第4話 スポーツバー

 博多の中心街からやや離れた、雑居ビルの立ち並ぶ通りだった。

 ジマングは立ち止まると、ビルの看板を見あげた。四階。ボバディ・メディスン。探していた目的の場所だった。

 スマートフォンで住所や店名を検索すると、目的地までの道のりから所要時間まで、ナビゲーションしてくれる。初めて行く場所でも道に迷うことはない。便利な世の中になったものだと、ジマングは思った。

 ビルの狭いエレベータで四階に向かう。四階のテナントは二つ。片方のテナントのバーは既に開店しているようだったが、もう片方は看板もなにもなかった。ただ『CLOSED』と書かれた札が扉に下げられている。

 ジマングは扉を押し開いた。狭い店内は薄暗く、奥にある大きいテレビだけが光を放っていた。サッカーの試合を流しているようだ。黄緑色の画面が目につく。

「お客さんかい。残念だったな。ここはもう、閉店したんだ」

 入口近くにあるソファーから、気だるげな声が聞こえた。狭い店の中で、そのソファーの大きさが目立つ。

「スポーツバーか。サッカーの試合を見ながら、一杯飲む。一度行ってみたいと思っていたんだ」

「閉店した、と言っているだろう」

 男はこちらを振り向かずに言うと、テーブルの上のグラスを手に取り、口をつけた。

「つれないな。一晩中酒を飲みながら、サッカーを語り合ったこともあったじゃないか。俺たちは」

 ソファーに座っていた男が振り向き、眼を見開いた。

「おまえ」

「久しぶりだな。五年ぶりくらいか、やまなか?」

 山中が破顔すると、ソファーを乗り越えてジマングの前に立ち、肩を叩いた。いくらか顔のしわが増えたかもしれないが、最後に見た時と変わらない印象だった。ジマングより二つ上なので、五十五歳になっているはずだ。

「おう、博多に用がある時は遊びに来いと言っていたが、ほんとうに来てくれるとはな。とりあえず、一杯やろう」

「閉店した、と聞いたぞ」

 山中が声をあげて笑った。

「いや、このテナントはまだ俺が借りてるもんだ。営業はしていないってだけでな。気が向いたらまた開けるだろうが、いろいろと面倒でな」

「道楽でやってるのか、ここは?」

「まあ、この店を開けなくても、食っていけるからな」

 山中が背を向けると、カウンターに入り、スイッチを押した。店内の照明がつき、室内を照らした。壁一面に飾られたサッカーのユニフォーム。それは山中が好きだったクラブの水色のものが多いが、見慣れないクラブのものもあった。

 山中がグラスをひとつ取ると、流しで洗いはじめる。

「すまんな。最近は俺が使うやつ以外は、手入れもしてない。ここ一月くらいは店を開けても誰も来ない。おまえみたいな昔からの友だちがたまに来るくらいだ」

 山中が洗い終わったグラスを手に持ち、戻ってきた。テーブルの上の緑色の酒瓶を取ると、二つのコップに注ぐ。

「ドライ・ジンか。相変わらずの英国党だな、おまえは」

「一度好きになったものは、そう簡単には変わらないさ。もっとも、店を始めてからは他にも飲むようになったがな。ビールひとつとっても、いろんな国のいろんな銘柄を飲んだ。店で出すために、詳しくなったさ」

