二十七 月とともに(四)
前回の
彼はここ数年ずっと肺の具合が悪かったらしいのだが、この正月に容態が急変してその三十六歳の生涯をここ長安の片隅で終えてしまった。
天平の遣唐使たちは彼に会わずじまいだった。なぜなら病気がうつることを恐れて、井上真成は誰にも会わなかったからだ。
天平の遣唐使たちはせめてその
井上真成の葬儀は一留学生のためのものとは思えないほど荘厳だった。これにはいまや皇帝のすぐそばに仕える高官となった
その仲麻呂は葬列が長安城外の墓地へと向かう道中、井上真成の棺に寄り添うように馬を進めた。
墓地に着き、棺とともに墓の中に納める墓誌の文言が読み上げられた。大変簡潔な文章だった。墓誌にはまだ余白があった。
公姓井字真成國号日本才称天縱……
(亡くなったこの方は姓は
別乃天常哀茲遠方形既埋於異土魂庶帰於故郷
(人の世に死の別れがあることは常だが、遠く離れたところで亡くなったのは本当に哀しいことだ。彼の
天平の遣唐使たちは地に膝をつき号泣した。
葬儀が終わり、仲麻呂と天平の遣唐使たちは長安城内へ帰って行った。真備、長安に戻ってきた玄昉、わたしの三人は真成の墓の前に立ったままだった。
辺りが暗くなり、雨が降り始めた。それでも誰も動こうとしなかった。
「兄さま、濡れてしまうよ」
声に振り返ると、笠をかぶり馬を牽いた男が立っていた。
真成だった。
真成は馬の手綱をわたしに預けると墓に歩み寄り、
「自分の墓を見るというのも、不思議なものだな」
真成は笠をはずし、真備に手渡しながら呟くように、
「天平の遣唐使たちを悲しませたのは悪いと思っている。だが、それこそ死の別れは天の常だ。異国の土となることを恐れて、男と生まれたのにこの長安の城壁を、
真備は受け取った笠をまた真成の頭に被せて、
「あの墓誌の文は仲麻呂が考えたのですね」
「そうだ」
「死んだのはあくまで唐名〝井真成〟であり、井上真成の名も経歴も一切出て来ない。そして全文が終わった後の、墓誌には珍しい、大きな余白」
二人の会話を後ろで聞いていた玄昉がふっと笑った。
「死んで終わったはずなのに、何かまだ続きのありそうな人生か」
真成と真備も笑った。わたしも三人の笑顔を見て笑った。目頭を熱くしながら。
いよいよ真成が西域へと旅立つ日がやって来た。真備と玄昉、わたしの三人は長安城外の
仲麻呂は自分が行くと目立って怪しまれてしまうからと来なかった。吉麻呂もそんな仲麻呂に遠慮したのか来なかった。
仲麻呂は自分の代わりに同期の
わたしたちは突然現れたこの名士にびっくりした。王維は当時、唐一の詩人との呼び名が高い一流の文士だった。
渭城の旅館にささやかなはなむけの酒席がもうけられた。
王維は
彼の素晴らしい詩によって、真成の旅立ちは歴史に残る、とわたしたちは確信した。
渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽關無故人
(渭城に朝降った雨は
真成は旅立った。遙かに。
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