第3話 都市伝説

 共に歩き続けた日々に。共に彷徨った日々に。

 地下鉄を降りると、音楽プレイヤーから流していた楽曲がちょうどサビに差し掛かった。

 扉の前にあるエスカレータに乗る。いつも通りだな、とともは思った。いつもの曲を、いつもの場所で聴く。

 地下鉄の乗客は少なかったので、友利と同じ駅で降りた客は十人もいなかったのかもしれない。もっとも朝の下りの路線なので、めずらしいことではなかった。

 改札を抜け、二つ目のエスカレータに乗る。友利は楽曲の終わったタイミングで音楽プレイヤーを止め、イヤフォンを外した。

 ここ半年で、同じことを毎日のように繰り返してきた。音楽プレイヤーからは、いつものようにジマングの楽曲を流している。朝のいくらかいんうつな気分をやわらげる。

 地上に出ると、真新しい建物が眼に入る。

 はかじょうなん警察署。半年前からの、友利の職場である。ここに建てられてまだ一年半の、博多市内でもっとも新しい警察署だった。

 正面玄関前に立番している署員と挨拶を交わし、署内に入った。

 一階の受付隣のエレベータホールはいくらか混雑していたが、友利は通り過ぎて階段に向かった。

 階を二つ上がるまでは階段を、それよりも上がるならエレベータを使う。署員にそんな規則は無いが、友利が自分の中で心がけていることだった。もっとも署は五階建てで、友利の職場は二階なので、エレベータを使う機会はほとんどないといっていい。

 階段を上がり、二階の廊下を歩いていると、隣の部署の机で頭を抱えている、くろばねとしの姿が見えた。

「よう。おはよう、バネ」

「ああ、ユウか。おはよう」

 玄羽が虚ろな笑みを浮かべ、答えた。

 普段は明るい男だが、今朝は見る影もない。ラグビーで鍛えた百八十センチの体躯が、いくらか小さく見えた。

 玄羽とは、警察学校の同期だった。

 卒配先は違ったが、友利が半年前に配属されたこの城南署で再会した。同期で同じ福岡出身、同じタイミングで巡査部長になったということで、今では俺おまえで話すようになっていた。

「なんだ、その顔は。ひとつ前の女に振られた時も、そんな顔はしてなかったぞ」

「そっちの方が、だいぶましだったさ。似たようなものかもしれないが」

「まあ、通りかかったんだから訊いてやるよ」

 友利は玄羽の後ろの席の椅子を引くと、逆さまに跨り、背もたれに両肘を乗せた。この部署のほとんどは空席なので、とやかく言われることもない。

「仕事で、へまでもしたのか?」

「いや」

 玄羽がうつむきながら、応えた。

「臨時の応援が入った。港区の雑踏警備の応援でな」

「またか。城南のやつらは、暇だと思われてるんだろうな。みなとなかに比べりゃ、忙しくないのは確かだが」

 友利の卒配先だったくらほどではないが、博多市は治安のいい街ではなかった。それでも、城南署の管区は穏やかなものだった。友利は刑事課に所属していたが凶悪事件など起こることはなく、出動の大半は駅で暴れている酔っぱらいの相手だった。

 玄羽は地域課の所属だったが内勤の課員は少なく、他の管区への応援は大部分を玄羽が担ってた。

「最近、なにか大きなイベントでもあったかな。いつなんだ、それは?」

「次の土曜だ」

「土曜って、それは」

 友利は、背にいやなものを感じた。

「そうだよ。ジマングライブツアー、博多公演の初日だよ」

 玄羽の声が、かすかにふるえていた。

 友利も好んで聴いていた、シンガーソングライターのジマングが、次の三連休に合わせて博多でライブをやることになっていた。玄羽は土曜、友利は日曜に休暇を取り、それぞれ参加するつもりだった。

 元々は警察学校の頃に友利が玄羽に教えてやったものだが、今では玄羽の方が熱心だった。

「もしかして、その雑踏警備というのは」

「港区のハイオクドーム。警備がなくても、行くはずだった場所だ」

 ハイオクドームは、港区にあるドーム球場だった。ハイオクの名で知られるネットオークションサイトを運営している、ハイオークション社のネーミングライツによりその名前で呼ばれている。野球場として有名だが、コンサートなどの大規模イベントで使用されることも多い。次の三連休とその前後の二日を併せた五日間は、ジマングによって使用される。

「なんともな」

 玄羽はチケットを取るのに苦労しており、最近できたという恋人の分と併せて二枚のチケットを取るため、チケットの追加発売の日に休暇を取り、徹夜で並んでようやく手に入れたのだという。

