二十三 燈台姫(五)

 薛定閣せつていかくの顔から笑いが消えた。

 真備まきびは続けて、

「蓋を開けて実際に猫がどうなっているか見るまでは、どちらかに決めることはできません。ですから、いまの段階では生きているのと死んでいるのとの、どちらの猫でもあるはずです」

 真備の説明を聞いて、わたしはますます混乱してしまった。

 生きていると同時に死んでいる猫?

「あれ、それだけか? おれの答えと違ったなあ」

 玄昉げんぼうが日本語で呟いた。

 薛定閣は驚いて玄昉の方を向き、彼を睨みつけて、

「いま、何と言った?」

 玄昉は爽やかな笑顔を浮かべて、今度は唐語で、

「失礼いたしました。では次はわたしの答えを申しましょう。わたしも途中からは真備しんびと同じ答えなのです。途中から、というのは、この箱に猫が入っていると決まったあとから、ということです。そもそもこの箱に猫を入れるところをわたしは見ていませんので、もしかしたら箱の中身は空っぽなのかもしれない。そうすると猫はいない。いない猫の生き死になどあろうはずもない。従ってわたしの答えは、猫が入っている場合には真備の答えの〝生きている〟と同時に〝死んでいる〟であり、加えて猫が入っていない場合には〝生きてもいない〟し、〝死んでもいない〟」

 真備がううむ、と唸って、

「そうか。まずそこからか」

 玄昉はにやと笑って、真備を肘でつついた。

「まあ、そうがっかりするな。この手の問答は、僧侶の方が得意だったりするものだ」

 二人のやりとりを薛定閣は黙って見ていた。

 やがて彼は震えながら立ち上がり、

「それが……おまえたちの答えか?」

 玄昉は首を横に振って、

「いいえ、最後の答えはまだ申し上げていません」

「最後の答えとは?」

 薛定閣の声はほとんどかすれていて聞き取りにくかった。

 玄昉は箱を指差して、

「この箱を壊しましょう。〝生きていて、それと同時に死んでいる猫〟なんて、こんな問答は馬鹿馬鹿しい。我々はもっと違うことで薛さまと楽しい議論を交わしたい。薛さまがこれまでに蓄えられた大いなる学識を、どうぞ余すこと無く我々に伝授してください。今日我々は薛さまにお会いして初めて分かりました。我々日本人が千里の海を越えてここへやって来たのは、まさに薛さまにお会いするためだったのです。これが最後の答えです」

 薛定閣は箱にゆっくりと近づいた。

 と次の瞬間、箱を床に突き落とした。

 箱の蓋が飛び、中が見えた。

 中は空っぽだった。

「おまえたち……なぜもっと早く生まれて来なかったのだ!」

 

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