、ひとつ咳払いを入れた。
「俺の昼食を訊くために、わざわざ電話したのか、J?」
「ただの挨拶さ。いや、後でまた打ち合わせするだろうが、先に資料を貰っておきたいんだ。ちょうど、時間が空いたからな」
「資料か。少し待ってろ」
アークは身体を起こすと、灰皿に煙草を置いた。灰皿の中に、吸い殻はほとんど入っていない。広島で給油する時に、一緒に清掃したのだ。博多に着いたら、また清掃することになるだろう。
スマートフォンを操作し、Jにリンクを送った。
「送ったぞ。じっくり読んでおいてくれ」
「おお、ありがとうよ」
「簡単に、概要だけ伝えておこうか?」
「頼む」
アークは鞄に入れていたノートパソコンを取り出し、ファイルを開いた。
「ターゲットは、博多市で名を上げてるチンピラ、でいいのかな。チンピラというかやくざの方が近いが、どっかの組に入ってるような奴じゃない。面倒だから、チンピラとしておくか」
「この前の、金田みたいなやつか?」
先日、東京でJが仕留めた獲物だった。
「今回のに比べたら、金田の方がまだお行儀はいい感じかな。金田はやくざの領土シマを荒らしたりはしなかった」
「ああ、どっかの組に入るでもなく、同じような仲間でつるんでいきがってる小僧か。そりゃ、本職に目をつけられるわけだ。ただ、本職は直接手を出すわけにはいかない。ぶち殺すにしても、俺みたいなコロシヤに頼ることになる」
「まあ、そんなところだ。実力は、金田と比べたら同格か、少し落ちるくらいかな」
「ほんとうかよ。あの金田って男、相当強かったぞ。あんなのが何人もいたら、コロシヤなんてやってられん」
「結局は勝ったじゃないか。無傷で」
「まあな」
Jが噛み殺したような笑い声を上げた。
アークは短くなった煙草をひとつ吸うと、揉み消した。
不意に目の前を、猛スピードの自動車が駆けていった。アークの目の前。一メートルも離れていなかった。シルバーのボディ。走行音の小さい、新型の車。駐車場では、あってはならないことだと思った。
アークは舌打ちをすると、キーを回してエンジンをかけた。
「悪い。続きは、博多に着いてからだ」
「どうした。俺の愛車のいななきが聞こえたぞ」
シートを戻し、ギアをローへ入れ発進させる。
「いや、ちょっとぶち殺したいやつが、目の前を横切っただけだ」
「ぶち殺したいやつがいたら、俺みたいなコロシヤに」
「切るぞ」
「おい、ほんとうに殺すのか、J?」
「いや、俺は殺し屋じゃないさ。目立つべきじゃない。ただ、高速道路上で事故を目撃することになると思う。事故を起こしたやつが死ぬかどうかは、そいつの運次第だろう。俺は、死んだ方がいいと思うが」
Jはひとつ息をついたようだった。
「証拠は残すなよ」
「問題ない。仕事は完璧にするよ。おまえみたいにな」
本線への合流に差し掛かる。前方。先ほどの車は、いくらか小さく見えた。
「博多で待ってるぞ、J」
「安全運転で行くさ」
アークはヘッドセットのボタンを押し、通話を切った。
車線変更。追い越し車線に移ると、ひとつギアを上げた。
シルバーのボディはまだ遠い。それでも、距離は離れていない。本気で走らなくても、十分に追いつけると思った。相手は、ほとんど前回で飛ばしているだろう。
アークはカー・オーディオをつけた。運転中は、いつも音楽を聴いている。先ほどまで聴いていた楽曲が、サビに差し掛かったところだった。
最悪からの大脱走、かすか香るけもの道。
最悪である俺から、あの車は逃げているのか。俺に捕まれば最悪であることは間違いないと、アークは苦笑した。
「逃しはしないさ」
アークはつぶやき、煙草に火をつけた。
距離はいくらか近くなっている。
リトルシガーを灰皿に置き、友利はバー・カウンターに置かれたナッツを口にした。やや渋い味だが、その方が酒には合うのだと思った。
「友利君、次はどうする?」
友利の空いたグラスを見て、マスターの
「そうだな」
友利は一通りメニューを見ながら酒を選んだが、これというものも思い浮かばなかった。
「バネが来るまでは、これでいいか。ジン・トニックをもう一杯」
「承知しました」
