少年少女はとにかく甘やかしたい
「さて、始めるとしようか」
「いつでもいいよ」
野性味を感じさせる無造作な短髪の少年。彼の名前は
落ち着いた印象を受ける長髪の少女。彼女の名前は
場所は清水家の加奈の自室だ。全体の雰囲気としては質素ながら、所々に少女らしさを感じさせる可愛らしい小物が置かれていた。
加奈はクッションの上に正座している。その髪は水滴が落ちない程度の湿り気を帯びており、艶やかな様を見せていた。
紘輝は加奈の後ろに膝をついて座っている。その手にはコンセントを繋いだドライヤーが握られていた。
「俺のドライヤー捌きで君より上だと証明してみせる」
「自分でした方が良かった、なんて私が思わないといいね」
「ぬかせ。この戦い、勝つのは俺だ!」
「いいえ、勝つのは私だよ!」
両者の間を闘気に満ちた火花がバチバチと飛び交う。
これより始まろうとしているのは――甘やかし対決、なのだ。
事の顛末はおよそ数時間前に遡る。
同じ高校、同じクラスに通う紘輝と加奈は教室で親しげに会話していた。
何を隠そう、二人は付き合っており、クラス公認の仲だ。それゆえ、彼らが仲睦まじく話していても、妬み嫉みの念を抱く者はいない。
「最近、
「私も
修は紘輝の三歳下の弟であり、現在中学二年生になる。更に紘輝には
春は加奈の四歳下の妹であり、現在中学一年生になる。更に加奈には
そう、紘輝と加奈はどちらも三兄弟の最年長者だ。加えてどちらも過保護な程に世話焼きな面が共通している。
その背景には両親が共働きである為、家事や弟妹の世話を担ってきたことが関係していた。特に二人とも根が真面目なので、両親の負担を減らそうと自ら率先してそれらを行ってきた。
このクラスになってから知り合った紘輝と加奈は、そのような共通点をきっかけとして交流を始め、付き合うまでに至った。
しかし、二人とも自らの兄弟一筋に生きてきた為、恋人らしい振る舞いというのが良く分からずにいる、というのが実情だったりする。
「仁美はまだまだ俺に甘やかさせてくれるけど、あと数年もすれば離れていってしまうのだろうか……」
「蓮くんもお姉ちゃんって呼んでくれなくなるのかなぁ……」
紘輝と加奈は二人して「はあ」と大きな溜息を吐いた。
「甘やかし成分が足りない。これは由々しき事態だ」
「分かる。このままじゃ栄養不足で眩暈が起きちゃう」
謎の理解力で互いに頷き合う二人。
そこで紘輝はふと一つの提案をしてみる。
「なあ、加奈。ちょっと俺に甘やかさせてくれないか?」
「いやいや、紘輝くんこそちょっと私に甘やかさせてくれない?」
「俺の方が上手く甘やかせると思うんだ。何てったって長男力に優れてるから」
「そんな馬鹿な。私の長女力に勝るものなんているはずもないよ」
「ははは」
「ふふふ」
紘輝と加奈は乾いた笑いを浮かべる。ピリついた空気が流れていた。
「……どちらの甘やかす能力の方が高いか、勝負だよっ!」
「上等だ! 白黒つけようじゃねえかっ!」
互いの譲れない矜持がぶつかり合う。
そうして、紘輝と加奈は甘やかし対決をするに至った次第である。
ちなみに、クラスの皆はそんなやり取りをする二人を生暖かい目で見守っていた。
放課後、帰り道を歩きながら具体的な内容について話し合った。
勝負は、互いに一つずつ得意だと思える方法で相手を甘やかし、先に降参した方が負け、というルールに決まった。
ジャンケンで先攻後攻を決めた結果、紘輝が先行となった。そんな彼は真剣な顔で告げる。
「それじゃ、加奈。先に風呂に入ってくれ」
「……えっ?」
突然の言葉に加奈は顔を赤くした。その意味について色々と考えさせられ、高校生という身分ではまだ早いと思っている、性的な行いを想起してしまったのだ。
しかし、紘輝はそんな加奈の動揺を露知らず、言葉を続けた。
「修と仁美の髪を乾かし続けて幾星霜、俺のドライヤー捌きは至高の域に達している」
「あ、そういうこと……」
加奈は自分の勘違いを恥じたり、紘輝の紛らわしい言葉にムカッとしたりしつつも、彼の言葉を受けて提案する。
「じゃあ、うちに来る? 日が暮れるまでは誰も帰って来ないから」
