第139話1月10日母が知っている母の部屋はこの世に存在しなくなる

自立歩行の練習へ入った

見守り、杖、または手すりが必要ながら自立して歩行

かなりの距離を歩く

足のリズムがバラバラでまだまだ危なっかしいけれど

しっかり歩いている


こうなってくると退院後の話もちらほらと出る

母の部屋をバラして一階の応接間に移動しようという話題は

なかなかにつらい

母は退院できる喜びもあり

いや実際はまだ退院日などは一切決まっていないのだけど

退院後のことを考えると楽しいようでね

それなりにテンションあがっているんだ

俺はというと

その、部屋作りの労苦もあるが、何よりもメンタルがしんどいんだよ

母の部屋を解体するんだぜ

母と一緒にならともかく、一人で、だ

あれもこれもあの日のままなんだよ

教え子の発表会を観に行く準備をしていたあの夜、あの朝のまま

ちょっとした栄養補給にぜいたくさせてね、と言って買った

塩キャラメルがテーブルに、ちょこんと残っている

役員会等の資料も整理途中で机の上にある

部屋にかかった服は、秋物

一緒に購入したもので埋め尽くされている

母が一人で意気揚々と配置替えした家具類

使い勝手よくなったでしょと得意げに言っていた

母の猫の、ご飯テーブル、トイレも、母製作

言い始めたらきりがない

一時、母の部屋で夕食を摂っていた

大相撲を一緒にみながら食べていた

俺はテレビを観ないので、大晦日の格闘技番組をみたのも母の部屋だし

そこで、ちょっとした縫物をしたりもした

手話訳の相談をしたのもそこだしね

つまりは俺の記憶もたくさんつまっている


母が二度と戻ることはないとわかっている

そんな理屈で全部を割り切るのはできない

母は在職中、部屋がなかった

父のいる居間の隣にせまいソファベッドを入れ

横になるともなく横になっていた

色々とあって、ようやく部屋を作った

その部屋作りもなかなかに大変で

ごった返した荷物の山を二人で整理して場所を作り

一年以上かけて生活できるようにした

そんな経緯がある


少しずつ、リサイクル屋で見つけた安い家具を入れ

形になってきた


そういう記憶もろとも解体していくのはつらい作業だしね


それ以上に、解体してしまうと

ほんとにもうあの日々は帰らないのだと認識してしまうし

それを俺の手で決定づけてしまうのがイヤでもある

ほっておいても戻ってはこないとわかってはいるんだけれどね

やらなきゃいけないことなんだよね

だから今、母の部屋は俺のトラウマ空間になっている

ニ階に上がりたくない

入りたくない

母の猫のごはんを上げる時だけ、入る


願いをいえば

一度だけでいい

もう一度、ニ階のその部屋に帰って欲しい

そこで、一緒に終わりを宣言して欲しいんだよ

途切れたままはしんどい

未だに母は、自分の部屋のどこに何があるかをしっかり把握している

それをバラすんだぜ

俺が

母の記憶

母の脳をバラすようなもんだ

そうすると、母が知っている母の部屋はこの世に存在しなくなる

あそこにあれがあるから持ってきても言えなくなる


くだらないことかもしれないけれど

現場にいるものとしてはかなり、切実だ

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