二十四 子衿(四)

 蘇蘇そそはそんなみなの顔を一度見回してから静かに続けた。

「でも父は正妻の怒りを恐れて、父の姓をわたしが名乗ることを認めませんでした。母が亡くなると、わたしは正妻に屋敷を追い出されました。父は胡物商の元淼げんびょうにわたしを養女として引き取るよう頼んだのを最後に、わたしとは二度と会おうとしませんでした。養父はわたしを実の娘のように可愛がってくれましたが、わたしは子ども心に結婚というものを憎みました。父は母を愛していたのに、父と母は正式な結婚をしていなかった。ただそれだけのために娘のわたしは捨てられたのだと。わたしは将来誰とも結婚なんかしない、どんな男のものにもならないと決意しました。でも成長するにつれて、男たちはわたしのそばに寄ってきました。わたしも少し彼らに興味を持って相手もしてやったけど、心を許すことはありませんでした。養父は何も言いませんでしたが、世間の目がそんなわたしをどんなふうに見るかは分かっていました。だから家の外に出ることもほとんどありませんでした」

 元蘇蘇は目をつむった。おかげでわたしは彼女の姿を遠慮なく見ることができた。本当に彼女は天女のように美しかった。

 再び目を開け、淑梅しゅくばいに向かって少し淋しそうに微笑みかけてから、蘇蘇はまた話し出した。

「そんなある日、養父がわたしに言ったの。十五年ぶりに日本の遣唐使が長安にやって来たって。それは遠い遠い海の向こうの国の人たちで、何ヶ月も海の上を船に揺られてやって来たんだって。海を見たことのないわたしは日本人に会ってみたいと思ったわ。きっと西域の千里の砂漠を行く商人たちのように、荒波に千里も揉まれて日に焼けて、ごつごつとたくましい男の人たちなんだろうなって考えてたの。養父からは日本人たちは学問好きで、長安中の書店で書物を買い集めていると聞いたから、うちにも珍しい書物がありますよ、と噂を流しました」

 真備まきび玄昉げんぼうが目と目を見合わせた。

「そうしたら家に日本人がやって来た。背が高くて痩せていて、学生の青い衿の白い服を身につけていて。彼はとても礼儀正しくて物静かだった。この人が本当に何ヶ月も船に乗って海を渡ってきたのかしらと信じられなかったわ。借りに来た書物を受け取ると、彼はすぐに帰ろうとした。わたしは彼を疑った。だっていままでわたしを見てちょっかいを出さなかった男のひとなんていなかったんだもの。わたしは彼をからかった。でも彼は態度を変えることもなければ、わたしに声を荒げることもなかった。わたしはそんな彼が信じられなくて、最後はとてもひどい態度をとって書物も貸さずに彼を家から追い出した。だけど家に帰ってきた養父に彼のことを聞かれて、わたしは急に後悔して泣いてしまった。次の日謝ろうと思って久しぶりに家の外に出て、彼の宿舎を探して行きました」

 わたしは真備の様子を伺った。

 真備はいまや手に持った杯の中の酒をじっと見つめているのだった。

「わたしの顔を見て彼は嫌そうだったけど、でもやっぱり礼儀正しくて、わたしを責めることもなかった。追い返されても仕方ないと思っていたわたしは、返ってどうしたらいいか分からなくなってしまって、素直に謝れなくて、また横柄な態度をとってしまった。彼に書物を取りにもう一度家に来るように言ったけど、きっと来ないと思った。もう本当に嫌われてしまったと思った。だけど次の日すぐに彼は来てくれた。びっくりして、もうわたしは自分でもどうしたらいいか分からなくなってしまった。それで、それで、気づいたら……いつの間にか彼の胸の中にいました。わたしはそっと目を閉じました。そうしたら、海が見えました」

 わたしは頬がむず痒くなった。どうやらそれはほかの男たちも同じだったようで、みなしきりに自分の顔を撫でているのだった。

 ただ金仁範きんじんぱんだけがふっと笑って、

「ほう、海ですか」

 蘇蘇は碧の瞳をきらきらと輝かせて、

「はい、はっきりと見えました。わたし生まれてから一度も長安を出たことがないのに、それが海だと分かりました。とても広くて、深くて、ずっと漂っていたいと思う……」

「あっ!」

 淑梅が叫んだ。

 

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