千三百年のあいだに、唐人塚はもうどこにあるか分からなくなってしまったんだね。

 でも海は変わらない。

 こうして膝を抱えて海を眺めていると、あのときのわたしに戻ったみたいだ。そう、十歳のわたしに。

 あのときわたしは二十年後もこの海を見ているのだろうかと自分に問いかけたが、いま本当にこうして見ることになった。

 だがその二十年のあいだに、こんなにもいろいろな出来事があるとは想像もつかなかったよ。まさか唐へ行き、そして千三百年後の上総かずさに帰って来ようとはね。

 まあ、でもわたしはこれまでにもいろいろなことに驚いてきたから、千三百年のあいだの故国のこの変わりようにもだんだんと慣れてきたよ。

 みなのその後のことも知ったよ。

 第一船は無事日本に着き、真備まきびは出世して右大臣にまで登りつめたんだね。そして本当にもう一度遣唐使となって、真成まなりや仲麻呂を迎えに行った。

 ああ、なんて素晴らしい!

 彼はやっぱりわたしの最高のご主人さまだ!

 玄昉げんぼうも政治の世界に入ったんだね。最期は不遇だったようだが、彼の才能はちゃんと日本で発揮されたんだね。

 羽栗吉麻呂はぐりのよしまろ遣新羅使けんしらぎしになったかもしれないそうだね。新羅で金仁範きんじんぱんに会ったりしたのだろうか?

 そして忘れてはならない、羽栗翼はぐりのつばさかける兄弟。

 彼らも成長して遣唐使になり、生まれ育った長安へ行った。

 母親の淑梅しゅくばいに再会して、その立派になった姿を見せたと信じたい。

 第二船は一度嵐で唐へ戻されたが、その後日本へ帰ることが出来たんだね。

 第三船は……やはり嵐に遭い、ずいぶん遠くまで流されたものだ。崑崙こんろん国(現ベトナム)とは。そしてどうにか長安まで戻って来れたのは百十五人中たった四人だけだった。

 彼らを日本へ返すため、長安にいた仲麻呂が尽力したそうだね。

 ああ、仲麻呂!

 真備が十八年経ってから迎えに行ったのに、真備と別の船に乗った彼もまた崑崙国に流され、結局彼は戻った唐で人生を終えたとは。

 まさに天道、是か非か!

 そして真成。わたしの大事な友。

 彼がその後どうなったのか、何一つ記録が残っていないなんて。彼は望みどおり大秦だいしんまで行ったのだろうか。それとも。

 いや、そんなことは考えまい。

 わたしが天道に背き、こうして帰ってきたように、彼もいつか必ず帰ってくる。

 わたしはいつまでも彼を待っている。彼と初めて会ったとき、わたしの肩に置かれた彼の手の温かさを、わたしはまだちゃんと覚えているのだから。約束通り、二人で富士山を見るんだ。

 そういえば帰国してからこの半年のあいだに、大阪の藤井寺というところで真成の墓誌の複製を見たよ。墓誌は現代になって地中から発掘されたそうだね。本物はいま西安と名を変えた長安に華々しく飾られていると聞いた。

 変な気分になった。わたしにとっては埋めたばかりのものだからね。

 醴泉寺れいせんじの前で真備が真成に言った言葉を思い出すよ。

「きみには、きみにしかできないことがあります」

 真成は本当に誰にも真似できない、想像し得ない方法で、歴史に名を残したね。


 つばさくん、かけるくん、巻菱まきびし先生。

 こんなにも長いあいだ、わたしの話を聞いてくれてありがとうございます。あなたがたにはいま一度、あらためてお礼を言いたい。

 翼くん、翔くん。きみたちが同じ名の遣唐使、羽栗翼、翔に興味を持ってくれたこと。

 真備に名が似た巻菱先生とともに遣唐使について調べてくれたこと。

 調べていくうちに、反対に歴史に名を残すことなく海に消えていった遣唐使が多くいると気づいてくれたこと。

 そう、千三百年間「消息不明」の四字にまとめられてきた、わたしたち第四船の百二十名ひとりひとりの人生に対して、この浜辺に座って思いを馳せてくれたこと。

 そして……


「ねえ、翔。もしかしたら彼らはどこかの島にたどり着いて生きてたかもしれないよね?」

「そうだね、翼。どうなったか分からないなら、なにも悲しい結末だけを考えなくてもいいよね。幸せに暮らしてた、って思ってもいいよね、そうであってほしいなっていう願いを込めてさ。巻菱先生もそう思いませんか?」

「そうですね。千三百年経っても彼らの幸せを願っている人間がいると、彼らの魂に知らせたいですね。いやきっと、きみたちの願いはもう彼らの魂に届いたでしょう」

「ねえ、翼、だったらかもしれないじゃん?」

「何言ってんの? 翔。それどういう意味?」

「だからさ、浦島太郎みたいにさ、第四船は海の底の竜宮城に行っちゃって、みんないまも楽しく暮らしてるの」

「何それ! でもいいね、“楽しく”って。うん、彼らはきっとまだ。それでそろそろ飽きてよ。ていうかね」


 ああ! まさにあなたがたのこの思いに導かれ、わたしたち百二十名はこうして帰国を果たすことができたのです。本当にいくら感謝してもしきれません。ありがとうございます!

 どうかもう少しだけ、わたしの話にお付き合いください。わたしの使命を果たしたいのです。

 わたしの使命とは、ひとつ、子どもたちに字を教えること。

 もうひとつは、いまいる場所から逃げ出したいと思っている子どもたちに手を差し伸べることです。

 現代の子どもたちはみな学校で字を教わるから、わたしのすべきこととは居場所のない子どもたちに居場所を与えることだと考えています。

 翼くん、きみは学校がつらいと言ったね。ならばそうだと思いっきり叫んでいいんだ。わたしが里がいやで「防人になる!」と叫んだように。手を伸ばして助けを求めていいんだ。

 わたしがまずその手を掴もう。わたしの持っている経験と知恵のすべてでもって、きみを助ける方法を探そう。

 できることなら大人と子どもという関係を超えて、きみと友になりたい。わたしが真成と主従の関係を超えて友となったように。

 なってくれるかい? ではわたしの手を握ってくれるかい?

 ありがとう、友よ!

 ああ、わたしはいま本当に帰ってきた。帰りたい故郷に帰ってきた。友のいる故郷に。

 こんなとき、現代では何て言うんだい? そうか、ただいま、というのか。ではあらためて。

 ただいま!


 最後に、真成が予言したことはほぼすべてそのとおりになったが、まだひとつ実現していないものがある。

 それは「わたしを心から慕う女は日本にいる」というものだ。

 だがわたしはそれも本当になるだろうと、なぜか大変な自信を持っている。そう、明日にでも、わたしは運命の女と巡り会えそうな気がする。

 もし明日、そんな女がわたしの目の前に現れたなら、そのときこそあの真成直伝の口説き文句を胸を張って使おうじゃないか。

 千里の海を渡り、千三百年の時を超えて、わたしがここへやって来たのはただひとつ、あなたと出会うためであった、と。(了)

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