「俺のチケットと替えてやりたいところだが、俺のは一枚だしな」

「心遣いは、ありがたく頂くよ」

 玄羽が、顔をあげて言った。スポーツ刈りに太い眉、細い眼と揃った顔は古風な男前といえたが、今の顔からは悲しみしか感じなかった。

「おまえ」

「泣いちゃいねえよ」

 玄羽がかすかに微笑んだ。それもまた、悲しい表情だった。

「男が泣いていいのは、生まれてきた時、それにジマングのライブで『はるかなる君へ』を生で聴いた時だけだ」

 その機会が失われた、という言葉を友利は飲み込んだ。玄羽が冗談を言ったのかもしれないし、普段は軽口を言い合える仲だが、今は言ってはならないと思った。

 何と答えていいものか友利が考えていると、玄羽が携帯電話をポケットから取り出した。そして画面を見ると悲しげな顔を浮かべ、なにやら操作すると再びポケットにしまった。

「どうした?」

「いや、みなみから連絡がきてな」

 みなみというのが、玄羽の恋人の名だった。今年の夏に知り合ったということで、一度写真を見せてもらったが、これといった特徴のない顔立ちで、平凡な印象だったのを覚えている。

「俺が行けなくなったことを伝えたんだが、それなら自分も行けないと言ってきた」

 玄羽がまた、悲しげな笑みを浮かべながら言った。

「いい子なんだとは思うが、そう言われるのもつらいな」

「申し訳ないから、誰か友達を誘って行ってほしいと返したが、どうかな」

「俺はライブはひとりで行くものだからあまりわからないが、こういうのは大変そうだな」

「お前なら、そうだろうな。ひとりなら誰かにやるか。それこそ、ハイオクに流せばいい。いい値がつくし」

「警察官が言っていい台詞じゃないな」

 玄羽が低い声で笑った。少しは気分が落ちついてきたのかもしれない。

「まあ、残念だったな」

 友利は立ちあがった。ふりむきざまに軽く右手を挙げると、部屋を出た。時計を見ると、あまり時間もなかった。

 友利が自席に着いたのは、始業時間の五分前だった。十人の課員うちの五人は既に来ている。就業時間などあってないようなものだったが、刑事課長のやなぎが来るまでには着席しておくという不文律があり、いつも柳田は五分ほど遅れてくるので課員はその時間に間に合うようにしている。

「おはようございます」

「おう、おはよう」

 既に来ていた課員と挨拶を交わす。課員はみな体育会の出身だったので、朝の挨拶も堂に入ったものだった。

 友利自身は体育会ではなかったが、この課の空気は嫌いではなかった。

 柳田が姿を見せたのは、始業時間の三分後だった。既に課員は、勢揃いしている。

 課員が揃うのを見はからって来ているのではないかと思ったこともあったが、課員の揃った十分後に来たことも、課で一番に来ていたこともあったので、そうではないようだった。

 朝礼がはじまる。特別な伝達事項があれば報告するが、今日は誰からの報告もなかった。それも、めずらしいことではない。

 朝礼が終わると、皆それぞれの仕事にとりかかる。友利はこれといって仕事がなかったので、午前中は忙しそうな課員を手伝うことにした。

 それでも一時間もすると、手伝うこともなくなった。

 友利は部屋を出ると、階段で一階に降りた。一階のエレベータホールは、先程と比べると閑散としていた。署にはもろもろの手続きなどで民間人も訪れるが、それもほとんどいなかった。

 一階の最奥にある喫煙室の扉を開ける。いくらか重さを感じる扉。いくらか喫煙に抵抗を感じさせるものなのかもしれない。

 先客がひとりいた。刑事課のうえばやしあつだった。城南署の刑事課において、友利と同じ主任の役職に就いている。

「よう」

「お疲れ様です、アツさん」

 階級は友利と同じ巡査部長だが、としは五つ上だった。そのため、言葉遣いにはいくらか気をつけている。

「おまえも暇そうだったからな。そのうち来るんじゃないかと思っていた」

 煙草の灰を落としながら、上林が言った。

「まぁ、お察しの通りですね。刑事が暇ってのは、治安がいいってことで悪いことじゃないでしょうけど」

 友利は胸ポケットからリトルシガーを一本取り出すと、口にくわえた。口内に漂うキャラメルの香り。この感覚が好きで、友利が選んだ銘柄だった。

「相変わらず、甘ったるい匂いだ」

「悪くないでしょう?」

「まあな。そういうものもありだと思う。高級そうな香りはするが、そんなに気取ったような感じはない」

「シガーとか葉巻とか、その辺りのに比べるとだいぶ安いですね。煙草よりも安いし」

 火をつけ、一服する。吸い込んだ時はあまり甘さを感じない。

 吐き出した煙が換気扇に向かって流れていくのを眺めていると、上林が新しい煙草に火をつけた。

「博多と小倉があるから福岡は治安がどうとか言われるが、大げさだと思うんだよな。博多でも俺たちみたいに暇そうな奴らもいるし。東京とか大阪とかの方が、よほど物騒なんじゃないかな」

