二十四 子衿(七)

 碁盤を挟んで向かい合ったのは、仲麻呂なかまろ真備まきびだった。仲麻呂はずっと真備と対戦したかったのだと喜んだ。

 仲麻呂は指で碁石をもてあそびながら、

「今日は本当に驚きました。元蘇蘇げんそそはもし後宮にいたなら国を傾けてしまいそうなくらい魅力のあるひとですね。真備兄さま、彼女がいると学業に専念できないのでは?」

 真備は顎に手をやって碁盤の上を見つめたまま、

「それが返って集中できるのです。なぜなら彼女を理解するくらいだったら、経書の註釈を理解する方がはるかに簡単だからです。それに彼女がやって来ない静かな日々がいかに貴重であるかが分かったので、その大事な時間を少しも無駄にはしたくありません」

「なるほど」

 仲麻呂は苦笑した。

 二人のあいだで碁盤の上を眺めていた玄昉げんぼうに真備は、

「玄昉、お詫びします。わたしはあなたをずっと疑っていました」

「なんだおまえ、おれを疑っていたって、おれがおまえと彼女が出会うよう仕向けたと思っていたということか? 言っておくがな、おれは本当に今日初めて元蘇蘇を見た。正直あんないい女だと思わなかった。知ってたらおまえなんかに紹介するものか。自分で抱く」

「わたしはその方が良かったのですが」

「何がその方が良かっただ。彼女が仕掛けた餌にまんまとかかったのは、結局おまえ自身なのだ。それにしても海とはなあ。恐れ入った。おまえもなかなかだな」

吉麻呂よしまろみたいなことを言うのはやめてください」

「〝あなたに会う前からあなたのことが好きだった〟か。言われてみたいものだなあ。つまり運命だったということだろう?」

 すると真備は手酌で自分の杯に酒を満たして、

「いいえ、違います。彼女がわたしの胸で見た海というのは、結局彼女の見果てぬ夢のことなのだと思います。長安を離れられない彼女にとって、遠く東に広がる海は夢の中にあるのと同じ。そこからやって来た男だったら誰の胸の中でも、彼女は海を見ることでしょう。たまたまそれがわたしだったというだけです」

 真備は杯を回して中の酒を揺らし、

「結局彼女はわたしを好きでも嫌いでもなかった。彼女が求めていたのは〝海の向こうからやって来た日本人〟です」

と言い終わるや否やぐっと杯をあおった。

 玄昉はくすっと笑い、

「そうかなあ。しかしおまえ、今日は饒舌だな」

「酔ったんです」

「ふふ、ではもっと飲め! おっとそういえば、真海まうみ。元蘇蘇がさい家の娘に言った言葉を思い出したか?」

 嫌な予感は当たってしまった。

 わたしが口をもごもごさせていると仲麻呂が、

「真備兄さま、どうでしょう。わたくしと賭けをしませんか? わたくしがこの碁の勝負に勝ったら、真海まうみに言わせる。負けたら、もう二度とこのことには誰も触れさせない」

「いいでしょう」

 真備はうなずいた。

 わたしは仲麻呂が初めてわたしの名を口にしたのを聞いて少しだけ驚いた。ああ、やっぱり彼の目にもおれは映っていたんだなあ、と。嬉しいとも安堵したとも違う、不思議な気持ちだった。

 二人は沈黙して勝負に集中した。

 玄昉が真成まなりとわたしに席を外そうと目で合図をした。

 三人はそっと部屋の外に出た。

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