身体を捨てよ、空へ出よう

 私達、人類が物理的な身体を捨ててから随分と経つ。


 事の始まりは、素粒子物理学の発展により、非物質領域を発見したことにある。

 素粒子よりも小さな物質は存在しない。つまり、素粒子とは物質と非物質との境に位置している。その向こう側は無である以上、当初は何もないと思われていた。

 しかし、ある時、素粒子は時に突如として消滅し、時に突如として無から生成される、という性質が発見された。

 それは、非物質の領域が存在し、素粒子が有から無に、無から有にと移ろいでいる証明だった。


 非物質領域は新たにイデア界と名付けられ、学者達の研究対象となった。

 初めはイデア界の観測から、そして、最終的にはイデア界へと意識を移す実験へと至った。

 その頃には既に人類の身体の機械化は進んでおり、意識のデータ化も可能となっていた為、そんな実験を行うことにも抵抗はなかった。

 実験は無事に成功し、人間は精神体としてイデア界で生きることを可能とした。


 イデア界では、思考が全て現実となる。

 それは哲学者ヴィトゲンシュタインの語った「写像」や「論理空間」という概念に近い。

 元より人間は論理的に存在し得る事実ならば「論理空間」に「写像」出来たが、その内の一つが現実だった。

 しかし、イデア界においては「論理空間」に「写像」した全てが現実となる。それぞれの論理さえ成り立っていれば、並行して世界を観測することが出来た。例えば、目前の机の上にグラスが置かれた世界と、置かれていない世界、というように。それらはどちらかでなく、等しく現実となった。


 思考を巡らせ、様々な世界を構築し、鑑賞する。

 それこそが精神体の営みだ。

 他者との対話とは、互いの世界を見せ合うことだった。時に影響を受けることもあれば、与えることもあった。時間も空間もないイデア界で、互いに満足いくまで対話することが出来た。


 精神体から物質の身体に戻ることも可能だったが、それを望む者はほとんどいなかった。仮に戻ったとしても、すぐに再び精神体になることを望んだ。

 そうして、人類全てが精神体に移行するまでそう時間は掛からなかった。

 もはや、物質に戻ることを考える者は誰一人としていない。そちらに干渉することは二度とないと言えた。


 私は時折、人類がいなくなってからの地球を観測することがある。興味本位だ。今の自分達にとっては無数にある内の一つの世界に過ぎないが、それが始源となった偶然には何か尊いものがあるように思う。

 地球では捨てられた文明が瞬く間に残滓へと変わっていった。自然は息を吹き返したように地上を埋め尽くした。

 その姿は、新たな文明が誕生するまでの間、穏やかな日々を過ごしているようだった。

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