新垣は友利のグラスを片付けると、慣れた手つきでジン・トニックを作りはじめた。
バー『
この店は、城南署への通勤では乗り換えに使う
「ジン・トニックです」
新垣がグラスを差し出してきた。友利はグラスを受け取ると、一口飲んだ。後味に感じるいくらかの苦味が心地よかった。
「やっぱりうまいな。家で何度もジン・トニックを作ってみたけど、上手くいかない。どうも、甘くなりすぎるんだよな」
「ジンを市販のトニック・ウォーターだけで割ると、そうなるよね。ソーダをほどよく入れればいい感じになるんだけど、その加減が案外難しい。炭酸が強くなりすぎると、それはジン・ソーダになる」
「奥深いな。バーテンダーというのも、ひとつの職人か」
こうした他愛ない話をすることにも、楽しみを見出すことができるようになった。だが、それを人としての成長などとは思っていない。そんな大げさなことではないだろうが、それでも悪いことではないと思う。
灰皿に置いたリトルシガーが、短くなっていた。最後にひとつ吸い、灰皿でもみ消した。煙草ではなくリトルシガーを吸うようになったのも、この店に来るようになってからだった。
入口の扉に取り付けられた鐘が、音を鳴らした。玄羽の大柄な身体が扉の影から出てきた。
「いらっしゃいませ」
玄羽が友利の隣の席に腰を下ろすと、ビールを注文した。まだ早い時間なので、友利たち以外の客はいない。日の変わる頃には十席ほどの店内が混雑することも珍しくはなかった。
「よう、来たか。思ってたより早かったな」
「おまえが早すぎるんだ。何時に署を出たんだよ」
「水曜日はノー残業デーだろう」
「サラリーマンかよ、おまえ」
グラスのジン・トニックがだいぶ少なくなっていることに気づいた。一息に飲み干すと、新垣にバーボンソーダを注文した。
玄羽のビールから少し遅れて、バーボンソーダが差し出された。
玄羽とグラスを交わした。バーボンソーダの味もいいものだった。炭酸がバーボンの味わいを殺していない。
「どうしたんだ、今日は」
「落ち込んでいただろう、おまえ。気晴らしだよ」
「二日前のことだよ」
「まあ、飲む口実には丁度いい」
玄羽が笑みを浮かべ、ビールを飲んだ。
「その様子だと、もう大丈夫みたいだな」
「気づかってくれたのはありがたいよ。まあ、ライブの件は仕方ないとあきらめがついた。それに、チケットもどうにかなりそうだ」
「結局、彼女に友達と行ってもらうのか?」
「いや、アツオさんの妹さんが行きたがっていたみたいなんで、譲ることにしたんだ。妹さんは、その友だちと行くつもりみたいだ」
「アツさんに妹がいたのか。そういや、訊いたことはなかったな」
玄羽がビールを飲み干し、バーボンソーダを注文した。玄羽をこの店に連れてきたのは友利だったが、玄羽もこの店を気に入ったようだった。
「そういえば俺が帰る時、まだアツオさんがいたな。珍しく残業かな、あの人も」
「早く帰ろうとする人だよ、あの人は。ただ、今日は遠出してた。小倉の方にな。そうしたら、帰りに高速で事故があって渋滞に捕まっちまった。今日中に終わらせたい仕事があるってことだったのにな」
「あの人なら、サイレンを鳴らして突破しそうなもんだが」
「案外、安全運転だよ。変なところで真面目なんだ、アツさんは」
友利は笑いながら言った。
「上林君か。彼もここにはよく来てくれていたが、最近は顔を見せてくれないな。忙しいのかい?」
グラスを磨いていた新垣が訊いてきた。
「仕事自体は相変わらず暇だけど、アツさんが結婚してからは、どうも誘いにくくなったな。家も反対方向に引っ越しちまったし。そうだ、マスター。アツさん、家買ったんですよ。
「俺もユウと一度だけ挨拶に行ったんですが、大した家でしたよ。将来、こんな家に住んでみたいって感じの」
玄羽と共に上林の家を訪ねたのは、一月ほど前のことだった。上林が毎日のように自慢していたので、一度玄羽と挨拶に行くということになった。実際、立派な家だと思った。それがうらやましいという感じはしなかったが、そういう生き方もあるのだと思った。
「へえ、彼もまだ若いのに、しっかりしてるな」