「お、おう……そうだな」
そうして、甘やかし対決は加奈の部屋で行われることに決まった。
しかし、紘輝は彼女を家の前まで送ったことは多々あれど、中に入るのは初めてだったので、自分の言葉が招いた状況に少なからず動揺した。
加奈の部屋に一人取り残されて悶々としたり、風呂上がりの加奈が漂わせる色気にドギマギさせられたりしつつも、いよいよ対決の火蓋が切って落とされるのであった。
紘輝はドライヤーのスイッチをオンにすると、加奈の髪に当て始めた。
程なくして、加奈は戦慄する。
(何て的確な温風の当て方……! 自分の髪でもないのに、温風を熱く感じてしまう距離が完璧に分かっているみたい……ドライヤーは軽く揺らすことで熱を分散させながら、髪を引っ張ってしまうようなこともなく、撫でるようにして解きほぐしていく……!)
その淀みなさは山頂から湧き出した水が流れていく清らかな川の如し。
紘輝はこれまでにどれだけの回数、弟と妹の髪を乾かしてきたのだろうか。
何百? 何千? 何万?
彼はきっとその度に、より良く出来るように、と改善し続けてきたのだろう。
そうして、一歩ずつ積み重ねてきた技術は、今や確かに至高の域に達していると言っても過言ではなかった。
「っ……」
加奈はその快適さに思わず声を漏らしそうになる。しかし、それは敗北を認めることと同義。ならば、ここで屈するわけにはいかない。己がこれまで長女として培ってきた矜持の為に。
覚悟を決めた彼女は紘輝に見えないようにしながら、自分の内太ももに指を這わせると、余分な肉を掴んでつねりあげた。
当然、激しい痛みが襲う。けれど、その痛みは紘輝が頭部に与えてくる快楽から意識を逸らさせてくれる。
(くぅっ……乾かし度合での温度の変え方も絶妙……ここまでのドライヤー捌きは私でも出来ない……でも、負けるわけにはいかない!)
加奈は自らの内太ももをつねりながら何とか堪える。少しでも気を抜けば、その快適さに身を委ねてしまいそうだった。
そして、一瞬にも永遠にも感じられるような時間の果てに。
紘輝はドライヤーのスイッチをオフにした。その音が鳴り止む。
「どうだ、俺のドライヤー捌きは。これ以上にない快適さだろ?」
自信ありげに紘輝は問いかける。しかし、加奈は内心の高揚を隠し、気丈に振る舞ってみせる。
「ま、まだまだだね……これじゃ私より上だとはとても言えないよ」
「何、だと……」
紘輝はガクッと肩を落としてその場に跪いた。相当なショックを受けていた。
内心では相当な焦りを覚えた加奈だが、今が好機と一気呵成の攻めに転じる。
「次は私の番だよ。これで紘輝くんが負けを認めれば、私の勝ちだね」
「……俺が負けを認めなければ、振り出しだろ。で、加奈は何をするつもりなんだ?」
問われた加奈は無言で立ち上がると、棚の引き出しから一つの道具を取り出した。耳かき棒だ。
それを手に持った彼女は自身のベッドに腰掛けると、紘輝に向けて自分の膝をポンポンと叩いて示す。
その動作が意味することは一つだった。
「私の耳かき技術はその心地良さで春ちゃんや蓮くんを何度眠りに誘ったことか……紘輝くんもその虜にしてあげるよ」
紘輝は加奈の誘いに従い、ベッドに寝転がるような形で彼女の膝に頭を乗せる。その行いに躊躇はあったが、ここで退くわけにはいかないと一念発起した。
まだ耳かきが始まってもいないのに、頭部に触れる柔らかな感触に心臓が早鐘を打ち出す。
こんな風に加奈と密着するのは初めてであり、漂ってくるシャンプーや石鹸の香りはあまりに甘美で、太ももの感触と合わせて紘輝の思考を麻痺させるには十分だった。
「じゃあまずは右耳からね」
紘輝は加奈がいる方向とは反対側を向き、耳元に耳かき棒の先が優しく触れる。
その瞬間、紘輝はまるで全身に電撃が走ったように感じられた。
(耳かき棒を当てられている感覚がほとんどない……にもかかわらず、不思議と爽快な気持ちを感じさせる……! 緩やかに先をかすめるようにして耳の汚れを取り除いているんだ……加えて彼女はもう片方の手でこちらの頭をゆっくりと撫でることによって安心感をも付与している……!)