 山中が差し出したグラスを、ジマングは受け取った。ジンのストレート。昔ながらの、山中の飲み方だった。

「再会を祝して」

 グラスが小気味よい音を鳴らす。ジマングは一息で半分ほど飲んだ。酒は弱い方ではないが、ストレートでは飲みにくいものだった。山中は飲み干していた。

「やっぱり、生のまま飲むものじゃないな、こいつは。どうしても、味が辛くなる」

「焼酎とか、日本酒とかのがタイプだったかな、おまえは。残念だが、この店には置いてない」

「特にこだわってるわけじゃない。高い酒から安い酒。うまい酒でもまずい酒でも、なんでも飲む。酒は酒さ」

 ジマングは、残りを飲み干した。山中がジマングのグラスに酒を注ぎ、続けて自分のグラスにも注いだ。

「それで、積もる話もあるだろうが、用件はなんだ?」

 山中の声が、いくらか低く聞こえた。表情は変わっていない。

「用件か」

 ジマングはソファの背もたれに寄りかかった。

「仕事で博多に来たついでに、顔を見せに来たってことじゃないだろう?」

「ああ、仕事は仕事だが、おまえの腕に頼ろうと思ったんだ」

「俺の腕?」

「道具を用意してもらいたい」

「道具だと」

 山中が意外そうな顔をした。

「道具ったって、おまえほどのやつなら俺に頼らなくてもいくらでも、ウチのを使ってくれ、って言い寄ってくるやつらがいるだろう」

「その土地のものを使いたい。いつもそうなんだ。地方に行くときはな。それも、なんでもいい、ってわけじゃない。いいものを使いたい」

「別に、昔のよしみで俺を使ってくれてるってわけじゃないだろうが」

「頼むよ」

「まぁ、おまえに使ってもらえるなら、悪い気はしないな。喜んで用意させてもらうよ」

「すまんな。恩に着る」

「やめてくれ。そうだな。今日なら週末までには間に合うだろうが、慣らす時間もいるか?」

「いらんよ。おまえの用意するものなら、即興でも使えるさ」

 山中が鼻を鳴らした。

「ずいぶんと信用されてるようだな。まあいい。泊まりはホテルだろ。道具はホテルに送るが、どこに泊まってるんだ?」

 ジマングはスマートフォンの画面にホテルの情報を表示させ、山中に見せた。

「金持が泊まるようなホテルだな。もっとも、おまえは金持だろうが」

「安いところでもよかったんだが、どこも空いてなくてな。高いところはそうでもなかった。それだけさ」

 ジマングは、泊まる場所にはこだわらなかった。寝るためのベッドと、シャワー。それさえあればいいのだ。

「最近は、博多も観光客が増えて、平日でもホテルが取れないらしい。まして週末に大規模なイベントでもあると、なおさらだ」

「今週は俺が、そのホテル不足を煽ることになるのかな」

「観光業界には、悪いことじゃないさ。まあ、俺の店は開けないがな」

 山中がグラスを呷った。

「土曜の分なら関係者の枠がまだあるんだが、招待しようか?」

「悪いな。ありがたいが、今週末はフットボールの試合に行くんだ」

 山中は、サッカーのことをフットボールと呼ぶ。英国党の昔からのこだわりだった。

「イギリスまで行くのか?」

「いや、国内のリーグさ。土曜と日曜で、二試合観るんだ」

「昔はプレミアしか見なかったのに、変わったもんだな」

「今でも見てるさ。年に一回は現地に観に行く。今年の正月も、むこうに行ってた。この店に飾ってあるユニフォームとかのグッズも、大半はそこで買ったものだ」

 山中が瓶の残りを、自分のグラスに注ぎ込んだ。ジマングのグラスは、まだ空いていない。

「それでも、最近は国内のリーグも気にしている。自分の住んでる街のクラブを応援するってのは、悪いもんじゃないんだ。クラブのキャプテンが、その辺の道を歩いていたりな。そこで話しかけて、ああだこうだ言ったり。そんなことを楽しく思う。齢を取ったのかな、俺も」

 テレビで流れているサッカーの試合が、国内のリーグの試合であることにジマングは気がついた。片方のチームのユニフォームは、この店に飾っているものだった。

「福岡には、二つのクラブがある。小倉と博多のクラブなんだが、博多のクラブはすぐそこの空港の辺りで試合をやってる。小倉のクラブだって、電車ですぐ行ける場所さ」

「俺はあまり、現地で観ることにはこだわらないな」

「おまえは相変わらず、スペインか?」

 山中がグラスを見つめながら言った。

「バルセロナを応援しはじめて、何年になるかな。どちらかと言うと、クラブより選手にこだわってるんだな。その選手がいるから、クラブを応援している。やっぱり、自分にとって絶対的な選手を見るのは、いいもんだ」

「絶対的な選手なら、なおさら現地で見たいんじゃないかな」

「そうかな」

「おまえも、音楽にかけては誰かにとっての絶対的な人間だろう。だったら、現地で見たい、現地で聴きたいって思われることもあるんじゃないかな」

「そうだな。そういう気もする。今の俺は、ライブには行かず家でCDを聴いているファンか」

「そういうファンは、一度でもライブに行くとのめり込むな」

「そういうファンこそ、大事にしたいさ」

 ジマングはジンを飲み干すと、グラスをテーブルの上に置いた。

「博多はどうだ、山中?」

「いい街さ。都会すぎず、田舎すぎず、ちょうどいい街だ」

「生まれが佐世保の俺にすると、一種のあこがれがあり、同じ九州の街としてのライバル意識もあった。それが博多だ」

「佐世保とは、比べものにならんだろう」

「言ってろ」

 ジマングが声をあげて笑うと、山中も同じように笑った。

「今度は開店日に、スポーツバーの客として来よう。おまえと一緒にバルセロナの試合を観たいな」

「おまえが来てくれるなら、その日が開店日さ」

「楽しみにしているよ」

 ジマングは入口の扉を開いた。外はいくらか暗くなっていた。

 エレベータを降りたところで、スマートフォンがふるえた。

 川村からの電話だった。まさか店を出るのを見張っていたわけではないだろうが、いいタイミングだった。

「お疲れ様です、ジマさん。今、いいですか」

「おう」

 駅にむかって歩きながら、ジマングは応えた。帰りは来た道を戻るので、ナビゲーションは不要だと思った。

「つい先程、西にしさんからお電話がありました。今日博多に入ったそうですが、ジマさんがもう昨日から来てたと知って。それで今夜、飲みに行かないかとお誘いを頂いたんです」

