二十四 子衿(五)

 吉麻呂よしまろは妻の顔を覗き込み、

「どうしたんだよ?」

「果てしなく広くて深くて、ときどききらきらと眩しく光るんでしょう? ねえ、あなた、あなたがわたしに見せてくれるのも海だったのね! あれは海だったのね!」

 淑梅しゅくばいは目を輝かせて夫の顔を見上げた。

 妻の美しい瞳に、吉麻呂は照れた様子で、

「ああ、そうだよ。ほら、じゃあまた見せてやるよ!」

と、いきなり淑梅を赤ん坊のように抱き上げて、

「では、おれたちはこれにて失礼」

 淑梅は夫の首に取りすがり、

「まだ、聞き終わってないわ!」

「いいだろ、もう。聞かなくたって、おまえには分かるだろ?」

 吉麻呂は淑梅を腕に部屋を出て行った。

 蘇蘇は二人の姿が見えなくなると、

「素敵なご夫婦ね」

と、ぽつんと呟いた。

 つばさくん、かけるくん、きみたちもぽかんとしているね。いったい真備や吉麻呂が女たちに見せた海とはなんなのか、と疑問に思っているんだろう?

 実はわたしにもよく分からないんだ。わたしもまだ女にそう言われたことが無いから。

 巻菱まきびし先生は分かりますか? えっ、似たようなことを言われたことがあるって!?

 さすがは先生、ではそれはどういうことですか? 子どもたちの前では説明できない? そうですか。ではあとでわたしにだけこっそり教えて下さい。

 翼くん、翔くん、きみたちはいずれ大人になったら知ってくれ。では、話を戻そう。

 元蘇蘇げんそそは真備を見つめながら続けた。

「わたしは自分でこの生き方を決めた。誰にも心を許さないと。誰のものにもならないと。だからもう彼には会わないつもりだった。だけど彼が突然家にやって来たの。そして彼の弟にわたしを妻だと紹介した。わたしはびっくりしたわ。自分の心を見透かされてしまったと思った。なんだか悔しくて、またつっぱねた態度をとった」

「妻?」

 弁正べんせいが眉間に皺を寄せて言った。

 蘇蘇はその声に突かれたかのように、突然ぽろぽろと涙をこぼしはじめて、

「わたしのような女が、彼の本当の妻にはなれないことは分かっています。でも分かっているからこそ、嬉しかった。そして悲しかった。初めて自分の生き方を後悔した。これからどうしたらいいか分からなくなった。そんなとき、彼がさい家の娘の夫に選ばれたことを聞いた。嫉妬で狂いそうになった。真成まなりさんに聞いて彼の家に会いに行った。そしてそこで崔家のお嬢さまと顔を合わせてしまった」

「えっ、会ったんですか?」

 金仁範きんじんぱんが声を上げた。

「わたしは彼女を憎んだ。わたしだって実の父が認めてくれていれば良家の娘だったのよ。でも、でも、実際のわたしはそうじゃない。彼女を目の前にしてあらためて分かった。わたしはやっぱり彼のそばにいちゃいけない女なんだって。だからもういっそ心底嫌われようと思って、彼の目の前で下品なことを口にして、飛び出してきた。それでもわたしは密かに彼が追いかけて来てくれるんじゃないかと期待した。だけど彼は来なかった。家に戻ってもまだわたしは待った。“青青せいせいたりきみえり悠悠ゆうゆうたり我が心。たと我不往われゆかずとも、子寧きみなん不嗣音おとをつがざる(青い青いあなたの衿、切ない切ないわたしの心。たとえわたしが訪ねて行かないとしても、どうしてあなたはわたしに便りをくれないの?)(註八)”。本当に一日が三月みつきのように長かったわ。そのうちわたしは彼を憎みはじめた。彼のことは忘れてしまおうと、今日まで会わなかった」

 蘇蘇は袖で顔を覆った。

 部屋の中に彼女のすすり泣きだけが響いた。

「なら、今日はどうして来たんです?」

 低く柔らかい声でそう尋ねたのは、真備まきびだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る