二十七 月とともに(三)

 翌開元かいげん二十一年(七三三年)十一月、ついに日本からの遣唐使が長安にやって来た。

 日本では天平てんぴょうという年号になっていたから、わたしたちは彼らを天平の遣唐使と呼んだ。

 この天平の遣唐使の中でもっともわたしたちを驚かせたのは、弁正べんせいの息子朝元ちょうげん判官はんがんという大使副使に次ぐ高い役職について戻ってきたことだった。

 十五年前、わずか十二歳で海を渡って日本へ行った朝元は、二十七歳の立派なひとりの大人の男になって帰ってきた。弁正も兄の朝慶ちょうけいも姉の淑梅しゅくばいも、彼との再会に涙が止まらなかった。

 一方の朝元も泣いたが、彼は淑梅が吉麻呂と結婚して子をなしていたことにとても驚いていた。なぜなら朝元は真備や仲麻呂たちに日本にいる家族の様子を知らせる役目を任されていたのだが、その中に平城京で吉麻呂を待っていた妻のこともあったからだ。

 十六年前、吉麻呂の子を身籠もっていた妻は無事女の子を出産したが、その後一族からしつこく請われて他の男と再婚した。吉麻呂の娘は昨年結婚し、天平の遣唐使が難波津なにわづを出るときにはお腹が大きかったという。

 朝元は淑梅に遠慮して、彼女のいないところでそれを吉麻呂に伝えた。吉麻呂は日本の妻が再婚していたことに少しほっとしているようだった。

 だがまだ見ぬ娘が身籠もっていたことにはさすがの彼も口をあんぐりと開け、

「おれ、おじいちゃんかよ……」

 淑梅は口数が少なくなっていた。

 あのおしゃべりで好奇心旺盛な娘は、いつの間にかひとりの大人の女になっていた。彼女はもうすぐ夫と二人の息子が日本に行ってしまうことをよく分かっていた。

 唐の国の決まりでは、女は外国人と結婚してもその夫について国外へ出ることは禁じられていた。

 淑梅は吉麻呂に言ったという。

「長安の女を甘く見ないで。別れが恐いなら、はじめから日本の男を愛したりなどしないわ。あなたが数ヶ月後ここを去ると言うのなら、その数ヶ月のあいだに残りの人生分、二十年、三十年、五十年分、わたしを愛してよ。愛して愛して、愛しきってよ! わたしはきっとこれからも、目を閉じればあなたの胸の海を漂うわ。でもつばさかけるには本物の海を見せてあげて」

 吉麻呂からこの話を聞いたとき、わたしは夫婦の愛情の深さに感動したのと同時に、なぜおれにはそういうことを言ってくれる女がいないんだろう、と淋しくなった。

 同じ千里の海を越えてきたのだから、おれの胸だって女に海を見せることはできるはずだろうに。

 この思いを酒の勢いで我が友真成に話したとき、彼はぷっと吹き出して言った。

「おまえを心から慕う女は、きっと日本で待っているよ。そういえばおまえ、おれが教えてやったあの口説き文句、この長安で一度くらいは使ったか?」

「いいえ。残念ながらその機会はありませんでした」

 わたしは自分で自分の言葉が嫌になってしまった。

 まったく、十六年もあったのに!

 真成はびっくりしていた。

「え、一度も?」

「無いです。何度も訊かないでください」

「そうか。おれは蜀に出てから数え切れないくらい使ったけどな」

「え?」

 今度はわたしがびっくりしてしまった。

 手児奈てこなはどうした、手児奈は!

 わたしは驚きのあまりつい、

「ずっと手児奈さま一筋なんだと思っていました」

「もちろん手児奈がおれにとって一番大事な女であることは変わらない。それとこれとは別……って、おい、いま何て言った?」

「ずっと手児奈さま一筋だと思っていたと」

「なぜアヤメの本当の名をおまえが知っている!?」

 しまった!

 覗き見していたことがばれる!

 いくら友だからといっても、彼はそれを許さないだろう!

「それとこれとは別です!」

 わたしは部屋を飛び出した。

「待て! 何と何が別だ!」

 真成が追いかけてきた。

 出会った頃、彼はわたしより足が早かったが、この十六年ことあるごとに長安の街を駆け抜けてきたわたしは負ける気がしなかった。

「止まれ、真海まうみ! 主人の命令だぞ!」

「止まりません、我が友よ!」

 きっとこれが最後の長安全力疾走だ。

 わたしは息苦しくなりながらも、この追いかけっこを楽しんだ。

 

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