千紗と夏美の酒日和

 五限終わりの十八時にゼミの教授の部屋へとやって来た私は、その扉を前にして立ち尽くしていた。

 部屋の電気が消えている。つまり、不在ということだ。

 来週の発表について少し相談したくて来たのに……。

 もしかすれば、少しどこかに出ているだけかも知れないので、待ってみようか。

 そんな風に考えていると、声を掛けられた。


「ねえ、君。山辺やまのべ先生に何か用事?」

「え、あ、はい、そうです」


 急に話しかけられて驚きながらも、私はそちらを向いて返事をする。

 そこには一人の女性が立っていた。綺麗な人だと思えた。シャツにジーンズというシンプルな出で立ちだけど、とても様になっている。


「残念だけど、今日はもう帰っちゃったよ。わたし、昼に講義で会ったんだけど、今夜は家でやらなきゃならないことがあるって言ってたからさ」

「そうなんですか……わざわざありがとうございます」

「ゼミ生?」


 私が頷くと、彼女は「なら、わたしの後輩だね」と言った。

 こちらは三回生なので、彼女は四回生だろう、と私は察する。


「わたし、夏美なつみ。君は?」

「え、と……千紗ちさ、です」


 彼女が名前だけを言ったので、こちらもつい名前だけを言ってしまった。

 きちんとフルネームで名乗った方が良かっただろうか。


「ちーちゃんだねー。あ、そうだ」


 彼女は気に留めた様子もなく、ポンと何かを思いついたような素振りをする。


「ここで会ったのも何かの縁。もし良かったら今から一緒に飲みに行かないかい、お嬢さん?」

「えっ」


 私は急な提案に戸惑った。出会ったばかりの相手にそんな誘いをされたのは初めてだった。


「後輩に金を出させるような真似はしないからさ。それとも、これから予定があったりする?」

「ない、ですけど……」

「無理にとは言わない。もちろん、嫌なら断ってくれて構わないよ」


 決して嫌ではなかった。夏美はゼミの先輩だと言うし、とても綺麗な人だし、こちらとしてもお近づきになれたら、と思ったりもする。

 けれど、私は飲みに行くということに関して難色を示した。


「その……私、お酒があまり好きじゃないんです」

「体質的に弱いとか?」

「いえ、飲めることは飲めるんです。ただ、これまでも何度かゼミや学部の友達との飲み会に行ったことはあるんですけど、別に美味しいと思えなくて。これならジュースの方がいいかな、って」

「なるほど」


 彼女はニヤリと笑みを浮かべた。まるで、良い獲物を見つけた、というような目つきだった。


「そんな君だからこそぜひ連れて行きたい。わたしが教えてあげるよ、お酒の楽しみ方ってやつをさ」


 そうして、押しに弱い私が半ば強引に連れて行かれた先は、大学の最寄駅の傍にあるダイニングバーだった。


「ここはわたしの行きつけでね。良い店だから知っておいて損はないと思うよ」


 夏美が重そうな扉を開き、中に入る。私もその後に続いた。


「おや、こんばんは、夏美ちゃん」


 正面にあるカウンターの中で出迎えてくれたのは、風格のある白髪の男性だった。


「こんばんは、マスター。窓際のテーブル席使うねー」

「どうぞ」


 どうやら彼がこの店のマスターらしい。

 夏美は親しげな様子でやり取りをする。私は軽く会釈だけした。

 店内は広々とした空間で、ジャズと思しき音楽が流れており、一言で言えばオシャレな雰囲気だった。

 席は入ってすぐにあるカウンターと、奥のテーブルに分かれていた。全部で四十席程度だろうか。私達以外に客はいない様子だ。


 夏美が選んだのは窓際にある四人用のテーブル席だった。そこからは駅へと向かう人々の姿を見ることが出来た。

 私達が着席すると、マスターはおしぼりとコースター、そしてメニューを持って来てくれた。


「メニューにはお酒の名前しか載っておりませんので、分からないことは何でもお聞きください。さっぱりな味わい、甘い味わいのように漠然とした注文でも構いません。それでは、失礼いたします」


