己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ

 昔は、誰かと一緒に映画を観ると、終わった後に感想を話し合う、という営みがあったらしい。

 それはきっと、自分がその映画を観て感じたことを、その誰かに伝えたかったからだろう。

 でも、伝えたい想いの100パーセントが伝わることは決してない。たとえいくら言葉を尽くしても。

 わたしの“感じ”はわたしだけのもので、誰かの“感じ”はその誰かだけのもの。人と人の間には目に見えない膜があって、それが“私”と“他者”を形作っている限りは。


 わたし達はそういう風に出来ている。

 いや、そういう風に出来て、いた。

 だって、今のわたし達はその見えない膜を越えて、誰かと繋がれるようになったのだから。


「それじゃ、しよっか、紗智」

「うん、そうだね。早く綾香がどんな風に感じたのかを知りたい」


 わたし──くすのき綾香あやかと親友の東雲しののめ紗智さちは映画を観終えた後、近くのカフェにやって来ており、それぞれ頼んだ珈琲に軽く口を付けたところでそう言った。

 眼球の角膜に投影された拡張現実Augmented Realityの画面を宙で指先を振るうようにして操作していく。


 わたし達の身体に関する情報は二十四時間常に保存されており、先ほど映画を観ていた際のものもある。

 そのフォルダを開くと、わたしの各場面における感情の上げ下げを示すグラフと各所の映像が小さく表示された。

 感情が高まっている部分を中心に眺めていき、今の自分的にも良いと思える場面をいくつか選ぶ。

 そこに保存されているのは、その場面におけるわたしが感じたワクワクやドキドキ、喜怒哀楽、他にも様々な感情、すなわち“感じ”。


 選んだそれらを紗智に送信した。程なくして彼女からも同様のファイルを受信する。そこには紗智が選んだ“感じ”が記録されている。わたしは躊躇いなくそれを再生し始めた。

 瞬く間にわたしの意識はカフェから映画館へと移ろいだ。

 けれど、自らの体験とは明確に違っている点がある。それは、隣の座席にわたし自身がいること。これは紗智の視点だった。その眼差しは映画のスクリーンへと向いており、そこで繰り広げられている展開は確かな高揚を感じさせた。


 誰かの“感じ”を再生するということは、五感情報はもちろんとして、抱いた感情なども全てを感じることが出来る。決して他人事ではない形で。当事者として。

 なぜなら、“感じ”は脳の単純な反応ではなく、身体全体に刻み込まれた経験を前提として成り立つ複合的な現象であり、“他者”として体感することはあり得ない。価値観とはその人間の歴史そのものなのだから。

 紗智の“感じ”を再生するということは、紛れもなく彼女自身になるということなのだ。


「……ふぅ」

「終わった?」

「うん」


 再生が終われば、自然と元のわたしに戻る。

 どうやら先に終えていたらしい紗智の問いかけに頷いた。

 体感した紗智の“感じ”は記憶として保存され、わたしの“感じ”でそれを参照することも出来る。

 けれど、別にそうする必要性は感じない。わたし達は既に言語化できない“感じ”を共有し終えたのだから。


「それじゃ帰ろうか」

「だね」


 残っていた珈琲を飲み干し、カフェを後にした。

 このように今のわたし達は誰もが極めて軽い気持ちでお互いの“感じ”を交換する。

 例えば美味しいものを食べた時。テーマパークで楽しい思いをした時。何か辛いことや悲しいことがあった時。その度にわたし達は限られた時間だけど自分とは違う誰かになっている。


 そうしているうちに生じる現象。それは、“私”の揺らぎ。

 わたしにとっての“私”は楠綾香でしかあり得ないのに、“私”は東雲紗智でもあると思える。

 両者を隔てる境界が曖昧になり、混ざり合い、溶けていく。そうして、どちらの存在もグラデーションのように捉えた新しい“私”を作り上げる。


 その現象は“シンクロナイズ”と呼ばれていた。“感じ”の共有を頻繁に行っていると、自分とは異なる肉体に対して自己愛が生じ始めることを指す。

 それは現代社会において悪いこととは扱われていない。むしろ推奨すらされている。新しいパートナーシップの形として。


 今のわたし達は昔よりも他人への思いやりが良く出来るようになっているらしい。

 全人類が“シンクロナイズ”しているような世界というのもあり得ない話ではなくなってきているのだろう。

 己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ。

 そんな教えが果たされる瞬間はきっと、もう遠くないところまで来ていた。

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