その慈しみは傷ついた子供に寵愛を授ける聖母の如し。
きっと加奈はこうして妹や弟の心を幾度も癒してきたのだろう。
彼女の耳かきはただひたすらに穏やかな気分にさせてくれた。
自ずと睡魔が浮かび上がってき、瞼を下ろさせようとしてくる。
しかし、このまま寝てしまえば敗北したも同義。ならば、屈するわけにはいかない。己がこれまで長男として培ってきた矜持の為に。
覚悟を決めた紘輝は眠ってしまうことを防ぐ為の行動に出る。
身体が密着している以上、腕を動かすのは危険だった。それゆえ、加奈のように自らの身体の一部をつねるという行いは出来ない。
そうして、紘輝が選んだのは、外からは分からない程度に、自らの舌を噛むことだった。
「ッ……!」
視界を白く染めるような激痛。しかし、その痛みが朧気になっていた意識を覚醒させる。口内のみで起きた異変に加奈が気づいた様子もない。
「それじゃ反対側ね」
加奈は紘輝に反対を向くように要求した。彼女の身体が否応なく視界に入ってしまい、思考を惑わせてくる。
(くそぅっ……耳に触れていることを感じさせない力加減は見事だ……おまけに彼女の身体はこちらの頭をクラクラとさせてきて……瞼を閉じて意識を遮断してしまえばどれだけ楽なことか……しかし、屈してなるものか!)
一瞬でも気を抜けば、そのまま眠りに落ちていくことだろう。
紘輝は先程のように自らの舌に歯を突き立てながら、あまりの心地良さから訪れる睡魔の誘いに耐え抜く。
そうして、遂に加奈の手は紘輝の頭部から離れた。
「はい、おしまい。どう、私の耳かきは。思わずそのまま寝ちゃいたくなったでしょ?」
紘輝は身体を起こすと、心地良さの余韻から目を逸らし、普段通りの様子で彼女の言葉を否定する。
「こ、この程度で俺を虜にしようだなんて、笑わせるな」
「そんな……」
加奈は自分の技術が通じなかった衝撃に呆然としてしまう。
「続き、やる……?」
憔悴した顔で問いかける彼女に、同じく憔悴した顔の紘輝は首を横へ振った。
「いや、今日のところはお開きにしよう……」
「そうだね……」
加奈も異論はない様子だった。
こうして、二人の甘やかし対決は勝者不在の引き分けに終わった。
「それじゃ、また学校でな」
「うん。またね」
紘輝と加奈は互いに手を振り合って別れた。
紘輝は自宅への道を行き、加奈は玄関で見送ってから自室へと戻っていく。
その途端、紘輝は顔を両手で覆い、加奈は自分のベッドに飛び込んで足をバタバタとさせた。どちらも抑え込んでいた感情が爆発したように、耳から首まで真っ赤にしていた。
彼らの脳裏には本日の体験がリフレインする。
そして、二人は共に誰に言うでもなくボソリと呟いた。
「甘やかされるのもいいかも……」
これまで弟や妹を散々甘やかしてきたが、自分が甘やかされることにはまるで耐性がない二人であった。
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