二十三 燈台姫(二)

 一方の仲麻呂の声は落ち着いたままだった。

「はい、そうです。確かに彼女はこう言いました。〝人の見てげんとがめせぬ夢にだにまず見えこそ我が恋止まん(ひとが見咎めることのないわたしの夢の中に、どうぞ絶えることなく現れてください、そうしてくださることでやっと、あなたを恋い慕うわたしのこころは鎮められるのです)〟」

「本当か? 初めてその屋敷に行ったんだろ?」

「はい。びっくりして彼女の方を見ると、彼女はすすり泣いていました。手の上の燭台が揺れて床に落ち、宴の場は騒然としました。せつさまは怒って家人に彼女を笞で罰するように言いつけ、彼女は下男たちに引きずられて行きました。わたくしは突然の出来事に、もう琴の音も耳に入らず、どのような詩も作ることができませんでした」

「なぜ彼女はやまとうたを? もしかして日本人だったのか?」

「日本人ではないと思います。発音がおかしかったので。歌については、わたくしが思うに、昔どこかの宴で日本の遣唐使が歌った歌を覚えていた薛さまが、日本人のわたくしを驚かせようとしてあの燈台姫とうだいきに教えたのかも知れません。燈台姫そのものについてはあとで友人に尋ねたところ、やはり貴人の中には客を喜ばせようと変わった趣向を凝らす方がたまにいるのだとかで、その友人はさほど驚いてはいませんでした」

「そのあともうその燈台姫には会わなかったのか? 薛の屋敷に泊まったんだろ?」

「はい、泊まりました。横になっていると先ほどのやまとうたがまた聞こえてきました。燈台姫がわたくしの部屋の前で歌っていたのです。わたくしが扉を開けるか迷っているあいだに、燈台姫は家人に見つかって怒鳴られ引き戻されていきました」

「その後は?」

「吉麻呂が宴のお礼を持ってお屋敷に参りましたが、その後薛さまとのお付き合いはありません」

「それでおまえは何に困っている?」

 仲麻呂は珍しく少しくぐもった声色になって、

「燈台姫が毎晩わたくしの夢に現れるのです。夢の中で彼女は笞打たれていて、わたくしに泣きながら助けを求めるのです。目覚めるとわたくしは汗びっしょりになっていて、体中疲れきってしまっています。このままでは科挙を受けきる体力がありません。そのうちこの夢も見なくなるだろうと思っていたのですが、夜眠れないあまり最近は昼間に眠くなるありさまです。真成兄さま、真備兄さま、どうしたらいいでしょうか」

「うーん、おれもすぐには思いつかない。生き霊の類いかもしれない。玄昉げんぼうにも相談していいか?」

 仲麻呂は静かにはい、と答えていた。

 仲麻呂は宿舎の門まで送ってくれた。吉麻呂よしまろは東市に用があるからとついて来た。

 真成まなりは吉麻呂に、

「外で聞いていたんだろ。どう思う?」

 吉麻呂は頭の後ろに腕を組んで、

「どうもこうも。その燈台姫に惚れたってことだろ。まったくそんなことかよ。だったらもう一回薛の屋敷に行って、それなりの銭渡して一晩貸してください! で終わりだろ。心配して損した」

「そう言うな。案外難しい一件かもしれないぞ。なにせ本人もまだ自分の想いに気づいていないようだったから」

「おれもあいつと一緒に暮らすようになって長いけど、そこら辺のことはまだ謎なんだよなあ。太学の連中と妓楼にも行くし、全く女に興味ないわけじゃないらしいけど、好みとか未だによく分からねえ。おまえらの字三人組みたいに、幼な顔なのが好き、腰細いのが好き、胸広むなひろが好き! って顔に書いてありゃいいんだけどな」

「書いてない! 勝手なことを言うな」

「勝手じゃないぞ。金仁範きんじんぱんからおまえらの好みを聞いたんだよ」

 それまでずっと黙っていた真備が、

「真成、玄昉に相談すると言っていましたが、どうでしょう、こういう困り事の解決にはそれこそ金仁範が適任なのでは?」

「兄さま、おれもそれは思った。だが金仁範の力を借りると、ほらこないだの崔温嬌さいおんきょうの件みたいにきっと高くつくぞ」

 吉麻呂はあとは任せると言って戻っていった。

 わたしたちは二手に分かれた。真備は玄昉のところへ、真成とわたしは金仁範のところへ。

 ありがたいことに金仁範は家にいた。真成はさっそく彼に燈台姫の話をした。

 聞き終わった金仁範は、彼にしては珍しくしばらく無言だった。

 ようやく口を開いたとき、彼の端正な顔は怒りで震え、青白くなっていた。

「薛定閣の屋敷の燈台姫! 再びこの言葉を聞こうとは……許さぬ」

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