二十 義兄弟(二)
「
「気にしないわけないだろ! きみは、きみは、その顔ではもう……畜生! おれが全員殴り返してやる!」
「やめろ。それこそあいつらの思うつぼだ。きみの方から殴らせて、
真成は駆け出した。
わたしは慌てて彼を追いかけた。
真成は喧嘩相手の部屋の前で怒鳴った。
「出て来い! おれが気に入らないのなら、おれを殴れ! いますぐ殴れ! どうした、出て来ないつもりか」
真成は扉を蹴った。
相手はのっそりと出てきてにやにやしながら言った。
「おいおい、もう遅い時間だぞ、そう
真成は口をきゅっと結んで相手を睨みつけていた。
相手はばん! と扉を閉めた。
わたしはそのときは知らなかったのだが、科挙では容姿が良いことも合格条件のひとつだった。
それに孝、親孝行であることをとても大事に考えている唐の国では、親からもらった身体を損なうことはとても悪い行いだった。
つまり顔に深い傷を負った張進志は、もうどんなに素晴らしい答案を書いても科挙には受からない、ということだったのだ。
真成は時折深く息を吸い、そして低く吐くを繰り返しながら無言で自分の部屋に戻って行った。
わたしは彼に話しかけられずにただ後ろを歩いた。
部屋の前には
真成は真備を見ても何も言わなかった。真備も真成に言葉を掛けなかった。
真成は部屋に入り寝台に横になると体を壁の方を向けた。
真備はそんな真成の背を見届けたあと静かに扉を閉め、事情をわたしに尋ねた。
何があったか知った真備は眉根に憂いを溜めて、
「
「はいっ」
「おまえは朝までここにいろ。わたしは張進志の様子を見に行く」
「はいっ、かしこまりました」
「……頼む」
真備は歩いていった。
わたしは真成の部屋の扉の前に膝を抱えて座った。
しばらくすると扉の向こうから真成の声がした。
「真海、そこにいるのか?」
わたしは扉に頬を寄せた。
「はい」
「おれは大丈夫だ。おまえももう部屋に帰って休め」
真成の声は元気がなかったが、いつもの優しい響きはあった。
「でも、真備さまにここにいろと……」
「心配ない。心配するな。真海、いつもおれのそばにいてくれてありがとう」
わたしははっとなって扉に取りすがった。目から溢れてきた涙を戸にこすりつけた。真成の姿が見たかった。
わたしはいま自分の中に沸き起こっているこの思いをどうやって言葉にしたらいいか分からなかった。
感激? いや、違う。もっともっと大きくて、深くて、温かい……。
わたしは一番ふさわしい言葉をすぐに見つけられなかった。
結局わたしの口から出たのは、
「わたしの方こそありがとうございます。わたしをあなたさまの
違うんだ、もっと違うことを伝えたいんだ。彼がおれにもたらしたものを。
ほら例えば、李先生の家で初めて彼と話をして、彼がおれのことを知っていたと分かったときの驚き。
「おまえが傔従になってくれてよかった」と、肩に手を置いたときの驚き。
目を輝かせながら真備におれを「凄い」と紹介したときの驚き。
遣唐使船上で手を汚してまで鼻血を拭いてくれようとしたときの驚き。
そうだ、思い出したものすべてをそのまま、彼に今から伝えよう。そうしたら彼の方がおれの伝えたい「何か」が分かるかも知れない。
わたしは再び口を開けて言葉を出そうとしたが、その前に真成の声が届いた。
「真海、おまえを傔従に選んだのはおれじゃない。おれは
わたしは喉元まで出てきていた思い出全部を飲み込んだ。
頭が混乱した。
真成は何を言いたいのか。
「だからまず第一に真備に仕えてくれ。分かったな? さあ、もう部屋に帰れ。おれも疲れた。だけどおまえがそこにいると、おれは気になって眠れないから。頼む」
「……分かりました。おやすみなさい」
飲み込んだ思い出は、すべてそのまま重い岩のような塊になって胸底へ沈んで行った。
翌朝、やっぱり真成のことが心配だったわたしは起きてすぐに彼の部屋に行こうとして、向こうから駆けてくる真備と出くわした。
真備はいきなりわたしの胸ぐらを掴み、
「真成はどうした? どこにいる?」
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