二十四 子衿(六)

「兄さま、それはおれが誘ったからだ。兄さまが彼女に〝感謝することがある〟って、おれが言ったんだ」

 真成まなりがぽつりぽつりと言うと、蘇蘇そそは袖から涙に濡れた顔を上げて真備を見つめ、

「真成さんのせいじゃないわ。わたしがあなたにまた会いたくなってしまっただけよ。あなたを憎んでいるけれど、それはあなたが大好きだから。いっそあなたに出会う前に戻れたら、こんな想いをしなくても済むんでしょうに、でもわたし、それをちっとも望まないの。あなたに出会わない人生なんてもう考えられないわ。きっとわたし、あなたに出会う前からあなたのことが好きだったのよ」

 腕組みをして聞いていた玄昉げんぼうが、

「真備、感謝することって?」

 真備は顎に手をやって少し考えてから、

「そうですね、いまのあなたの話の内容についてもそうですが、蘇蘇さん、あなたは本当にいつも〝これから何が起きるかは、絶対に確実に知ることができない〟ということをわたしに教えてくれます。それから何かについて考えるとき、答えは“正解と思うものとその反対のもの、さらにはそのどちらでもあり、いや、そもそもどちらにもあてはまらないのだ”の四つ用意しておけと。ただそれだけたくさん答えを用意すると、あらかじめ物事を真剣に考えておく、ということ自体がはたして必要なのか、という気すらしてくるのですが。とにかく、わたしはあなたからそういうことを学びました。これらのことはこれからもわたしの人生に大いに役に立ちそうです。ありがとうございます」

 蘇蘇は袖で涙を抑えながら小首を傾げて、

「何を言っているのかさっぱり分からないわ。でもそれだけ感謝されてるってことは……わたしはこれからもあなたに会っていいの?」

「いいえ、だめです」

「だめなの?」

「いいえ、会ってもいいです」

「どっちなの?」

「どちらでも。わたしにあなたの心を決めることはできません。あなたのお好きなように」

 蘇蘇はまだ涙を浮かべながら、それでも少し微笑んで、真備の顔を覗き込んだ。

「あなたはどっちなの?」

「どちらでも。きっとあなたがわたしに会いたいときは、わたしはあなたに会いたくないでしょうし、あなたがわたしに会いたくないときは、わたしはあなたに会いたくなるかもしれません」

「わたしに会いたくないときって、あのさい家の娘が来るとき?」

「いいえ、彼女はもう来ません」

「本当? わたしがあんなことを言ってしまったから?」

「いいえ、違います」

 玄昉がにやと笑って、

「あんなことって?」

 真備はとっさに玄昉を睨みつけた。

 蘇蘇はその視線を見つけると、いつもの艶やかな笑みを浮かべて、

「ええと、何だったかしら? ……あ、あなた、あの場にいたわよね? 覚えてる?」

といきなりわたしを指名しその美しい目で射ってきた。

 わたしは一瞬本当に息が止まってしまった。

「へっ、あの、その……」

 蘇蘇に見つめられているのと、蘇蘇が崔温嬌さいおんきょうに言った言葉を思い出したのとで、わたしは顔が真っ赤になってしまった。

 その一方で真備が不機嫌な顔でわたしをじっと見ている。

 わたしはやっとのことで声を絞り出した。

「忘れ、ま、した」

 真備がほっと安堵の息を吐いた。

 蘇蘇はぷうっと頬を膨らませて、

「あら、残念。ねえ、真備……またわたしに海を見せてくれる?」

 蘇蘇は真備を上目遣いで見た。

 真備は眉をひそめて、

「あなたはこれから朝衡ちょうこうと碁の勝負をするのでは?」

 蘇蘇は今度は仲麻呂を見つめ、

「朝衡さま……朝衡さまがお望みなら……」

 仲麻呂は少し顔を赤くして、

「蘇蘇さん、わたくしは酔ってしまって、今日はもう碁を打つことはできません。代わりに真備兄さまと勝負なさってください」

 彼の答えを聞くと蘇蘇はいままで見たことのない、少女のように無邪気な笑顔になって、

「うふっ、うふふ! 朝衡さまって本当に素敵な方ね! でも今日はわたしは真備とは勝負しないわ。だって今日は朝衡さまのお祝いに来たんですもの。朝衡さま、本当にお会いできてよかった。次は進士しんし及第のお祝いに参りますわ。ではみなさま、ごきげんよう」

 元蘇蘇が帰り、部屋の中は嵐が過ぎ去ったあとのように静かになった。金仁範も帰って行った。

 帰り際、彼は上機嫌でこう言った。

「やっぱり日本人といると面白いなあ」

 弁正べんせいはなんだか急に疲れた、あとは若い者同士で楽しめと言って部屋を出て行ってしまった。

 玄昉げんぼうはわたしに弁正から碁盤を借りてこさせた。

 碁盤を部屋の真ん中に置いて下がろうとすると、玄昉に引き留められた。

 嫌な予感がした。

 

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