殴られ屋

「ちっ、俺じゃないのに……」


 男は苛立ちを隠せない様子で帰路に就いていた。

 その身にはくたびれたスーツを着ており、手には使い古したビジネスバッグを持っている。

 歩いていると、数時間前の上司の偉そうな顔が嫌でも頭に浮かんでくる。

 部下に説教をする自分に酔った顔。それが理不尽な内容だとは微塵も思っていない。

 また明日もあの顔を見なければならないと思うと、やりきれない思いでいっぱいだった。


「飲みにでも行っちまうか……?」


 男はそんな風に考えながら周囲を見回す。ちょうど飲み屋が立ち並ぶ道を歩いており、飲んで帰るならこの中から探せば良さそうだった。

 しかし、ふと視線を向けた薄暗い路地に奇妙な看板を見つけた。


「殴られ屋?」


 確かにそう書いてあった。すぐそこにあるビルの階段を上った場所にあるらしい。他には風俗店くらいしかないような裏通りなので、アングラ感が如何にもな様子を醸していた。

 かなり前に歌舞伎町の辺りでそれを商売としていた人物がいるという話を聞いた覚えはあったが、店舗としてあるとは思いもしていなかった。


 男の心中に興味が湧く。たった今も腹の底で煮えくり返っている上司への苛立ちを解消するには良いかも知れない。上司の顔を思い浮かべながら、思い切り殴ることが出来ればスッとするに違いない。

 人を殴る、ということに抵抗はあるが、そこにほの昏い魅力を感じてしまうのも事実だ。これはきっと男性ならば誰もが分かってくれることだろう。狩猟時代の本能というやつかも知れない。

 向こうもプロだ。こちらが本気で殴っても、上手く衝撃を軽減して当たってくれるのだろう。そうでなくては、とても商売にはならない。いくら金になろうとも、怪我をしてしまえば元も子もないのだから。


 ひとまず中に入ってみることにしよう。そうして、男は『殴られ屋』に入店した。

 扉を開くと、一つの大部屋に迎えられる。個室はなさそうだった。

 店内は瀟洒な雰囲気だった。床は大理石のような物で覆われており、滑らかだ。何となく殺伐としてそうなイメージだったので、男は意外そうな顔で部屋内を見渡す。


「いらっしゃいませ」


 男が待っていると、すぐに店員が姿を見せた。中肉中背の男性だ。その肉体は鍛えている様子がなく、殴られ屋には見えない。ただの店員なのだろう。


「当店のご利用は初めてですか?」

「あ、はい、そうです」

「では、まず初めに当店のシステムをご説明させていただきます」


 店員は微笑を浮かべ、慣れた様子で説明を始めた。


「コースは一つきり、二分間コースのみとなります。料金は五千円となっております」


 たった二分で五千円か、と男は渋面を作る。

 しかし、店員が事も無げに述べた内容には驚愕した。


「二分間、私に何をしても構いません」

「えっ、あなたが殴られ屋なんですか。それに何でもって……」

「はい、私が殴られ屋です。そして、何でもはその言葉の通りです。殴られ屋、と銘打ってはおりますが、ただ殴るだけではなく様々なことを自由に行えるのが出来るのが、当店の特徴となっております。こちらをご覧ください」


 店員は自分の片腕を指し示すと、もう片方の腕で曲げてはいけない方向へと曲げ始めた。ギリギリと嫌な音が鳴るも、そのまま曲げていき、遂にはボキッと鈍く重い音がした。

 男は突然、目の前で起きたバイオレンスな光景に言葉も出ない。しかし、唖然とする男を他所に、店員は平然とした顔をしている。

 そして、その意味はすぐに明らかとなった。店員の腕の骨は紛れもなく折れたはずだったのに、彼は数秒の後に普通に動かし始めたのだ。


「て、手品ですか?」


 男は思わずそう問いかけた。

 しかし、店員はゆるゆると首を横に振って、驚きの事実を告げる。


「いえ、私は不死身なのでございます。それゆえ、今のように腕の骨を折ってもすぐに元通りになるというわけです」

「…………」


 男は改めて言葉を失くした。目の前の店員が突如として得体の知れない存在と化した気分だった。

 ただ、もし本当に不死身だというのであれば、殴られ屋であるにも関わらず鍛えている様子がないことも理解できた。怪我をしないように殴られる必要性がどこにもないのだから。


「また、こちらで道具もいくらか用意しておりますので、ご自由にご利用いただけます」


 店員は一度奥に引っ込むと、台車に載った箱をガラガラと引っ張り出してきた。

 そこには一般に武器と呼ばれるような物が無造作に放り込まれていた。釘バット、鉄パイプ、火かき棒のような長物に、包丁やナイフのような刃物、手を守る為のグローブ、その他にも多種多様な道具が取り揃えられている。

 今更ながらに地面が滑らかである意味に気がつく。部屋に僅かな傾斜があることも感じ取れた。傾斜の先には排水溝があるに違いない。飛び散った血を水で洗い流す為だろう。


「さて、どうなさいますか?」


 店員に問われた男はゴクリと喉を鳴らし、少し考え込んだ後、財布から五千円札を取り出した。





 その後、男が二分間で店員に対して行った暴力については語るに及ばない。

 彼はそれから頻繁にその店へと通った。そうして、主に上司に対するストレスを解消し続けた。

 しかし、ある日、男は暴力事件を起こして警察に捕まってしまう。

 被害者は彼の上司で救出された時には、九死に一生を得るような状態だった。

 男は警察官に対して次のように語った。


「自分でも驚くような怒りが込み上げてきて、殴ってスッキリしなきゃと思って、つい」


 近頃、似たような理由で暴力事件を起こす者が急増しており、警察官は一様に首を傾げていた。

 その者達が共通して『殴られ屋』を利用していたことは、今現在も知られていない。

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