ワープタクシー
俺は慌ただしく会社から飛び出た。スーツはすっかり乱れてしまっているが、正している余裕もない。
それはつい先程受け取った連絡が原因だった。妻が今にも出産しそうだというのだ。元より近日中にはということで出産入院していたが、それにしても予定より随分と早かった。
残念ながら俺の働いている会社は無慈悲で融通が利かず、定時までは退社させてはくれなかった。
なので、既に連絡をもらってから少しばかり時間が経過してしまっている。今のところ続報はないが、もしかすれば既に産まれてしまっているのかも知れない。
俺は出産の場に立ち会いたいと思っていた。
妻が頑張っているのだ。それを他人事でどうするのか。
傍にいるだけでもきっと力になれるはずだ。心細い思いをさせてはいけない。
そういうわけで一刻も早く病院に行く必要がある。
しかし、ここから病院までは数十キロとある。どうしたって到着まで一時間以上は掛かってしまうだろう。
それでも、可能な限り早い手段を考える。
この距離なら電車よりはタクシーの方が速いに違いない。
そう考えた俺は道路に出ると、急いでタクシーを探した。
すると、ちょうどすぐ傍の路肩にタクシーが止まっていた。空車になっているので、乗れるはずだ。運が良い。
俺が運転手に見えるように手を上げながら駆け寄っていくと、運転席から扉を開けてくれた。身体ごと突っ込むような形で乗り込んだ。
「う、運転手さん! S病院まで!」
「…………」
運転手はルームミラー越しにこちらを見た。
その顔は何とも形容しがたいものだった。とにかく平凡なのだ。まったく印象に残らない、視線を外せば忘れてしまうような、そんな顔。
そんな運転手は僅かな沈黙の後、こんな問いを投げ掛けてきた。
「もし火急の事態であれば、このタクシーに搭載されたワープ機能を使って、一瞬で目的地に到着することも可能ですが、いかがでしょうか?」
「ワープ……?」
俺は困惑する。ワープと言えば空間跳躍などと言われるようなあれだろう。
しかし、そんなものが実現しているとは見たことも聞いたこともなかった。
「支払いが少々特別なものとなりますが、それでしたら到着まで一分も掛かりません」
一分も掛からずに着く。その言葉は俺の心を一気に傾かせた。
今の俺には妻の出産に立ち会うこと以上に大事なことなどなかったのだ。
「わ、分かりました。金ならいくらでも払います。なので、一刻も早くS病院に連れて行ってください!」
「かしこまりました」
運転手はそう言うと、手元にある機器で何らかの操作をしていた。
程なくして、タクシーを出発させる。普通に道路を走っていくように思えた。
しかし、すぐにおかしなことになっていると気が付く。外の景色がどんどん歪んでいっているのだ。
その中をタクシーは平然と走っていく。こちらの気持ちが追い付く間もなく歪みが戻り始めたかと思えば、停車した。
「お待たせしました。S病院となります」
運転手の言葉に驚き窓の外を見ると、確かにそこは指定の病院の前だった。
これは現実なのか、はたまた夢なのか。
何にせよ、今は一刻も早く妻のもとに駆け付けるのが大事だった。
「りょ、料金はいくらになりますか?」
俺は例え法外な金額を取られても仕方がないと思っていた。
クレジットカードの限度額で足りるかどうかは分からないが、それでも構わない、と。
しかし、運転手は思わぬ返答をする。
「いえ、代金は既にお支払いいただいております」
「え……?」
俺は何かを支払った覚えはなかった。これといって変化があるとも思えない。
狐につままれたような気分となるが、既に支払いが完了しているというのであれば、それで良い。
「ありがとうございました!」
俺は運転手に礼を言うと、開いた扉から降りて病院に駆けて行った。
その後、俺は無事に妻の出産に立ち会うことが出来た。
到着してすぐのことだった。あのタクシーがいなければ、絶対に間に合っていなかった。
それからしばらく時が流れても、事あるごとにその不思議な体験を思い出した。
結局、俺は何を支払ったというのだろうか。
タクシーの運転手は男が降りた後、手元の機器を確認していた。そこには三十年と表示されている。
1kmにつき一年。それこそワープ機能を利用する為の代償だった。
運転手は次の客を求め、タクシーを発進させる。その車体は夕闇の中へと消えて行った。
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