「おう、西さんか。前乗りして飲みに行くって、あの人も好きだな」

 西は、ジマングが最初に所属した事務所の先輩だった。今では別の事務所となってしまったが、今回のツアーにもサポートメンバーとして参加してもらっている。

「どうします?急な話なんで西さんも、行けるなら、って感じでしたが」

「いや、これから駅前のファミレスでドリアでも食おうと思ってたところだが、そっちにしよう」

「好きですね、それ」

「すっかりはまってしまったな。そうだな、ホテルの向かいのビルによさそうな店があったから、そこにしよう。俺は、一度ホテルに戻るかな。今の時間は」

「七時前ですね」

「じゃあ、八時半かな。西さんには、ホテルのロビーで待ち合わせと伝えてもらえるかな」

「承知しました。西さんにお伝えします」

 電話を切ると、ジマングは大きく伸びをした。かすかな冷気が身体を包みこむ。もう、冬に近い時季だった。ジマングはブルゾンのジッパーを上げた。

 繁華な通りにさしかかり、しばらくするとられていることに気づいた。三人。しかし、隠れているという感じはしなかった。追いかけている。機を見計らい、接触しようとしているのか。

 ジマングはそのまま歩き続けた。

 不意に一人が早足で追い抜いてきた。追い抜くと、速度を落とした。男。体格はジマングとさほど変わらない。背は、男の方が少し高いだろうか。

 男が立ち止まる。ジマングも立ち止まった。男がゆっくりと振り返る。黒いスーツに赤い柄物のシャツ。すじもののような外見だったが、筋者の空気は感じない。見た感じでは三十代くらいだろうか。

 後ろから来ていた二人も歩みを止めた。三人に囲まれるという状況になった。

「なぁ、おっさん」

 スーツの男に声をかけられた。ジマングは顔を上げ、男を見つめた。

「店から出てきたな。山中の店だ」

「ああ」

「なにをしていた?」

「友だちさ。旧交を温めに来たんだ。この店に来たのは、初めてだったがね」

「とぼけるなよ。口が堅くても、いいことはないぜ」

「ほう、俺がなにか隠していると思っているのか」

「隠すようなことが、あるんだな」

「そんなものは無いと言って、きみらは信じるかな」

「少し痛い目に遭うかもしれない」

 スーツの男が、薄い笑みを浮かべた。後ろの二人が、少し距離を詰めてきた。

「博多のど真ん中だぜ。治安のいい街じゃない分、警察も優秀だ」

 宵の口なので、街に人は多い。道端で立ち止まるジマングたちを、通り過ぎながら何事かと見やる。

「そうだな」

 スーツの男が舌打ちをすると、背を向けて歩き出した。三人に囲まれるまま、ジマングも進んだ。

 五分も歩かないうちに、灯りの少ない公園にたどり着いた。公園といっても、ベンチと公衆トイレくらいしかないようだった。

 スーツの男が煙草に火をつけた。

「俺らは、あんたがどこの誰かなんか知ったことじゃない。それでも山中の店に入っていった」

「山中が、きみらになにかしたのか?」

「質問してるのは、俺の方だぜ」

「山中とは二十年来の仲だ。きみらも知ってるかな。山中は何年か前に、東京から福岡に越してきたんだ。福岡に来たんだから、寄ってもおかしくないだろう」

「わからないな。あんたはなにかを隠している。隠すようなことは、ないんじゃないのかな」

「そうだよ、隠していることなんかない」

「仕方ないな。穏やかに終わらせたかったが」

 スーツの男が、手首を回しながら近づいてくる。後ろの二人は、動かない。この男を信頼しているのか。それとも、命令が無いと動けないのか。

 右のパンチを打ってきた。遅い。牽制のつもりなのか。ジマングは、身体を右にひねってかわした。男が意外そうな表情を浮かべる。

「やっぱり、ただのおっさんじゃないな。あんた」

 男が、もう一度パンチを繰り出した。先ほどより、いくらか速い。少しは格闘技をかじってるのかもしれない。それでも、大したことはない。

 ジマングは身体を左にひねってパンチをかわすと、男の腹に右の拳を叩き込んだ。男が息の詰まったような声をあげ、うずくまった。喫っていた煙草が地面に落ちた。

 ジマングは左手で男の髪を掴むと、男の顎に右膝を打ちつけた。男が大の字になって倒れ込んだ。近づいて、二度、三度と腹に蹴りを入れる。男は動かない。意識を失ったようだ。あっけないものだった。