 そう言い残してカウンターに戻って行った。


「さ、ちーちゃんは何が飲みたい?」


 私は差し出されたメニューのページに視線をやるが、酒の名前を見てもさっぱり分からない。


「夏美さんは何にするんですか?」

「そうだねぇ……わたしは山崎十二年にしようかな」


 彼女が指差したのは『Japanese Whisky』と書かれた部分にある一つだった。

 私がどれにするか困っていると、夏美が助け舟を出してくれる。


「あはは、まあ、名前だけ見ても決めらんないよね。そんな時はさっきマスターが言ってたみたいに、こんな味がいいって頼んでみるといいよ」

「わ、分かりました」


 そうして決まると、マスターはこちらから呼ばずとも注文を取りに現れた。


「わたしは山崎十二年をロックで」

「私は、さっぱりしたのが飲みたいです」

「炭酸は大丈夫ですか?」

「あ、はい、大丈夫です」

「かしこまりました」


 カウンターに下がったマスターはすぐにドリンクの用意を始めた。

 アイスピックを用いて氷の形をその場で整えたり、細長いスプーンのような物でクルクルと回したりする姿が印象的だった。一連の動作は淀みなく、美しいと思えた。

 程なくして、マスターは二つのグラスをその手に持ってやって来た。


「お待たせしました。こちらは山崎十二年のロック。こちらはヒプノティックのソーダ割りとなっております」


 夏美の前には琥珀色の液体が入った、背が低くドッシリと重そうなグラス。

 そして、私の前には透き通るような水色の液体が入った、背は普通のコップ程度だが薄く軽そうなグラス。中には1/8程に切ったレモンが沈んでいる。


「わぁ、綺麗……」


 私は思わず感嘆の溜息を漏らす。まるで冬の澄んだ青空のように思えた。


「今回はこちらのヒプノティックを使用しました。トロピカルフルーツのさっぱりとして甘酸っぱい味わいが特徴です。ぜひ瓶もご覧になってください」


 マスターはわざわざ酒瓶も持って来てくれた。ヒプノティックというその酒は細長い円錐型の瓶に入っており、そちらは濃い水色をしていた。炭酸水を加えることで透き通るような色合いになっているらしい。


「それでは、どうぞごゆっくり」


 再びマスターがカウンターに戻ったところで、私達は互いのグラスを手に持つと、私は控えめに夏美は元気よく「乾杯」と口にして、軽く触れ合わせた。その後、それぞれグラスの縁に口をつける。


「あっ、美味しい……」


 マスターの言っていた通り、さっぱりしながらも甘酸っぱさを感じる。スーッと染み込んでくるようだ。クドさがまったくないので、気をつけなければどんどん飲んでしまいそうになる。


「わたしも飲んだことあるけど、美味しいよね。たまにそれしか飲まない人なんてのもいるくらいなんだよ」

「へぇ、そうなんですか」

「今回はシンプルにソーダ割りにしたんだと思うけど、グレープフルーツ割りなんかもオススメだよ。一層スッキリした味わいになって、爽快感が抜群で夏にピッタリ」


 そんな風にスラスラと話す姿は、夏美の酒に関する経験や知識を物語っていた。


「良かったらこっちも飲んでみてよ。山崎十二年。日本のウイスキーだよ」


 私は彼女が差し出してきたグラスを受け取る。

 ウイスキーをこんな形で飲んだことはないので、どんな味なのか見当もつかない。

 ただ、以前飲んだハイボールはほのかな苦みを感じて、あまり好きになれそうな味ではなかった。炭酸水のお蔭で何とか流し込むようにして飲んだ記憶がある。


「あ、先に匂いを嗅いでみて」


 私は言われた通りにすると、ハッと驚くことになる。


「甘い匂い……蜂蜜みたい」

「そう! まさに蜂蜜のような甘い匂いなんだ。他にもカラメルとかバニラとか、一言で言うなら華やかな香り、って感じかな」

「なるほど……」


 私は頷き、グラスの縁に口をつけた。少し粘度を感じる液体が口内に流れ込む。


「どう?」

「……何というか、表現が難しいです」

「まあ、色々な味がぶわっと押し寄せる感じだから、慣れない内はね。美味しい? 美味しくない?」

「美味しい、と思います」


 多少、「うっ」と思う点もあったが、豊かな風味でおおむね美味しいと感じた。


「ウイスキーは飲めば飲むほど、美味しく感じるようになるよ。正直、わたしも初め飲んでた頃、四年前なんかはあまり美味しいと思ってなかったしね。舌がその繊細な味わいを感じ取れるようになっていくんだ。気づけば、ちょっとした苦味にも良さを感じたりして」

「そういうもんなんですね……」


 私は彼女の言葉に納得する。

 良くないと感じた部分も飲んでいく内に良いと思うようになる要素なのかも知れない。

 しかし、何か気になる文言が含まれていたような……。

 私は微かな違和感を持ったが、その正体に気がつくことはなかった。


「味覚って色々な要素が関わってるんだよ。知識とか経験とかね。例えば、ちーちゃんはウイスキーってどんな風に出来てるか知ってる?」

「いえ、知らないです」


「凄くざっくり説明するけど、まず大麦やトウモロコシのような穀物を発酵させて、蒸留することで無色透明の原酒を作る。それから、その原酒を木製の樽に詰めて熟成させる。ウイスキーのこういう色合いは樽から移ったものなんだ。風味も樽の影響をとても受ける。だから、どんな樽に詰めるかによって全然違ったウイスキーになったりもするんだよ。ちなみに、山崎十二年の十二年は熟成期間のこと」


