十九 遊仙窟(二)

 女は黒い髪を高く結い上げ、金色のかんざししていた。簪には丸いみどり色の宝石の飾りが揺れ、耳飾りも同じ碧色のものだった。

 そればかりではない、彼女の瞳も少し碧がかっていた。

 白い肌、高い鼻、長い手足、細い腰。

 彼女が西域の人々、いわゆる胡人こじんの血を受け継ぐ女人だということは一目で分かった。

 胡女は微笑み、しなやかにお辞儀をした。

「こんにちは、しんさま」

「……元蘇蘇げんそそさん、どうしてここに?」

 真備の声は低くかすれていた。

 元蘇蘇は細い腰を振りながらこちらに歩いて来て、

「忘れ物を届けに来たの。昨日うちに来て、忘れていったものがあるでしょ?」

「わたしは何も忘れていないはずですが」

「あら、そう? じゃあこれは持って帰るわ」

 元蘇蘇は門の陰でこちらを伺っていた彼女の下男とおぼしき胡人の男に目をやった。

 真備は下男が抱えている包みを見て、

「待ってください。一応中身を確認させてください」

「いいけど、早くしてよね。わたし忙しいの。すぐに帰らなくちゃいけないんだから」

 真備は包みを少し開くと、

「あ、これは……どうして?」

「だってあなたには大事なものなんでしょう? 重たいから今日はこれしか持って来れなかったわ。残りはいつでも取りに来ていいわよ」

「ありがとうございます。ではここにいるわたしの傔従けんじゅうに取りに行かせます」

 真備はわたしを指差した。

 元蘇蘇はぷうっと頬を膨らませて、

「だめよ! 大事なものなんだから。あなた自身が取りに来てちょうだい。じゃないと渡さないから」

「……分かりました。わたしが行きます」

「昨日みたいにちゃんと学生の格好をして来るのよ? さもないと物乞いと間違えて、門番があなたを追い払ってしまうかもしれないから。それとあなたが来ても、わたしはもういちいち顔を出さないわ。さっきも言った通りわたしとっても忙しいの。じゃあ帰るわね」

 元蘇蘇はふん! と鼻を鳴らして帰って行った。

 彼女の姿が門から見えなくなった瞬間、周りにいた学生たちが真備に詰め寄った。

「おい倭人! なんだ、あの女?」

「何もらったんだよ?」

「彼女の家に行ったって? 何しに行ったんだよ!」

 もみくちゃにされている真備を真成とひとりのからだの大きな唐人学生が引っ張り出して、真成の部屋まで連れ帰った。

 真成は唐人学生に、

張進志ちょうしんし、ありがとう」

 張進志と呼ばれた、真成より少し年上くらいの四角い顔でひたいの広い唐人学生はにこと笑った。

「なに、大したことじゃないさ」

 張進志は真成にとって唐で一番最初にできた友だった。

 彼は出身はしょくというところで、郷里の学校で大変優秀だったので推薦されて都長安の四門学に編入し、阿倍仲麻呂あべのなかまろと同じく科挙合格を目指して勉学に励む真面目な青年だった。

 真成は張進志がいるので唐語のまま真備に尋ねた。

「兄さま、さっきの女は誰だ?」

 真備は受け取った包みを開きながら、

「彼女は元蘇蘇というひとです」

「どこで知り合ったんだ?」

「彼女の家でです」

「なぜ彼女の家に行ったんだ?」

 真備は包みの中を見せた。

「これのためです。玄奘げんじょう法師のあらわした『大唐西域記だいとうさいいきき』。わたしは玄昉の頼みでこれを借りに、元淼げんびょうというひとがやっている西市の胡物を扱う店に行ったんです。玄昉いわく、“自分が今いる寺にもあることはあるが、意地の悪いやつが見せないようにしている。だがなんとか読みたいと思っていたところ、たまたま西市の胡物商の元淼が持っていることを耳にした。自分は寺の規則が厳しくてなかなか外出できないが、きっと日本人が借りたいと言ってきたら向こうは珍しがってただで貸してくれるだろう”と。わたしも読んでみたかったこともあり、代わりに借りに行くのを引き受けました。初めてお伺いするのですから、わたしが留学生だとすぐに分かってもらえるように白衣を着て行きました。でもまさかあんなひどい目に遭うとは思いませんでした」

 真備の昨日の不機嫌の原因は、その「ひどい目」だったのだ。

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