二十三 燈台姫(六)

 薛定閣せつていかくは痩せた体をゆっくりと椅子に沈み込ませていった。

「ここに来た留学生たちは、生か死のどちらかしか答えなかった。理由を聞いても一か八かの勘のようなものばかりだった。さっきのような論理を展開したのはおまえたちが初めてだ……聞いていて楽しかった。おまえたちと議論をしたかったのはわたしの方だ……」

 薛定閣の体はどんどん縮んでいくように思えた。

 彼の姿を見ていてわたしは胸が痛くなり、とうとう涙をこぼしてしまった。

 薛はそんなわたしに気がついて、

「おまえはなぜ泣いているのだ」

 わたしは袖で涙を拭い、一礼した。

 わたしには自分の涙の理由がもう分かっていた。

「わたしも……友がほしかったから……」

 薛定閣は両手を机につき、下を向いた。

「持って行け。全部持って行け。燈台姫とうだいきも、その持ってきた宝物も。わしの書庫にある書物も全部おまえにやる。そして読むたびに思い出すのだ、わしの無念を。おまえがそれを知っていてくれさえすれば、わしはもう他に何も望むまい。いや、ひとつだけ願おう。来世では日本に生まれるようにと。日本には宦官がいないそうだな。遙か遠く海の向こうの小さな国。そこでおまえたちのような若者に生まれ変われるようにと」

 薛定閣は家人を呼び、わたしたちを書庫に案内させた。

 わたしたちは書庫の中に入って息を飲んだ。

 一千、二千……何千巻あるのだろう。

 おびただしい数の書物が部屋を埋め尽くしていた。

 真備まきびは目を輝かせて、

「でかした! 真海まうみ

と、わたしの肩を叩き、さっそく持って帰る書物の選定を始めた。

 わたしは初めて真備から褒められたのに、ちっとも心が弾まなかった。

 宦官として生きなければならなかった薛定閣。

 死んだ新羅人留学生。

 殺された燈台姫たち。

 彼らの無念の代償が、これらの書物なのだ。

 玄昉げんぼうが真備を制した。

「真備、いまは止せ。どうせ全部持って帰れぬのだから、あとで家に送り届けてもらおう。それより燈台姫だ。外で真成まなりたちも待っている」

 未練たらたらの真備を引きずって屋敷の門まで行くと、はたしてそこでひとりの痩せた十三、四くらいの乙女が待っていた。

 少し傾いた日の光の中で、化粧もせず白い上衣と薄い青のくんを身につけた細身の彼女は、なんだか少年のようにも見えた。

 彼女はわたしたちの姿を見ると顔をこわばらせて後ずさった。

 玄昉が乙女に優しく声を掛け、四人は門の外へ出た。

 塀の陰に隠れていた真成と金仁範きんじんぱんが飛び出してきた。

 金仁範は燈台姫を見ると、

「上手くいったんだな! ああ、きみが燈台姫!」

と、いきなり乙女を抱きしめた。

 慌てて真成が引き剥がし、乙女に謝った。

「大丈夫か? すまない、恐がらせてしまって。どこか痛いところはある?」

 燈台姫は首を横に振った。

「そうか、よかった。きみが無事で本当によかった。もう誰にもきみを笞打たせたりしないよ」

 真成は彼女に優しく笑いかけてから、真備に向かい、

「兄さま、答えは合っていたんだな?」

「いいえ、わたしのは合ってはいませんでした。合っていたのは玄昉の答えです。真成、玄昉はやはり僧でした」

「それはどういう意味?」

「惑い苦しむ衆生を救いへと導く手伝いをする。こんな説明でいいでしょうか? 玄昉」

「ああ、なかなかいい」

 玄昉は歯を見せて笑い、興奮冷めやらぬ様子の金仁範に、

「薛定閣はもう悪さはしない。さあ、帰ろう」

 金仁範が燈台姫を連れ帰ることになった。彼は彼女を知り合いの女の家へ預けると言った。

 燈台姫はわたしたちの方を何度も振り返りながら去って行った。玄昉も帰った。

 崇義坊すうぎぼうへと急ぐ道の途中で、屋敷の中で何があったかを聞いた真成は、

「兄さまはどうやってその答えを思いついたんだ?」

「実はあの元蘇蘇げんそそのおかげなのです」

「元蘇蘇? 胡姫の?」

「はい、彼女はわたしに二つのことを教えてくれました。一つは、一瞬先のことだって、何が起きるかは絶対に確実には分からないこと。もう一つは、常に答えは正解と思うこととその反対、つまり正と反、二つ用意しておけということです」

 真成はにやりと笑って、

「ふうん。なら兄さまは彼女にお礼をしないといけないね」

 真備は立ち止まり、

「きみ、何を企んでいるのですか? ……あっ」

「どうしたんだ?」

「真成、きみですね。彼女にわたしの家の場所を教えたのは」

「じゃあな、兄さま。おれも急いで宿舎に帰らなくちゃ」

 真成は走り出した。

「あ、こら、待ちなさい!」

 翌日、薛定閣の屋敷から荷車十台分の書物が真備の家に届けられた。

 下女のそん婆さんは目を丸くした。真備は用足壺ようたしつぼを机の下に置いた。壺の始末をする日々がまた始まるのかと、わたしはげんなりした。 

 数日後、金仁範が取った宿の一室に、仲麻呂、吉麻呂、真成、書物に取り憑かれて返事をしない真備の代わりにわたし、の四人が集まった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る