「確かに。ああ見えてしっかりしてるよな。俺たちと五歳しか離れてないのに」
友利はリトルシガーに火をつけた。
「君らも、将来のことは考えているのかい。結婚とか、家買うとか?」
「俺はまだ、考えないかな。まだ遊んでいたいという気がする。バネはどうだ。彼女、まだ学生だろ?」
「そうだな。卒業したらまた考えるだろうが、向こうは今のところはその気はなさそうだ。俺も、もう少し考えたいと思う」
玄羽がバーボンソーダを飲み干し、続けてバーボンのロックを注文した。友利のグラスはまだ空いていない。酒に関しては、玄羽の方がだいぶ強かった。その分、ピッチも速い。
「マスターは、確か娘さんが」
「うん、今年から中学に入る。もう中学だよ。結婚して、娘が生まれ。この店をやりながら、あっという間だったような気がする」
友利はバーボンソーダを飲むと、続けてリトルシガーをひとつ吸った。いい気分だ、と思った。このときの気分を、友利は気に入っていた。しかし、今日はどこか空虚だった。今を楽しむということに、後ろめたさのようなものがあるのか。楽しみというものに、限界を見出してしまっているのではないのか。
「俺も、もう少し将来のことを考えてみようかな」
玄羽が意外そうな顔を向けた。
「いや、今は今で楽しいんだが、このままじゃいけないという思いもある。もっといろいろなことに挑戦したり、いろいろなことを知ったら、楽しめることも増えるんじゃないかとか」
「おまえは、もっと刹那的な生き方を心がけているもんだと思っていたが」
「悪口か、それは」
「今楽しめることを、精一杯楽しむということだろう」
「それはいいことだ。間違っていないな」
友利はバーボンソーダを飲み干すと、もう一杯、というように、新垣にグラスを差し出した。新垣はなにも言わずにグラスを受け取ると、バーボンを取り出した。
新垣は新しいグラスを取り出すと、氷を入れてバーボンを注いでいく。
新垣の動きを友利は見つめていた。無駄のない動きだと思った。
ソーダを注ぎ、友利の前に差し出してきた。ステアはしていなかった。
友利はグラスを受け取り、そのまま口をつけた。うまい、とだけ思った。
「いい味だよ、マスター」
「もう酔ったのか、ユウ?」
「酔っちゃいないさ」
正面を向いたまま、友利は答えた。新垣が微かな笑みを浮かべていた。
「どうも、おまえらしくないな」
「そうかな」
「そうじゃないという気もするんだが、なにか俺に相談でもするつもりだったのか?」
そんなつもりは無かったが、そうなのかもしれないという気もする。だが、相談することなど思い浮かばなかった。結局のところ、自分は駄目なのだということがわかっただけだ。
友利は眼の前のバーボンソーダを取ると、一息に飲み干した。ほとんど口をつけていなかったので、かなりの量は入っていた。薄い酒ではなかったが、身体の奥に
「おい、ユウ」
「そうだな、これは俺らしくない」
友利はリトルシガーをくわえた。
「マスター、どうやら俺は今日、うまい酒を飲んで酔っていたいらしい。こういうとき、マスターならなにを出すかな」
友利は空いたグラスをもう一度、差し出した。
新垣の表情は変わらなかった。玄羽は
「そうだね、水かな」
新垣が少し考えたあと、別のグラスに水を入れ、差し出しながら言った。玄羽が声をあげて笑った。
「水か」
グラスを取り、口をつける。
味わいもなにもない、普通の水だった。それでも、今の自分に必要なものだったのだろう。もう、酔いは感じていなかった。
「いや、失礼しました。たいして酔っていないのに、酔ったようなことを言っちまった」
「注文があれば、どうぞ」
玄羽の方を見た。玄羽は既にロックを飲み終えていた。
「ジン・トニックをもう一杯。バネもどうだ?」
「おう、俺ももらおう」
「承知しました」
新垣がグラスを片付けると、新しいグラスを二つ取り出す。手早くジン・トニックを作ると、同時に差し出した。
どちらからでもなく、玄羽とグラスを交わすと、口をつけた。
うまい酒だと、友利は思った。
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