二十二 いたずら鞠(四)

 元蘇蘇げんそその姿を見ると真備まきびは二十歳は老けた顔になって、

「蘇蘇さん、どうしてここが分かったんです?」

 蘇蘇はくすっと笑って、

「あら、だってわたしはあなたの妻ですもの。夫の居場所くらいすぐ分かるわ。ねえ、あなたがわたしの名を呼ぶのが好きなの。呼んでみて」

「蘇蘇さん、困ります。お引き取りください」

「うふっ、なんておかしな発音なのかしら! もう一度言って」

「蘇蘇さん、お願いですから」

「うふふ!」

「……ああ、そうか。間違えた」

「どうしたの?」

「やっぱり帰ってはいけません」

「なあに? 急に」

「ずっとここにいてください。帰しません」

「嫌だわ、恐い! わたし帰るわ」

 わたしはお茶を出そうと部屋に入ったのだが、二人の邪魔をしてはいけないと、後ろ足で下がって行った。

 と、背中が何か柔らかいものにぶつかった。

 驚いて振り向くと、そこには顔をこわばらせた崔温嬌さいおんきょうが侍女とともに立っていた。

「うわあ!」

 わたしは手に持っていたお盆をひっくり返した。

 崔温嬌はつかつかと部屋の中に入っていくと元蘇蘇を指差し、

真備しんび、このうるさくて恥知らずな客人はどなたですか?」

 真備が口を開こうとすると、元蘇蘇が前に出て笑みを浮かべ、

「まあ、もしかしてあなたさまが真備の妻になりそこなった崔家のご令嬢ですかしら? ご挨拶申し上げますわ。わたしは元蘇蘇、真備の妻ですの」

 崔温嬌は真っ青になり震えながら、

「妻ですって? どういうことですか、真備」

 元蘇蘇は真備にしなだれかかり、

「ねえ、あなた、はっきり言ってあげて。あなたは彼女じゃなく、わたしを妻に選んだんだって」

と、いきなり真備の目の下のほくろをちょんとつついた。

 崔温嬌ははっと息を飲んで、目に涙を浮かべた。

 真備は眉間に皺を寄せ、口をぎゅっと結んで蘇蘇を見つめて黙っていた。

 崔温嬌の後ろにいた侍女がふん、と鼻を鳴らして、

「お嬢さま、こんな女、相手にすることありませんわ。どうやら妻と言ってもいわゆる〝一夜妻〟のようですわ。真備さま、この家は温嬌お嬢さまのお力で借りたことをお忘れ無く。もしこの女をまたこの家に入れるようであれば、出て行っていただきます。お分かりですね?」

 真備は蘇蘇から視線を外し、うなずいた。

「分かっております」

 途端に蘇蘇は真備を突き飛ばした。

 彼女は真備を睨みつけ、それから急に笑い出して、

「ふふふ! 何もかも冗談ですわ! 崔お嬢さま、どうかお気を悪くなさらないでくださいましね。無垢で世間知らずなお嬢さま、可愛い可愛いお嬢さま! わたしはもう帰って二度と来ませんけれど、最後にお嬢さまにひとつ世の中のことを教えて差し上げますわ!」

 崔温嬌は蘇蘇に気圧されておずおずと、

「どういったことをでしょう?」

「お嬢さま、胡の男とも唐の男とも違って、真備の髭は柔らかくてちっとも痛くないんですの。ああ、思い出したらからだ中がくすぐったいわ!」

 侍女が飛び出てきて蘇蘇を平手打ちした。

「このあばずれ! 出てお行き!」

「出て行きますとも! ごきげんよう、お嬢さま。さようなら、日本人!」

 蘇蘇は涙に潤んだ瞳で真備を見ると、ぱっと笑顔を作って見せた。それからぷいと顔を横に向け、部屋を走り出て行った。

 部屋は静まり返った。その静けさにいたたまれなくなって、わたしは床に飛び散ったお茶の器を片付け始めた。

 真備は崔温嬌に頭を下げた。

「ご無礼をはたらきました。お許しください」

 崔温嬌は首を横に振った。

「いいえ、あなたは何もしていません。これからも学業をがんばってください。わたくしはそれを言いに今日ここへ来ました」

「ありがとうございます。お嬢さま、わたしからひとつお願いがございます」

「何でしょう」

「お嬢さまも、もうここへはお出でにならないでほしいのです」

 崔温嬌はびっくりして真備を見上げ、

「どうしてですか?」

「あなたさまはこれからご結婚なさる方です。夫以外の男のところへ来るべきではありません。それに」

「それに?」

「あなたさまは一度はわたしを夫に選んだ。ということは、あなたさまは一度わたしの妻でした。ほんのいっときのことですが、わたしの妻でした。自分の妻だったひとが、他の男のものになったのを目の前で見るのは辛いことです。だからもうお越しにならないでください。わたしを苦しめないでください。何かご用があるときは他のひとを寄越してください。あなたさまの幸せを、ここでずっとお祈り申し上げています」

 わたしは真備の言葉にびっくりして手をすべらせ、割れた茶碗のふちで指を切ってしまった。

 崔温嬌は呼吸を荒くし、上下する胸を手で押さえ侍女を振り返って、

「まあ、どうしましょう。わたくし、もう何も考えられないわ。本当にどうしたらいいの?」

 侍女は倒れそうな令嬢を支えて、

「お嬢さま、帰りましょう。真備さまのおっしゃるとおりですわ。顔を合わせなくてもお嬢さまはこれからも真備さまの学業を応援することはできますし、真備さまもお嬢さまの幸せを願い続けてくださる。それが一番いいのです。さあ、行きましょう」

 崔温嬌が帰ると、真備は椅子に座り込み、一度天井を見上げて、

「ああ」

と深い溜息をつき卓に突っ伏した。

 わたしはそっと部屋を出て行こうとした。

真海まうみ

 真備に呼び止められて、わたしは飛び上がりそうになった。

「はいっ」

「金仁範に伝えてくれ。教えられた通りにしたと」

「わわ、分かりましたっ」

 次の日わたしは金仁範のところへ行った。

 金仁範は伝言を聞いてほう、と感心した。

 彼はわたしが指を怪我しているのに気がつき、どうしたのかと尋ねてきた。

 わたしは自分の指を見てなぜか元蘇蘇の最後の笑顔を思い出した。

 金仁範にわたしはなんでもない、ただのかすり傷だと答えた。

 指よりも胸が痛かった。

    

  

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