世界の見え方

 湯上がりで少し火照った肌を覚ますにはちょうど良い風が吹いていた。

 目の前には、細く伸びている石畳の歩道と、どれも見事に形を整えられた草木、そしてさやさやと心地よい音を立てて石橋の下を抜けていく清流。

 日本庭園だ。五分ほどで一周できる広さとなっている。先に進めば、清流の源として大きな池が待ち構えているようだ。


 浴衣姿の僕の手に唯一握られているのは、カメラ。最新のミラーレス一眼カメラだ。

 それは分かりやすく言うなら、一眼レフと呼ばれるカメラの仕組みを、デジタルで再現したものを指す。その高い性能に反して軽量なのが一つの特徴だ。今持っているカメラなど本体の重量が500g程度しかない。気軽に持ち運びが可能だ。

 僕は買ったばかりのそれを持って、有給を使い箱根の温泉旅館へと泊まることにした。休養と試写を兼ねたものだ。


 今はその温泉旅館に併設されている日本庭園へとやって来ていた。

 到着してまずは温泉に入ったが、やはり逸る気持ちを抑えきることは出来ず、烏の行水さながらに部屋へ戻ると、こうしてカメラを片手に撮影をしに来た、というわけだ。

 旅館の魅力の一つとしてこの日本庭園が紹介されていたので楽しみにしていたが、確かに思わず感嘆の息を漏らしてしまうような和の風情を醸している。

 平日の為か、人気はない。好都合だ。


 ふいと見上げると、たった一つしかない庭園側に面した部屋の窓が確認できた。

 確かこの温泉旅館で最上級の部屋だ。庭園が綺麗に一望できるらしい。あそこから見下ろす光景はまた違って良いのだろうな、と羨ましく思う。目が眩むような金額だった為、とても手が出せなかった。一体、どんな人物があの窓から眺めているのだろうか。


 まあ、気にしても仕方ない。今は目の前のことに集中するとしよう。

 僕は石畳の歩道を進み、目についたものを片端から撮影していく。

 針葉が綺麗に切り揃えられた松の木。新雪のような白砂の中にそびえ立つ大岩。はらりはらりと池に揺れ落つる葉。澄み切った水の中を生き生きと泳ぐ魚達。バレリーナのように水面に立つ白鳥。

 そのどれもが自ずとシャッターを切らせる。被写体が動いても自動でピントを合わせてくれるAF機能の優秀さにも驚かされた。


 瞬く間に時間が過ぎていく。

 僕は庭園の中を何周も歩き回り、存在感があり良く目を惹くものから、その脇にある細やかなものまで、様々な被写体を相手に撮影し続けた。

 そうして、気づけば二時間ほどが経過していた。そろそろ日も傾こうという頃だ。


 流石にこの周を終えたら部屋に戻ろうか、と考えたところで、庭園の中間辺りに位置する四阿あずまやに初めて人影が見えた。

 浴衣を着た女性が座って本を読んでいる。ただそれだけなのに、僕は磔にされたように目が離せなくなった。


 後ろで結われた濡れ烏のような黒髪と雪花石膏アラバスタの如き乳白色の肌は鮮やかなコントラストを生み出しており、浴衣の上にくっきりと浮かび上がった凹凸は女性らしいたおやかさを感じさせ、また化粧の施されたその顔立ちは美少女とも美女とも言い切れない曖昧だけれど確かな美を描き出していたので、四阿に設置された女神の彫像かと見紛うほどだった。


 その姿はあまりに絵になっている。なり過ぎている。

 僕は気がつくとその光景をカメラのレンズに収めていた。何かに操られるようにシャッターを切る。

 すると、彼女のひとみがつつと流れ、こちらを向いた。怜悧な視線が僕を射抜く。

 まずい。これでは盗撮だ。先んじて頭を下げることにする。


「す、すいませんっ! 断じて盗撮するつもりじゃなくて……!」


 しかし、彼女は微塵も動じた様子を見せず、栞を挟み込んで本をパタリと閉じると、スッと音もなく立ち上がった。

 そして、鷹揚とした足取りで傍に寄って来たかと思えば、こちらを少し見上げて形のい唇をそっと開く。


「撮影した写真を見せていただけますか?」

「えっ、あっ、はい、どうぞ」


 僕は手を戦慄わななかせながらも、たった今撮影した写真を表示して手渡す。

 彼女は白魚のような指先で恐る恐るとカメラを手にすると、表示された写真を見て感嘆の声を上げた。


「へぇ、これは何とまあ……自分なのに自分でないみたい……まるで一つの絵画のようですね。少し恥ずかしいですけど」


 頬をほんのり朱に染め、はにかんで見せた。

 てっきり言い咎められると思っていたので、意外な反応に驚かされる。

 どういうことだろう。僕の頭の中はすっかりパニックになっていた。


「他の写真はどうすれば見れるのですか」

「えっと、ここをタッチして貰えれば……」


 彼女は僕が撮影した写真を一つ一つ眺めていく。その眸は静かに煌めいているように見えた。


「なるほど、これがあなたに見えている世界なんですね……」


 今日撮影した分の写真を見終えた彼女は、そんな感想をぼそりと呟いた。

 未だ混乱したままの僕は問いかける。


「あの……勝手に撮影したことを怒らないんですか?」


 はて、と彼女はおとがいに指を当てて疑問そうにするが、程なくして得心したように口を開いた。


「実は、部屋からあなたの姿が見えたのですが、ずっとこの庭園をぐるぐるしてらしたから、一体何をしているのだろう、と気になってしまいまして、こうして見に来てみたんですよ。なので、撮影して貰えたのは嬉しかったです」


 その告白は驚くべきものだったが、それよりも引っ掛かるものがあった。

 ……部屋から見えた?


「その部屋ってもしかして……」

「あそこが私の泊まっている部屋です」


 彼女が指差したのは、この温泉旅館で最上級の部屋。この素晴らしい庭園を一望できる、僕が羨んでいた場所。


「え、ええええぇぇぇぇっ!?」


 思わず声を上げてしまう。

 まさかこんな若い女性があの部屋に泊まっているとは想像もしていなかった。

 ふふ、と彼女は微笑を浮かべると、更に驚きの提案をしてくる。


「良かったら、私の部屋に来ませんか? あの場所から見る景色は、きっとあなたの目には素敵に映るんじゃないでしょうか。その代わりと言ってはなんですが、少しで構いませんので私のお話相手になってくれると嬉しいです」


 その提案は僕にとって渡りに船と言えたが、浮世離れして見える彼女に罪悪感が湧き上がる。


「い、良いんですか……? こんな初めて会った相手と部屋で二人きりだなんて、その……」

「私はカメラに詳しくはありませんが、そんな風に綺麗で豊かな世界を見られる人に、悪い人はいないと思います」


 彼女の紡ぐ清明な言葉に胸を打たれる。

 果たして、彼女は何者なのか。きっと只者じゃない。

 けれど、僕はどうしようもない程に魅せられてしまったのだろう。

 あの部屋から見る景色にも興味はあるが、それ以上に彼女のことをもっと知りたいと思えた。


「……はい、ぜひともお願いします」

「良かった。それでは行きましょうか」


 そうして、僕達は旅館の側に足を向けると、並んで石畳の上を歩み始めた。

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