 振り向くと、二人の男は明らかに動揺していた。ジマングが一歩踏み出すと、片方の男は背を向けて逃げ出し、もう一方の男はその場にへたり込んだ。

 ジマングは、へたり込んだ男に近づいた。

「きみの兄貴分かな、こいつは。残念ながら、話をできる状態じゃなくなっちまった。そしてもうひとりは、どこかへ消えちまった。なので仕方ない。きみに訊かなくちゃならない」

 男の目に、怯えの色が見える。若いというより、幼いといっていいかもしれない。まだ二十歳にもなっていないように見える。

「なぜ、俺に絡んできた」

 男はなにも答えない。

「言えないってのか、おい」

「俺は」

 男が口を開いた。声がいくらかふるえている。

「俺は、いまながさんの仕事を手伝ってた。今永さんは、あの店のことを調べようとしていたんだ」

「ここで寝てる兄貴分が、今永か。こいつはなんだ。いきがった格好だが、筋者ではなさそうだ」

「今永さんは、やくざじゃねえ。どっかの組で盃をもらってるわけじゃない。ただ、荒っぽい仕事はよくしてる」

「チンピラか。今風に言うなら、半グレってやつかな。その今永がなんで、山中の店を調べてたんだ?」

「それは」

「言えないのか」

 男がうつむいた。

「仕方ないな。穏やかに終わらせたかったが」

 ジマングは落ちていた煙草を拾った。まだ、火は消えていない。先ほどまで、今永が喫っていたものだ。今永の胸ポケットに差してあったチーフを一緒に取った。

「待たせたな」

 ジマングはチーフを男の口に押し込んだ。困惑したような表情を浮かべた男をうつ伏せに押し倒すと、左腕をひねり上げた。

「てっとり早くやるぞ」

 煙草を左手の甲に軽く当てた。男がうめき声を上げながら、暴れようとする。それでも左腕を取っているので、身動きはできない。

「もう一度訊いてやる。それとも、右手もやってみるか?」

 男の耳元で、ささやくように言った。男が首を横に振ったので、ジマングは男の口からチーフを引き抜いた。男が荒い呼吸をする。

「もう一度、訊こう」

 ジマングは男の腕を放すと、横にしゃがみ込んだ。

「今永さんは、この街で回ってるを取り仕切って、儲けようとしていた」

 男が呼吸を整えると、言った。

「あの店はいつも閉まってるのに、たまに人の出入りがあった。出入りしてるのが覚醒剤を仕入れてるやつで、あの店で売り買いしてるって噂だった」

「ほう」

「だから、あの店に来るやつ、仕入れるやつを捕まえて、覚醒剤のルートを手に入れようとしたんだ。それで昨日からあの店を見張ってたけど、今日になってあんたが来た」

「もういい」

 男が口を閉じた。

 ジマングのことを、覚醒剤の売人かなにかと勘違いしていた。それだけのことだった。する必要のないことをしてしまったのか。ジマングは立ちあがり、火の消えた煙草をゴミ箱に投げ入れた。

 振り向くと、男が怯えた目でジマングを見つめていた。ジマングはもう、男たちから興味を失っていた。

「そこにトイレがある。冷水でよく冷やしておくといい。たいした傷じゃない。しばらくは痛むだろうが、痕も残らんだろう」

 男が左手を押さえたまま、立ちあがった。

「なんなんだよ、あんた。やくざって感じはしないのに、やくざみたいなことをしやがる」

「俺が筋者なら、こんなぬるいやり方はしないさ。指の一本や二本は折る。もっともきみは、こんなぬるいやり方でも吐いちまったが」

 ジマングはスマートフォンを取り出した。七時半。あまり時間は経っていなかったが、西との約束がある。大通りに出てタクシーを拾えば、十分に間に合うだろう。

 男はまだ、ジマングを見つめていた。

「せっかくだから、教えておいてやる。山中の店は、覚醒剤なんかおいちゃいない。あるのは酒だけさ。俺も、覚醒剤なんか持ってない。きみらのしたことは、無駄骨だ。残念だったな」

 男がなにかを言いかけたが、ジマングは背を向けて歩き出した。

 ビルの間から見える大通りを、タクシーが通り過ぎるのが見えた。十分に間に合うだろうと、もう一度ジマングは思った。

 街の喧騒は、まだ遠い、背後から、蛇口の水が流れる音が聞こえてきた。

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