二十七 月とともに(二)

 真備まきびはじっと真成まなりを見つめたあと、彼もまた呟くように、

「そうですか。やはり西域に行きたいのですね」

「ああ、そのとおりだ。この五年唐土をあちこち回っていろいろ見てきた。そのおれが何に驚いたかというと、こんなに広い唐土の先にも、まだ天地が続いているということにだ。いったいどこまで続いているのか。見れば見るほど知りたくなった。西の安西都護府あんせいとごふ(長安より西域へと向かう途中に置かれていた行政府)へ唐中央朝廷から使者が派遣されるとき、それの道案内や物資の提供をするために元家の店の商隊が長安から出発することがある。おれはその商隊の一員になってまずは安西都護府を目指す。だがおれが本当の目的にしているのはもっと先だ」

「どこです?」

大秦だいしん(ローマ)だ」

「大秦」

「兄さま、実は仲麻呂も帰れないんだ」

 真備ははっとして仲麻呂を見た。

 仲麻呂は低い声で、

「わたくしはいまや皇帝陛下の側近のひとりとなりました。陛下はわたくしにいましばらくそばにいてほしいようです」

 真備はかすれた声で、

「きみほど望郷の念が強い留学生もいなかったのに」

 仲麻呂は静かにうなずき、

「わたくしは残りますが、吉麻呂は帰します」

 吉麻呂は床に視線を落として、

「おれは自分も残ると言ったんだが、やっぱり息子たちの将来を考えるとな。まさか息子たちのことまで朝衡ちょうこうさまに頼れないさ。つばさかけるは連れて帰る。淑梅しゅくばいも賛成してくれた」

 真成が、

「兄さま。兄さまは二十年後、遣唐大使となっておれと仲麻呂を迎えに来てくれるよな?」

 真備は少し眉間に皺を寄せ、

「きみはわたしがさんざん船酔いに苦しめられていたのを忘れたのですか?」

「それでも来てくれるだろ?」

 真成は子どものように上目遣いで真備に尋ねた。

 真備は彼のおどけた様子にふっと笑ってうなずいた。

「もちろんです」

 真成は真剣な表情に戻り、

「おれが西域に行くことを、唐も日本も許さないだろう。だから兄さま、おれは仲麻呂に頼んだんだ。おれの墓を作ってくれと」

「墓? いま墓と言いましたか?」

 真備が発したものはわたしの心の声と同じものだった。

 真成はそんな真備に迫るように身を乗り出して、

「そうだ、墓だ。死んだことにするんだ。そこまでしなければ唐朝廷も、次に来る日本の遣唐使たちも、おれの不在を納得しまい。それにひとたび陽関ようかん(西域へと向かう道にあった関)を出れば、その先は荒涼たる砂漠が広がるだけだ。生きて帰って来れないことだって承知の上だ。砂漠の真ん中で干からびて死ぬかも知れない。もしそうなったら墓どころか骨の一片だって残せない。だからせめておれのこれまでの半生をつづった墓誌をこの長安に残したいんだ。おれはこの先元家の養子の元成げんせいとして生きていく」

「それでは無事に西域から戻ってきたとしても、きみはもう井上真成いのうえのまなりとして日本に帰れない」

「分かっている。だがおれはこの先どんな名になろうと、おれがおれであることを兄さまと仲麻呂が知っていてくれさえすればそれでいいんだ。ああ、もちろん、おまえもだぞ、真海まうみ

 真成はわたしに向かって笑いかけた。わたしは彼の話についていけてなかったので、笑みを返すことなどできなかった。

 墓を作る。名を捨てる。

 途方もないことだ。どうしてそこまでして西域に行きたいんだ。友と別れ、二十年に一度しかない帰国の機会を捨ててまで。

 それが彼の志。なんと大きな志……。

 ああ、おれが彼の真の友というならば、その友が持つ大志を否定することなど、できるはずがないじゃないか!

 わたしは真成のそばに寄って跪き、両手で彼の手を握った。

「真成さま、わたしも二十年後迎えに参ります。そしてともに日本に帰って、二人で富士山を見ましょう。約束です!」

 真成は目を丸くしてわたしを見つめた。大きな目が潤んだ。彼は笑った。

「ああ、頼むぞ。兄さまと迎えに来てくれ。そして必ず一緒に富士山を見に行こう。約束だ」

 彼はわたしの手を握り返した。

 真備は黙ってわたしたちを見つめていたが、やがて彼も立ち上がると真成とわたしのそばに来てその長身を屈めて両手を伸ばし、わたしたちの手を包み込んだ。彼はまず真成の顔を見てうなずき、それから仲麻呂を振り返って、

「迎えに来ます。もういちど三人で御蓋山みかさのやまの月を見るまで、わたしたちは兄弟の絆を解かないと誓いました。長安で、西域で、日本で、それぞれ同じ月を仰ぎ見ながらその日を待ちましょう」

 初めて触れる真備の手は、思ったよりもずっと分厚くて大きくて、温かかった。

 仲麻呂はうなずいたが、わたしたちの様子を黙って見ているだけだった。


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