「イメージってのはありますからね。先日東京でどっかの社長が殺されて、めったにないような大事件みたいな扱いだけど、実際は東京でもよくある」

「新宿のやつな。まあ、あれはちょっと特殊だな」

「特殊?ネットでそこそこの有名人が殺されたってだけじゃ」

 被害者の金田かつとしは、スポーツジムを経営する会社の社長だった。いつだったか、玄羽が金田の登場するトレーニング動画を見せてくれたことがあった。そこそこ知られた動画で、玄羽の恋人が気に入っていたので、玄羽に見せたらしい。トレーニングの専門家といえる玄羽から見ても、よくできている動画だったらしい。

「ただ有名ってだけじゃない。俺くらいの腕っこきの刑事になればわかる」

「へえ」

 上林が長くなった灰を落とした。上林は喫煙者だが、あまり煙草を喫わない。煙草に火をつけて、そのまま持っているだけのこともある。

「あれは相当の強者だよ。身体のでき方が、見せかけのそれではない実戦的なものだ。それに殺されたのは、屈強なボディガードも一緒にだ」

「とはいっても、人数が多けりゃ勝てんでしょう。ニュースだと、全員首を切られてるって話だ。だったら、青竜刀せいりゅうとうを持った中国系マフィアの集団にでもやられたか。やっぱり物騒だな」

「いや、単独犯だ。だから特殊だといってる」

「そんな漫画みたいなやつがいるって、なにか根拠でも?」

「経験と、それに基づく勘ってやつさ。刑事のな」

 友利はリトルシガーを大きく吸い込むと、鼻から吐きだした。それがシガーの愉しみ方だと、知り合いのバーのマスターが教えてくれた。

「確かアツさんの知り合いに、新宿辺りの所轄の刑事がいたな。その人に訊いたんですか?」

 上林が、鼻をならして笑った。友利にとって、上林は嫌いな男ではなかった。

「よく覚えてやがるな。そいつの話は、一回こっきりしか出してないと思ったが」

 上林が曖昧な笑みを浮かべながら言った。

「まあ、なんとなくですよ。覚えようと思ったことはなかなか覚えられないのに、そうでもないことは割と覚えていたりする。よくあることじゃないかな」

「そういうものだという気もする」

「金田がただ者じゃないってのも、新宿の情報ですか?」

「いや、この前知り合いの暴力団員と話す機会があってな。まあ一応、そいつはそう悪いやつじゃない。逮捕されるようなことはやっちゃいないからな。そいつが昔の金田について知ってたんだ。表には出ない格闘技の大会みたいので、そこそこの選手だったらしくてな。そんなやつなら、そりゃ実戦的なもんだ」

「それは、新宿では?」

「もちろん知られてるさ。当時は、暴力団との繋がりもあったからな。当然、そっちからの情報もある。今となってはただの実業家ってことで、その時の伝手は使ってはいないようだが」

「なら暴力団連中と揉めて殺られたってのは、自然な読みですね」

「新宿でも、その線を優先している。まぁ、当然だろうな。けど、これまでに特別関係が悪くなってたって話は無かったらしい」

 友利は、リトルシガーの火が消えていることに気づいた。もう短くなっていたので、灰皿に放り込んだ。二本目を取り出し、火をつける。

「それで、単独犯だってのは、新宿の見解ですか?」

「それに関しちゃ、はっきりしていないようだ。単独犯ってのは俺の読みさ」

「勘ってわけじゃなさそうですね。やっぱり、根拠がありそうだ」

「被害者は三人。その三人なんだがな、全員、右の首すじを切られていたんだ。金田のは少し切り口が違ったようだが、それが致命傷になって失血死。そして、それ以外の傷はなかった。きれいな傷が三箇所だけだ」

 友利は、背筋に冷たいものを感じた。そんなことが、ありえるのか。

「さっき言ったような青竜刀を持った集団にでもやられた場合、そんなことはありえない。仮に狙ってそういう殺し方をしたとしても、他に傷がないというのは、どこかおかしい。けど、だからといって単独犯とも言い切れない」

