二十七 月とともに(四)

 開元かいげん二十二年(七三四年)、元旦の朝賀ちょうが出席を無事果たし、一息ついた天平てんぴょうの遣唐使たちを驚かす事件が起きた。

 前回の霊亀れいきの遣唐使、十七年前入唐した留学生、井上真成いのうえのまなりが病死したのだ。

 彼はここ数年ずっと肺の具合が悪かったらしいのだが、この正月に容態が急変してその三十六歳の生涯をここ長安の片隅で終えてしまった。

 天平の遣唐使たちは彼に会わずじまいだった。なぜなら病気がうつることを恐れて、井上真成は誰にも会わなかったからだ。

 天平の遣唐使たちはせめてその亡骸なきがらに会いたいと願ったが、許可は下りなかった。ただ、ふつうなら三ヶ月ほど後に行う葬儀を、天平の遣唐使たちが長安にいるあいだの二月四日に行うことだけが彼らに伝えられた。

 井上真成の葬儀は一留学生のためのものとは思えないほど荘厳だった。これにはいまや皇帝のすぐそばに仕える高官となった朝衡ちょうこうこと阿倍仲麻呂の力が働いていることは明白だった。

 その仲麻呂は葬列が長安城外の墓地へと向かう道中、井上真成の棺に寄り添うように馬を進めた。

 墓地に着き、棺とともに墓の中に納める墓誌の文言が読み上げられた。大変簡潔な文章だった。墓誌にはまだ余白があった。

 

 公姓井字真成國号日本才称天縱……

(亡くなったこの方は姓はせいあざな真成しんせい、生まれた国は日本である。その才能は天から授けられた素晴らしいものであった)……


 別乃天常哀茲遠方形既埋於異土魂庶帰於故郷

(人の世に死の別れがあることは常だが、遠く離れたところで亡くなったのは本当に哀しいことだ。彼の亡骸なきがらはすでに異国の土に埋められたが、こいねがわくば魂は故郷へ帰ることを)(註九)


 天平の遣唐使たちは地に膝をつき号泣した。

 葬儀が終わり、仲麻呂と天平の遣唐使たちは長安城内へ帰って行った。真備、長安に戻ってきた玄昉、わたしの三人は真成の墓の前に立ったままだった。

 辺りが暗くなり、雨が降り始めた。それでも誰も動こうとしなかった。

「兄さま、濡れてしまうよ」

 声に振り返ると、笠をかぶり馬を牽いた男が立っていた。

 真成だった。

 真成は馬の手綱をわたしに預けると墓に歩み寄り、

「自分の墓を見るというのも、不思議なものだな」

 真成は笠をはずし、真備に手渡しながら呟くように、

「天平の遣唐使たちを悲しませたのは悪いと思っている。だが、それこそ死の別れは天の常だ。異国の土となることを恐れて、男と生まれたのにこの長安の城壁を、大雁塔だいがんとうを見ずに死ぬ人生の方がおれは嫌だ。たとえ帰国できずに死ぬとしても悔いは無い。おれはやっぱり遣唐使になってよかった」

 真備は受け取った笠をまた真成の頭に被せて、

「あの墓誌の文は仲麻呂が考えたのですね」

「そうだ」

「死んだのはあくまで唐名〝井真成〟であり、井上真成の名も経歴も一切出て来ない。そして全文が終わった後の、墓誌には珍しい、大きな余白」

 二人の会話を後ろで聞いていた玄昉がふっと笑った。

「死んで終わったはずなのに、何かまだ続きのありそうな人生か」

 真成と真備も笑った。わたしも三人の笑顔を見て笑った。目頭を熱くしながら。

 

 いよいよ真成が西域へと旅立つ日がやって来た。真備と玄昉、わたしの三人は長安城外の渭城いじょうまで見送りに行った。

 仲麻呂は自分が行くと目立って怪しまれてしまうからと来なかった。吉麻呂もそんな仲麻呂に遠慮したのか来なかった。

 仲麻呂は自分の代わりに同期の進士しんし王維おういを寄越した。彼は仲麻呂が進士科に合格した際の曲江宴きょくこうえんで、仲麻呂とともに探花使たんかしを務めた人物だった。

 わたしたちは突然現れたこの名士にびっくりした。王維は当時、唐一の詩人との呼び名が高い一流の文士だった。

 渭城の旅館にささやかなはなむけの酒席がもうけられた。

 王維は元成げんせいと名を変えた真成に一編の詩を贈った。その詩を聞いて、わたしたちは仲麻呂が王維を派遣した理由が分かった。

 彼の素晴らしい詩によって、真成の旅立ちは歴史に残る、とわたしたちは確信した。


 渭城朝雨潤輕塵

 客舎青青柳色新

 勧君更盡一杯酒

 西出陽關無故人

(渭城に朝降った雨は土埃つちぼこりを収め、旅館の屋根や壁を洗い流し、柳の葉をいっそう鮮やかにした。まさに旅立ちにふさわしいときだ。きみに勧めよう、さあもう一杯酒を飲めと。西にある陽関ようかんを出たなら、もうこうやって酒を酌み交わす親しい友人などいないのだから)(註十)


 真成は旅立った。遙かに。


   

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