二十 義兄弟(六)
「
「分かりました。失礼しました。帰ります」
真備はきびすを返した。
元蘇蘇は慌てて、
「待って! いったい何の用で来たの?」
真備は振り返り、
「何の用もありません。では」
「待ちなさいってば! 何の用もないのに来たなんて信じられないわ。暮鼓が鳴ってるのよ? それに後ろの彼は誰?」
元蘇蘇は
真備は答えた。
「弟です」
元蘇蘇は真成をじろじろ見て、
「弟? 全然似てないわね」
真成は元蘇蘇の無遠慮な視線に眉をひそめながら、
「兄さま、この方は確か……」
真備はちらと元蘇蘇を見た。
元蘇蘇はその一瞥に気がつくと、意地の悪そうな笑みを浮かべ、
「ねえ真備、あなたは弟に、わたしを何だと紹介するの?」
真備は顎に手をやって少しのあいだ考えていたが、真成に向かい、こう言った。
「弟よ、紹介しよう。彼女はわたしの妻の元蘇蘇だ」
真成はぽかんとした。わたしもだった。
なんと元蘇蘇まで口をあんぐり開けていた。
が、元蘇蘇はすぐに我に返ると叫んだ。
「あなたの妻ですって!? ふざけないで!」
元蘇蘇がげんこつを振り上げた。
と、そのとき家の方から男の声がした。
「蘇蘇、何の騒ぎだ?」
出てきたのは初老の男だった。
男は真備を見て、
「おお、いつぞや、わしの店に書物を借りに来た日本人の学生さんだな?」
男は元蘇蘇の父の
真備は一礼した。
「はい、その節はお世話になりました」
「いったいこんな時間にどうしたのだ。もう暮鼓が鳴り終えるぞ」
元蘇蘇が割って入った。
「お父さま、このひとたち西市で遊んで帰ろうとしたら道に迷って、あげくに財布も
元蘇蘇は少し離れたところでわたしたちの話を聞いていた門番に尋ねた。
門番は薄ら笑いをしながらうなずいた。
元淼は小首を傾げて、
「西市からうちへ? それはまたずいぶんと迷ったものだな」
「ねえ、お父さま。わたしもこのまま放り出すのは可哀想だと思いますわ。一晩くらい泊めてあげませんこと?」
「まあ、いいだろう。珍しい日本の話を聞かせてもらうとするかな。学生さんたち、さあ、入りなさい」
元淼はわたしたちを家の中に招き入れた。
家には胡人の先客がいた。胡の国から元淼の店に商品を運ぶ商隊の隊長だった。
彼は快くわたしたちの同席を許し、砂漠と険しい山々の向こうにある彼の故郷の国の話を聞かせてくれた。
その国では彼の目の色のような紺碧の宝石が多く取れるとのことだった。
真成は黒い瞳を輝かせて聞いていた。
胡人の男は国から持ってきたという葡萄酒を飲ませてくれた。男はとても酒が強くて、わたしたち真の字三人組の杯にもじゃんじゃん酒を注いだ。
わたしたちは三人ともへろへろになってしまった。
寝るのに使っていいという部屋に通されると、真備、わたし、真成はもうたまらずに吐いてしまった。
「ごふっ、ごふっ」
「うええー」
「はあ、はあ……なんだかさっそく馬鹿をやったような気がする。なあ、兄さま」
「そうですね」
「兄さま、この際酔った勢いで訊くけど、元蘇蘇を妻と言った理由は?」
「それも馬鹿をやったうちのひとつです。眠い。おやすみなさい」
真備は寝台に長い体を横たえて、わざとらしく大きな寝息を立てた。
真成もそれ以上何も言わずに長椅子に伏せた。
わたしももうひとつ用意されていた長椅子に横になり目をつむったが、吐き気でなかなか眠りにつけなかった。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
ふとわたしの鼻に甘い香りが入ってきた。
わたしはうっすらと目を開けた。
視界の端を何かがゆっくりと動いている。
わたしは恐る恐る視線をそちらに向けた。
動いていたのはひと。美しいひと。
元蘇蘇だった。
彼女はこちらに背を向けて寝ている真備に近づいて、彼の耳に何か囁いた。
真備はゆっくりと起き上がった。
元蘇蘇は彼の手を引き、二人は部屋の外へ出て行った。
わたしはもう吐き気よりも胸の高鳴りで眠れなくなってしまった。興奮して叫んでしまいそうだった。
ああ、我慢できない、いま目の前であったことを真成に言ってしまいたい!
それも酔った勢いだったのか、わたしは眠っている真成の耳に口を寄せて、
「真成さまあ! 真成さまあ!」
「うるさい!」
真成はいきなりわたしの頬をげんこつで殴った。
わたしは痛みでようやく気が遠くなり、そのまま後ろにひっくり返って眠ったのだった。
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