「まぁ、ひとりでそんなことができるなんてのは、漫画とかドラマとかの話だな」

「アツさんは単独犯説を推しますけど、そんな達人みたいなやつって、ほんとうにいるんですかね」

おかぞうとか、なかむらはんろうとかかな」

「そりゃ幕末の人斬りならできるかもしれませんけど、そんなのが今の時代にいますかね」

「暴力団には、日本刀を得物にした達人がいるというのはよく聞くがな。あとは、ジェイエムジーのジェイとか」

 上林が、少し考えるような表情を浮かべて言った。

「えっ」

「知らないか?アルファベットのJ、M、GでJMG。それにアルファベットのJだ。得物は切れ味の鋭いナイフ。被害者の数は百を超えている、凄腕の殺し屋だよ」

「聞いたことないな。俺は知りませんが、例えば誰を殺したんです?」

「有名なところだと、平成の初めのころに神奈川を抑えてた暴走族のトップが殺された事件。それから、いつだったか大阪のミナミで十三人のホストが殺された事件。鳥取で二十人くらいの暴力団員を一晩で殺し、『砂丘の天使』と称されたという話もあるな」

「あの、アツさん。それって」

「まぁ実のところ、俺もよく知らないんだ。これは確か、山口県警の知り合いから聞いた話でな。ネットとかではよく知られてるようだが、なにしろJに関する資料が、警察にも全くないんだ。証拠を残さないってのは、凄腕のプロってやつなんだろう」

 上林は肩を竦めた。この男が、嘘を言ってはいないだろうことはわかる。

「その三つの事件、俺でも知ってますよ。全部、迷宮おみや入りってことになってる」

「ん、そうだったのか」

「そもそも証拠がないのに、なんでそのJとやらが犯人ってことになってるんですかね」

「それは」

「これは俺の推測なんですが、誰かが迷宮入りした事件の犯人のことを、Jって呼びだしたんじゃないですかね」

「ほう」

「それがネットとかで尾ひれはひれ背ひれが付いて、凄腕の殺し屋っていうことになった。得物はナイフだとか、証拠は決して残さないとか」

「なるほど。いや、そういえば俺も、最初はほんとうかなって思ってたが、あちこちで話を聞いて、いつの間にかそういうことだと認識するようになった気がする」

「俺にもそういう記憶はありますよ。伝聞の話が、いつの間にか自分が経験したことになってたりするんです」

「噂に踊らされるのは、腕っこきの刑事としてはまずいな」

 上林が短くなった煙草の火を消した。やはり、あまり喫っていないようだった。

「噂というか、都市伝説ってやつでしょう。口裂け女とか、赤マントとかの仲間じゃないですかね」

「都市伝説か。実際に事件があり、被害者もいるってのは事実だがな。じゃあ、JMGってのは何だ?」

「それは俺に訊かれても。アツさんは、なにか知らないんですか?」

「俺も気になってたんだが、この話をした誰も、そのことは知らなかったな。おまえの言う、尾ひれのひとつなのかな」

「他にもJってのがいて、それと区別するために付け加えられたんでしょうかね。組織名とか、そんな感じで」

 友利は、三本目に火をつけた。上林はもう、煙草を喫っていなかった。そろそろ、部屋に戻るつもりなのかもしれない。

「いもしない犯罪者を追っかけるのは、滑稽なものか」

「犯人はいるでしょう。その犯人がJだというのは、都市伝説かもしれませんが」

「犯人が都市伝説じゃ、捕まえようがないな。この平和な街に、その伝説を増えても困るが」

「腕っこきの刑事さんなら、その伝説を終わらせるでしょう」

 上林は笑い声を上げながら、友利に背を向けた。出口の扉は、やはり少し重そうだった。

 友利は上を向き、換気扇に煙を吹きかけた。ひとりになると、先ほどまでは気にならなかった換気扇の音がいくらか気になる。

「都市伝説、か」

 友利は呟いた。上林との他愛ない会話を思い出す。

 証拠のない犯人。証拠がないから、罪に問われない。事件である以上、必ず犯人はいるはずだ。それでも証拠がないから、存在しないことになる。

 野放しとされた犯罪者。その概念が、Jというものではないのか。都市伝説となった殺し屋。やはり、そんなものは存在しないのか。

 リトルシガーの火が消えていた。普通の煙草よりも、火が消えやすい気がする。

 まだ先の長いリトルシガーを灰皿に押し込むと、友利は少し力を入れ、出口の扉を押し開けた。

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