二十四 子衿(八)
「仲麻呂は唐の高官になるという志を果たすだろう。
真成は硬い表情をして、
「玄昉、実はおれは西域に行きたいと思っている」
「そうか、だから真備と
「その通りだ。だが、そのために兄さまを利用するというのは違う。蘇蘇はあんな変わった女だが、兄さまを本当に好きだ。兄さまも以前彼女を妻と言った。それは冗談だったが、でもさっきの様子を見るとあながち冗談というだけでもなさそうだ」
「しかし、おまえは留学生の身分だ。実際に西域に行くとなるといろいろ面倒がありそうだな」
「すぐに行くつもりはない。唐朝廷から留学生に対する学費を支給されているあいだは学生として学業に集中する。支給期間は九年、つまり支給停止まであと七年。七年経ったらおれは商隊に加わろうと思っている。ただ仲麻呂がこれから唐の役人となるのに、勝手なまねをして彼の立場を危うくすることはできない。そこは慎重に判断する。彼のためなら、西域へ行くのは諦める」
「実はおれも長安を離れることになりそうだ。
わたしは急に話を向けられて動揺した。
「わたし、わたしですか……」
「おまえはみなを無事唐へ運んだ。ひとまずおまえの役目は終わっているが、
「いいえ」
「ではおまえ自身は日本に帰るまでに何をするつもりなのだ」
何をする? 日本に帰るまでに?
「わたしは、その、これからも、真成さまと真備さまのおそばに仕えて」
わたしの言葉を聞くと、真成はわたしをきっと睨みつけて、
「おれは言ったはずだ。第一に真備に仕えろと。おれに構うな。真備のためにはたらき、その上でおまえは日本に持ち帰るものを見つけろ」
わたしは口をつぐんだ。
真成はどうしておれを避けるのだろう?
それに日本に帰る? 日本のどこに?
わたしは考えがまとまらないまま口を開いた。
「わたしは、その、そもそも日本に帰っていいのでしょうか? あの、わたしが帰りの船に乗ったら、わたしの中の唐人が怒って、船を唐に戻そうとしないでしょうか?」
玄昉も真成も腕組みをして唸った。
玄昉は、
「おまえはまだ自分の体の中に唐人がいると思うのか?」
わたしは目をぎゅっとつむった。
おれの中の唐人よ、いるのか? いるなら答えてくれ、おれを日本に帰さないつもりなのか……。
わたしの答えを待っている真成と玄昉の気配が伝わってきた。
わたしはさらに固くまぶたを閉めた。
するとまぶたの裏に二つのものが浮かんできた。
それは地面に書かれた〝真海〟〝日本〟の二字だった。
なぜ……?
ぽん、と肩を叩かれた。
驚いて目を開けると真成がわたしの顔を覗き込んでいた。
彼はわたしの目を真っ直ぐに見て、
「いますぐに分からなくてもいい。でも自分がやりたいことは必ず見つけろよ」
「はい」
わたしは彼の眼差しの力強さに耐えられなくて、下を向きうなずいた。
玄昉があくびをしながら、
「さて、おれはそろそろ寝る。真海、いまここで元蘇蘇の言葉を吐いてしまえ」
「はい……ええっ!?」
「おれはさっき真備と仲麻呂の碁の打ち方を見ていて気がついたんだが、仲麻呂は互角の勝負をしていると見せかけて、最後はわざと自分が負けるつもりだな。真備に恥をかかせないために。くだらん。さあ、真海、おれに隠し事ができるわけないのだから、さっさと言ってしまえ。それに真備のいないここで言ってしまった方が、気が楽だと思わないか?」
わたしは耳まで真っ赤になりながら、
「元蘇蘇は、言いました……真備さまの……」
「聞こえないぞ?」
玄昉はにやにやしながらわたしの顔を覗きこんだ。
わたしはもうやけになって叫んでしまった。
「彼女は言いました! 真備さまの髭は柔らかくて痛くない、思い出すと体中がくすぐったいと!」
「ははははは!」
玄昉は大笑いした。真成は目が点になった。
ごん!
いきなり頭の後ろを殴られた。
びっくりして振り向くと、げんこつを握りしめた真備がわたしを見下ろしていた。
「おまえは馬鹿か!」
ごん!
もう一発殴られた。わたしは頭を抱えてうずくまった。
真成が慌てて、
「兄さま、玄昉が言わせたんだ、玄昉が悪い」
まだ笑いの収まらない玄昉はうわずった声で、
「いやいや、それを言うなら真備、おまえ自身が悪いぞ? 真海にちゃんと口止め料を払っておかなかったな?」
頭上から真備の声が降ってきた。
「そんなものやらなくても真海は喋らないとわたしは信じていたんです。そのわたしを裏切った、やはり真海が悪い」
わたしは驚いて顔を上げた。
真上に悔しそうに唇を噛み締めた真備の顔があった。
真備がおれを信じてくれていた!
嬉しさと頭の痛さで涙が出てきた。
わたしは真備の脚に取りすがって泣いた。
「お許しください、真備さまあ! わーん!」
「離せ!」
部屋の中から仲麻呂が笑いながら出てきた。
「ははは、真備兄さま、もういいではありませんか……ああ、月が出てきましたね」
仲麻呂の言葉に、その場の五人はみな空を見上げた。まだ低く手の届きそうな場所に月が輝き始めていた。
わたしは仲麻呂の横顔をそっと盗み見て、その美しさに息を飲んだ。自信に満ち溢れた彼の顔は本当に凛々しかった。
わたしは彼から目をそらせないでいた。
わたしの視線に気づいたのか、仲麻呂がこちらを向いて、わたしと彼は初めて目が合ったのだった。
仲麻呂は眉をひそめてわたしを見つめた。
わたしは彼をじろじろ見るなんて無礼だったと思い、慌てて下を向いた。
玄昉がおどけて唐語で仲麻呂に、
「ぜひ朝衡どのにこの月を題にした詩を作っていただきたいものですな」
仲麻呂は一度目を閉じ、そして静かに開くとゆっくりと言葉を紡いだ。
天の原振りさけみれば春日なる御蓋山に出でし月かも
それは唐の詩ではなく、日本の歌、やまとうただった。
真成が呟くように言った。
「あのときの月を、
わたしたち五人はしばらく無言で月を眺めていた。
仲麻呂はその後
彼は
仲麻呂は玄昉のいた
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