「何ていうか、凄い時間を掛けて出来てるんですね……」

「うん。手間暇とか歴史とか色々なものが積み重なってこの一杯は出来てる。ウイスキーは時間を飲む飲み物、って言った有名な人がいるんだけど、まさにその通りだとわたしも思う。色合い、香り、味の豊かさからこのウイスキーはどんな環境で出来上がったんだろう、って想像するのは何も知らないで飲む人には決して出来ない贅沢なんじゃないかな」


 私は夏美の言葉に感銘を受けて、思わず言葉を失くしてしまう。

 こんなに酒のことを熱く語る人間は身近に一人たりともいない。誰も彼もが酔う為に飲んでいるような様子だ。私はそれが気に入らなかったのかも知れない、と今なら思える。

 目の前にいる人は純粋に酒が好きで飲んでいる。その姿はとても輝いて見えた。


「今でもちーちゃんはお酒のことが好きじゃない?」

「……私、夏美さんのお蔭でお酒のことが気になり始めたかも知れません」

「それは嬉しいな。一人で飲むのも好きだけど、こうして誰かと飲むのも好きだから」


 私の言葉に夏美はニコリと微笑んで見せた。

 その後、私達は追加で二杯ずつ飲んでから店を出た。発表に関するアドバイスも色々として貰えた。

 駅で別れ際に連絡先を交換し、夏美は「もし良かったら、また誘うよ」と言ってくれる。私は「喜んで」と答えた。

 もしかすれば、大学に入ってから一番ドキドキした出会いかも知れない。そう思えた。


 しかし、次の日。再び教授のもとを訪れた私は驚かされることになる。


「いや、四回のゼミ生に女子はいないよ。今は男子だけ」


 私は教授に「昨日、夏美さんっていう四回のゼミ生に会って、飲みに連れて行ってもらったんです」と話したら、そんな答えが返ってきた。

 なら、私が出会ったあの人は一体誰なのだろうか。

 私は動揺させられる。教授も困った様子だった。


「夏美……どこかで聞いた覚えのある名前ではあるんだが……」


 と、そんなところでコンコンとノックが聞こえた。


「どうぞ」


 教授が言うと、部屋に扉を開けて入って来たのは噂の張本人、夏美だった。


「あれ? ちーちゃんじゃない」


 夏美はキョトンとして言うが、私は即座に彼女を示して教授に伝える。


「先生、この人ですよ! 夏美さん!」

「あー、そう言えば君の名前は夏美だったか。いつも櫻田さくらだ君と呼んでるから」


 のほほんとした口調の教授に、夏美はジトッとした視線をぶつけた。


「山辺先生、人の下の名前くらい覚えててくださいよ。レポートとかにいくらでも書いてるでしょ」

「いやぁ、すまんすまん。真壁まかべ君。彼女は四回生ではないよ」


 教授が私に向けてそう言うと、夏美は何の話か理解した様子だった。


「ああ~、名前以外は何も言ってなかったっけ。改めまして、わたしは櫻田夏美。大学院修士課程の二回生だよ。よろしくね、ちーちゃん」

「あ、はい、三回生の真壁千紗です、よろしくお願いします……」


 今更ながらに昨夜の違和感の正体に気がつく。

 彼女は自分がウイスキーを初め飲んでいた頃のことを『四年前』と言っていた。

 けれど、仮に四回生で四年前では大学生ですらない。二十歳はおろか十八歳の時から堂々と飲んでいたことになってしまう。

 その可能性がないとは言えないが、それにしては明け透けに話し過ぎだ。


 私は彼女が大学院二回生であるということに納得する。

 確かに、夏美が既に卒業していても私はゼミの後輩であるかも知れない。四回生だと勝手に勘違いしたのはこちらだ。

 しかし、私は何となく釈然としない思いでいっぱいだった。

 わざと黙ってたんじゃないか、この人……。


「ちーちゃん、どしたの? 変な顔して」

「……いえ、何でもないです」

「あ、今日も飲みに行こうぜぃ」

「えぇ……昨日行ったばかりですよ?」

「そんな時もある! 昨日も今日も酒日和さ!」

「……まあ、いいですけど」


 こうして、私は酒をとにかく愛する大学院生、櫻田夏美と関わるようになったのであった。

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