二十四 子衿(三)

 わたしはこのときどうして弁正べんせい元蘇蘇げんそそを大胆な女と言ったのか分からなかったが、あとで玄昉げんぼうがわけを教えてくれた。

 これも『遊仙窟ゆうせんくつ』にあるやりとりだったんだよ。

 『遊仙窟』では、主人公の男が口説こうとしている女に双六すごろくの勝負であることを賭けようと持ちかける。それは男が勝ったら、女は男と寝る。女が勝ったら、男が女と寝る。

 要するにどっちが勝っても一夜をともにしよう、というかなり艶やかでしゃれたやりとりなんだが、元蘇蘇がこの『遊仙窟』を下敷きにして発言したことは、仲麻呂はもちろん、真備まきび真成まなりも吉麻呂も玄昉もみなこの書物を読んでいたのだから、すぐに分かったはずだ。

 まったく女の方からそんなことを口にするとは、しかも真備の目の前で他の男に言うとは、元蘇蘇はまさに大胆極まりない女だと言わざるを得ない。

 蘇蘇は小首を傾げて、

「いまのは日本語ね。初めて聞いたわ。何て言ったのかしら?」

 仲麻呂は唇を真一文字に結び答えなかった。

 代わりに口を開いたのは真備だった。

「あなたのような女は日本にはいないなあ、と言いました」

 元蘇蘇は突き刺すような視線を真備に与え、

「わたしのような女? どういう女?」

「どうと言われても、例えようがありません。本当にあなたの他にはいませんので」

「なんだかちっとも分からないわ。ねえ真備しんび、あなたまだわたしと口をきく気があるのね。驚いたわ」

 二人のやりとりを聞いていて我慢ができなくなった淑梅しゅくばいが、口を塞いでいる父親と夫の袖を引き剥がして、

「蘇蘇お姉さま、お姉さまは真備さん、真成さん、どっちの想い人なの!? どうして知り合ったの? それだけ教えて、お願いです!」

「いい加減にしないか!」

 弁正は一喝して淑梅の顔ごと袖で覆った。

 吉麻呂はふがふが言っている妻を指差して、蘇蘇に微笑みかけた。

「それだけ教えて、って言っているので、それだけ教えてもらっていいですか? そしたらもう連れて帰るんで」

 蘇蘇も吉麻呂に笑みを返した。

「もちろん、いいですわよ。でもそれだけって言われても、どこからどこまで話したらいいか分かりませんわ」

 弁正は淑梅を吉麻呂に引き渡すと、蘇蘇のために席を用意した。

 蘇蘇は椅子に静かに座り、胸元に手を置いてうつむき加減で少しのあいだ考え込んでいた。

 彼女が再び顔を上げたとき、その目は真っ直ぐに真備に向けられた。

 蘇蘇はなんだか思い詰めた顔で口を開いた。

「最初からお話します。わたしの母は西域の生まれです。唐へ来て、とある高貴な方に仕えていました。そしてわたしを身籠もり産みました」

 蘇蘇は意外なことを話し始めた。

 わたしたちはみな表情を硬くして耳を傾けた。

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