後悔
それは僕が小学五年生の時のことだった。
「おい、
道端で急に名前を呼ばれた。声の主は三十代くらいの男性だったが、見覚えはなかった。その男の顔が
「えっ……何で僕の名前を」
当然、僕は驚いたし、怖くなった。すぐに逃げ出すべきかと思った。
しかし、その男は距離を詰めてくることはなく、少し距離が空いたままに告げる。
「そんなことはどうだっていい。それよりも、だ。お前には小説家になる力がある。だから、今この瞬間から死に物狂いで小説家を目指せ。本を読み、知識を蓄え、文章を書け。十年だ。十年後にプロになっていなければ、俺はお前を――殺す」
僕は声を上げることも出来ない。男の言葉は真に迫っており、冷たいものが背筋を駆け抜けた。
「俺はお前を見ているからな。忘れるな」
そう言い残すと、男は去っていった。
恐怖から解放された僕は、途端にガタガタと身体が震えだし、へなへなとその場に尻をついた。目元からは涙が溢れていた。
その経験はそれからの僕にとって、まるで呪いのように纏わり続けた。
そうして、十年の月日が流れた。僕はプロの小説家になった。十年前に受けた男の言葉通りに。
彼の言葉を信じていたわけではない。十年後に殺しに来ることを怯えていたわけでもない。
けれど、確かに彼の言う通り、僕には小説を書く力があった。小説を書くこと自体を目的と出来る人間だった。小説を書く為の努力ならどんな物事でも苦ではなかった。
結果、僕は大学在学中にデビューすることが出来た。まだまだ新米作家ではあるが、これからも日々努力して邁進していこうと思っている。
そして、今なら分かることもある。あの男は、僕と同じ顔をしていた。いや、厳密にはもう十年ほど年を取った顔に見えた。
何にせよ、あれは未来の僕だったのだと思う。何らかの力でタイムスリップを可能としたのだろう。それが科学によるものなのか、超常的なものかは不明だ。
ならば、未来の僕の目的は何だったのか。
彼の言葉は『ファイト・クラブ』の一場面に少し似ていた。やりたいことをやらずつまらない仕事をしていたレイモンド・ハッセルに対し、「ぼく」が銃を突きつけながら夢を追うように駆り立てた場面に。
しかし、なぜそうする必要があったのか。
あの出来事は間違いなく僕にとって転機だった。本来進むはずだったレールから切り替えられたようなものだ。
あの時に感じた彼の憤懣は本当だと思う。嘘偽りのない、幼い僕に向いた怒りの感情だった。
もし仮に今の僕が過去に戻る機会を与えられたとしても、同じことをするとはとても思えない。あのような憤懣を抱いてもいない。
そう考えると、あれは今の僕とは違った人生を生きたとするのが妥当だろう。きっと、あの出会いがなかった僕が彼なのだ。早い内に小説家になることを志した僕と、そうじゃなかった彼。
彼もプロの小説家になれたには違いない。そうでなければ、僕に小説家になる力があるなどとは言わないだろうから。実体験がそれを断言させていたのだ。
ただ、そこで一つの疑問が湧き出る。それは、彼にとってその行いに何の意味があるのか、ということ。
コペンハーゲン解釈だろうが、エヴェレットの多世界解釈だろうが、もっと違った理論であろうと、彼にとって意味があるとは思えない。
例えばあの出来事がきっかけで、一つしかない未来が書き換わったとして、そこに彼はいない。そこにいるのはこの僕だ。
仮に彼だけが記憶を継続できるとしても、それではただいくらかの実績が得られるだけとなる。今の僕が持っており、これから得ていく小説家としての能力が得られるわけではない。自分のものではない実績を得たところで、小説家として嬉しいとはとても思えない。
もし並行世界として複数の世界が両立しても、それは単に僕の世界と彼の世界に別れただけだ。これもやはり彼に影響はない。
今の僕と彼はもはや別人なのだ。幼い時に分岐した人生が重なることはあり得ない。バタフライ・エフェクトのように様々な物事を変化させたことだろう。それゆえ、彼が彼として求める結果が得られることはないように思う。
では、彼の目的は一体何だったのか。
一つだけ仮説がある。今の自分とは違う、彼の人生を想像して辿り着いた結論。
それはきっと、後悔なのだと思う。
彼はどこかの時点から努力してプロの小説家になったに違いない。しかし、こう思わずにはいられなかったのだろう。もっと早くから頑張っていれば、必死に生きていれば、きっと今よりも素晴らしい小説家であれたに違いない、と。
そんな彼が何らかの形でタイムスリップする機会を得た結果、過去の自分が早い段階から小説家を目指すようにしようと決めた。そうすることが彼にとっては何ら良い結果を生み出さないと知っていても。
もし世界が単一であれば、彼は消滅したことになる。もし世界が複数であれば、彼は自らの後悔を晴らし、今の自分に納得して生きていくのだろう。
どちらにせよ、今の僕は彼の願いを背負っているというわけだ。
もし異なる未来に彼がいるのだとすれば、僕は敬意の念を伝えたい。彼が生み出す作品は彼だけのもので、決して僕には創り出せないものなのだから、卑下する必要はない、と。
僕は僕で、彼は彼で、お互いに頑張っていこう。小説家としての
そうして、僕は今日も今日とて執筆する。
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