Trompe le cerveau

トロンプ・ルイユTrompe-l'oeil』。

「目を騙す」という意味を持つそれは、平面の絵を立体的に見せたり、反対に立体ではあり得ない建築物を描いたり、錯覚を利用して様々な効果をもたらす技法の総称だ。

 騙し絵、またはトリックアートという呼称が馴染み深いだろう。


 俺はそこから着想を得て、最新の科学を組み合わせた新たな技術を生み出した。

 その名も『トロンプ・ル・セルヴォTrompe le cerveau』。

「脳を騙す」という意味だ。トロンプ・ルイユを発展させたものとして、そう名づけた。


 それはヘッドホン一体型のヘッドマウントディスプレイHMDを用いる。

 通常のVR映像は若干の違和感があるものだが、『トロンプ・ルイユ』の技法を利用することで、現実の視覚と等しい効果が得られるように調整した。

 更には視覚への錯覚だけでなく、聴覚への錯覚も組み合わせることで、装着者に想像以上の効果をもたらした。

 視覚と聴覚を入り口とした、脳全体への錯覚だ。


 俺も初めは半信半疑だったが、『トロンプ・ル・セルヴォ』は利用者の脳の感覚を自由に操ることが出来た。

 無論、様々な検証や調整が必要だったが、実験を重ねたことで指定の効果を得る為に必要な映像情報や音声情報は、おおよそながら把握することが出来た。

 特定の錯覚を引き起こすことで思考の誘導はおろか時間感覚の伸縮さえも可能としてしまった。

 そうして、俺は確信を得た。『トロンプ・ル・セルヴォ』は脳を操作クラックする技術なのだ、と。


 基本的には脳の報酬系を利用する形となる。脳に『トロンプ・ル・セルヴォ』がもたらす快楽を覚え込ませるわけだ。そうすることで、脳はこちらの指示に従いやすくなる。

 俺は『トロンプ・ル・セルヴォ』を仮想体験が可能な機器として販売した。それは嘘ではない。

 しかし、その体験には利用者に特定の効果が与えられるようになっている。こちらが与えられる効果は全てパターン化されており、俺が発信すればオンラインで自動的に組み込まれるようにした。


 現在は利用者が自ずと知人に広めたくなるような心理誘導を設定しており、着実に利用者は増え続けている。その数だけ俺の支配下の人間がいると言っても過言ではない。

 全てが順調に進んでいた。世界の全てを支配するのも時間の問題だろう。

 まるで俺が望んだ通りに世界が動いているとすら思える。

 これからが楽しみだ。




「『トロンプ・ル・セルヴォ』か。彼は恐ろしい物を開発してしまったものだ」

「そうですね。これがあれば、世界を支配することも可能となるかも知れません」

「だからこそ、この技術は封印されねばならない。世界の安定の為にな。強力な技術は争いを生むだけなのだから。事前に情報を入手することが出来て幸いだった。彼には自らの生み出した技術で眠り続けてもらおう」


 見るからに老年だが眼光だけは鋭い男と身なりの整った若い男が会話する。

 彼らの視線の先では病院着を纏った一人の男がベッドに寝かされていた。

 頭部には専用のHMDが装着されている。それは寝かされている彼自身が開発したものだった。

 腕からは点滴の管が、胸部や手首足首に心電図用の電極のコードが、それぞれ伸びていた。


 HMDの内側では両目が開かれており、視覚と聴覚から電子情報が入力され続けている。

 彼は『トロンプ・ル・セルヴォ』によって夢を見続けているに等しい状態だった。

 老年の男は告げる。


世界を騙すTrompe le monde。各々の主体と世界が等しいのであれば、これはまさに君の世界を騙す行いとなるだろう。自らの願いが全て叶う幸いに満ちた世界でその生を終えると良い」

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